女子短大の一年の終わり

女子短大の一年の終わりが近づくと寮生達はざわついていた。窮屈な寮生活が終わり自由な自分たちだけの暮らしが始まる、そのための部屋探し、そのためのざわつきだ。

大学は東京にあったが生徒は地方からの女性が多かった。大学はその朴訥とした田舎育ちの若い女性たちを、オートメーションのインスタントラーメン量産と同じ扱いをし、同じ型にはめようとしていた。(と私は思っていた)

『良妻賢母』と言う大時代的なモットーを校訓にかかげ、まるで良妻賢母にならなければ卒業は出来ないとばかりに、何かの集まりがあると学長、寮監その他大勢の大学関係者が、暗い目をして私達を睨みつけていた。大学のスローガンはすべての学生を良い妻、賢い母だけに育てると言う事にあった。(と私は思っていた)

ところで部屋探し、アパート探しも山場を迎え、まだ部屋の見つからない寮生たちはやきもきしていた。ある日部屋探しから帰って来るとある学生が「ねえ、いい部屋見つかった?」と聞いて来た。

私が見に行った部屋はアパートではなく庭付きの民家で、その一間を貸すと言う条件だった。私は田舎育ちで家の前には大きな野菜畑や花畑があったので、庭のある家なら望むところだった。だが部屋代が高すぎて借りるのはやめると言うと、その学生が「その家の様子をイラストに描いてくれ」と言う。

「いいわよ」気軽に引き受け私は青と赤、二色カラーのボールペンを取り出しサラサラとペンを滑らせ庭の様子を描いた。家の様子は記憶に無かった。

その庭は非常にまれな様式をして、一言で言えばアマゾンのジャングルの一角を見るようなときめきがあった。高温と降水量の多さで天高くそびえるように生育した巨大な樹木、その幹に寄生する羊歯、苔、ラン等雑多な植物。

そして木の根元に生えた赤いアンスリューム、その赤い花、いや花のように見える赤い部分は実は葉が変色したものと後で知った。本当の花は、その赤い葉の真ん中に突き出ている黄色い棒の様な物だそうだ。

それらの赤く変色した葉たちは怪しげにささめきあっている。何か企みを持ち仲間同士で囁き合っている。だが赤い葉の中にはどす黒く変色し命の終わりを告げた者もいる。そのどす黒さを出すために私は、赤色の上から青色で陰影をつけた。

むんむんとじっとり濡れたような原色の濃い緑色の世界、熱帯雨林の世界。それが東京の民家の庭として存在している。不思議な幻をみているようだった。

数時間して帰って来た彼女は私を睨みつけ「嘘つき!こんな場所どこを探してもなかったわよ」と私の描いたイラストを私の胸に押し付けた。後日暇がてらに私は一人でもう一度その場所に行って見たが、驚いた事に私の絵の庭は本物とは似ても似つかないものだった.

私はその頃古本屋からずっしりと重い植物図鑑を買い、暇さえあればページを開いていた。その頃としてはめずらしい全編カラー写真付きで、前持主の手垢など一つもついていない新品同様の品物でよけいに愛着も湧いた。その中に熱帯雨林のページがあり、それを常に眺めていた。ためにそれが強く網膜に刻み込まれたのに違いない。

図鑑の中で見たアマゾンの風景がまるでだまし絵のように、私をだまくらかしたのだ。

その頃私は軽いうつ病に罹っていた。東京の大学での楽しい学生生活を夢見て上京して見ると、待っていたのは暗い厳しい学生生活。そのギャップに私は気が狂ってしまった。それも悶々とした孤独の中での試行錯誤。私は救いようのない田舎者だった。

例えて言うなら空を見上げて涙ぐむ家なき子、そんな感じで私は術もなくうろうろとしていた。それはその後何年も続き、東京と故郷のはざまで、過去と現実のはざまで、普通の景色の中でだまし絵のような幻、白昼夢を見せられ茫然とした事が幾度もあった

うつ病になると自殺をしたくなると言うが、私は自殺をしたいとは思わなかった。そこまで深刻ではなかったうつ病だ。私はいつも家族の事を思っていた。

だがそんな事も遥か昔の出来事、今では楽しく自由で素敵な暮らしをしている。どんな精神病でもある日風船が割れるように、ぱっと吹っ切れるものかも知れない。すべての病がそうだとは言わないが。

気分が吹っ切れると今度は日常生活の中で、人々の暮らしや生活が舞台を見るように楽しめるようになった。そこにいる人々の心理や思惑が手に取るように解るようになった。まるで心理学者のように。

空恐ろしい事を書くようだが、これはある心理学者の本にも書いてあった。つまりうつ病を乗り越えると今度は他人の心理の動きが良く分かるようになると言う。

つまり私もやっと人並みの暮らしが出来るようになったと言う事だ。

アメリカ東海岸

アメリカ東海岸南部寄りにあるテネシー州、その郊外にある小さな田舎町。まだ初夏なのに鬱蒼とした雑木林の木々たちは、あまりの暑さにげんなりとうなだれている。その雑木林と道路一つ隔てた所にある一軒の瀟洒な民家。その家の庭にあるプールにクマの親子が水遊びをしている。

黒い熊で二匹の子熊がプールの中で互いに水を掛け合いはしゃいでいる。母熊はプールの縁で立ったまま、行ったり来たりしながら子熊たちを見ている。

ナナはポーチのカーテンの陰に隠れて熊たちの様子を見守っていた。時間は4時過ぎ、学校から帰って、母が用意したスナックを食べたばかりだ。するとリビングに居る両親の会話が聞こえて来る。

「またクマが来てるな」父親が言った。「ええ、また親子三匹で」母親が言う。「よく来るな、週に3回は来てるんじゃないか」「この暑さじゃ熊たちもたまらないんでしょ」母親が思いやりを込めた口調で言う。

「まあいいさ、プールで遊ぶくらいなら。熊を凶暴な動物だと言う人間もいるが、熊はもともと優しい動物なんだ。こちらが何もしなければ襲っては来ない」「そうだと良いけど」「ナナはどこにいる?」「ポーチで熊を見ているわ」父親はここでテレビのチャンネルをニュースに切り替えた。

7才のナナは2才の時今の両親に貰われてきた。本当の両親が交通事故で亡くなったからだ。

ナナは迎えに来た里親とアメリカに渡り一緒に暮らし始めたが、自分が日本人と言う人種で里親両親は白人と言う人種なのだと次第に分かって来た。

その事は大した問題ではないが、問題はナナが里親になつかない事だ。幼児の頃の記憶は殆どないのだから、自分の子として育ててくれた親になつかないのはわがままと言うものだ。だがこれは彼女の意思と言うものではなく本心なのだからどうしようもない。

里親両親はある晩ベッドの上でこんな会話を交わした。二人横並びに並んで天井を見ながらの会話である。「ナナが僕たちに懐かないのはどうしたものだろう」父親が言うと「ほんとに困ったものだわ、いつまでも他人みたいで」

「だがあの子は本当に素直で僕たちの言う事も良く聞く。成績もいいし非の打ちどころがない良い子だよ」「だから心配なのよ、ある日とつぜん豹変するんじゃないかと思って」すると父親は寝返りを打って妻に背中を向け、寝た振りをした。

妻は「ねえ、私は思うんだけど、ナナの本当の両親の魂が彼らが死んだ後に、ナナの体の中に入りこんで、彼女のすべてを支配してるんじゃないかしら。それを消し去る力が私達にはないのよ」そう言うと彼女は夫と同じ向きに寝返りを打ち彼の背中に顔を埋めた。

『血は水より濃い』と言う言葉をこの夫婦が知っているかどうかはともかく、この妻の言葉は核心をついているようにも聞こえる。夫はある国立大学の心理学の教授で妻はある小児科医のアシスタント。教授の夫はこのところオンライン授業が多く、家に来る熊を目にする事が多い。

二人は敬虔なキリスト教の信者で、『世界中の親に見放された子供たちを幸せにするための会』の会員でもある。だがその信念が強いだけに、養女の心にもう一つ入りこめない悩みとジレンマがある。

さて今ではポーチの手すりに両手を置きプールのくま達を見ているナナは、そろそろ立ち去ろうとする彼らの様子が分かった。プールから上がると、母熊はずぶ濡れの巨体をぶるんぶるんと4,5回震わせ、子熊もブルブルぐらいの可愛い調子で体を震わせた。

だがここで何を思ったか母熊はもう一度静かにプールに入った。子熊たちも同じくプールに入る。母親がプールの水面に腹ばいになると、その広い背中に二匹の子熊たちがワチャワチャとよじ登った。すると子熊を背中に乗せた母熊は犬かきならぬ熊かきでプールを泳ぎ始めた。

それほど大きくもない長方形のプールの縦の部分を端から端まで泳ぐ。その間子熊たちは行儀よく母の背中に座り、無表情だ。いつの間にかナナの里親たちもポーチに出て来てこの光景を見ていた。

やがて楽しい時間が過ぎると、熊たちはプールを出て庭の金網のフェンスの方に歩いて行く。ナナはいつものように熊たちに手を振って「バーイ バーイ」と大きな声でさよならを言った。

この時感動的な事が起こった。最後を歩いていた子熊が立ち上がりナナに手を振り返したのである。 単に手を上げただけかも知れないが、ナナには手を振っているように見えた。彼女は驚いた。今までになかった事だ。

彼女は両親を見上げて「とうさん、かあさん、子熊に私の気持が通じたのよ!」と声を上げ歓喜の表情を見せた。両親は彼女を強く抱きしめ何度もうなずいた。だが彼らは「気持ちが通じた」と言う養女の言葉を正しく理解しただろうか。

今まで何度も手を振ったのに一度も振り返さなかった。だが今日やっと振り返してくれた。やっと気持ちが通じたのだ、、、ナナはそう言ったのだった。通じ合わない心もやがて通じ合う時が来る、ナナの言葉にはそんな意味があった。ナナもまた里親と通わない心を寂しく思っていたのかも知れない。

その事を両親は正しく理解しただろうか。そうであってほしい。


  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


おいしそうな招待状をもらった

おいしそうな招待状を貰った。ポストカードサイズで絵柄面に、ムール貝、チーズ、パイナップル、ミニトマト、ブラックオリーブなどをイタリアンドレッシングでざっくりと混ぜ合わせ、緑の葉野菜の上に盛ってある写真が目につく。

その下に「あなたをフリーディナーにご招待、ご家族とご一緒にどうぞ」と書かれ、宛名面にレストランの電話番号、名前、住所、日時などが書かれRSVPと最後に念を押してある。

写真のムール貝サラダの盛り付けと自然な色合いが食をそそる。ムール貝は私の大好物。一人暮らしの私は誘うような家族も友人もいない。一人で行く事に決めた。

ネットでレストランを調べると家からそれ程遠くはなく、散歩の途中で取りすがりに見た場所である。無類の方向音痴で地図の読めない私は、家の近くで迷子になると言う経験を過去に何度もした。それで車の運転はもうしない。高齢と言うのも一つの理由だ。

ついでに言うと方向音痴、高所恐怖症、涙腺崩壊は私の特技で、これらを友に私は人生を楽しんでいる。

当日、レストランを目指しそぞろ歩きをして行くと、見慣れた十字路の交差点から緑色の大きな病院の建物が見えた。緑色の病院、このいつもの違和感を今回も無視し、この十字路を左に曲がれば目的のレストランに着くと見定め左に曲がろうとするが、それが一本ではない。大通りから折れた路地、それも広い道が何本もある。どれも左に曲がる道に見える。

どうにかこうにかレストランにつき中に入ると誰もいない。フリーディナーだから混雑していると危惧していたがそんな事もなかった。夏時間になったばかりの戸外は明るく、道路わきのユーカリの木枝が微風に揺れている。ホステスに案内され窓際の席に着き、招待状に印刷されたムール貝サラダを注文した。

ネットで検索したレストランの内部の写真は客で満席、野外席も満席。ヤシの木に飾られた水銀灯の下で談笑する大勢の客がとても楽しそうだ。ところがここでは閑古鳥が鳴いている。

おまけにいつまで経っても一人の客も来ない。「フリーディナーと言うのは、今日もやっているんですよね?」ウエイトレスに聞くと「はい」「じゃどうしてお客が来ないんですか?」すると彼女は無表情にこう言った。「いつもこんな感じですよ」

それで納得した。フリーディナーと言うのは客寄せ謳い文句で、普段は閑古鳥がないているこの店に、無料の晩餐と銘打って人を誘導するのだ。それを機に客を増やそうと言う魂胆だろう。この安易な手段にあきれもしたが、今さら店を出るのは面倒くさい。なりゆきまかせにする事にした。

見た目はそれほど悪くない店に客が来ない理由は何か?その謎ときの方が面白そうだ。

外は次第に薄暗くなって来た。ちらりと時計を見て「まだ日没までには間があるな」と思った。だがこの街の天候はあてにならない。水平線にいつまでも引っかかっていた夕日が、流れ弾に当たったかのように急にすとんと海に沈んでしまう。それから暗くなるのは時間の問題だ。徒歩で帰るつもりなので、ある意味不安だ。

やっと来たサラダに気を良くし、小皿に取ったムール貝の身をフオークで取りだし口に入れる。程よい硬さでドレッシングにワインを効かせてあるらしく、他の具材もおいしい。ついでに白ワインを注文する。

その時ドアが開き客が一人入って来た。長い黒髪の女性でサングラスをかけピンクの野球帽を被っている。野球帽にはLAのロゴが入っている。私も同じ帽子を持っている。親近感がわきじっと見ていると、彼女もちらりと私を見た。

ホステスは彼女に窓際の席を指定したが、なぜか彼女は私の斜め後ろの席に座った。空席は沢山あるのに私のそばに座る。それもかなり近い距離だ。やがて彼女は白ワインとムール貝サラダを注文しひっそりと食べ始めた。後ろから上目づかいに見られているようで落ち着かず、私は皿に残った一粒のブラックオリーブを指でつまんで口に入れた。

勘定を払おうとした時、「あっ、ただだから払わなくていいんだ」と思い出し、ちらりと後ろを振り向き彼女を見た。するとこの人も上目づかいに私を見たのである。

たった一杯のワインにほろ酔い加減になりながら、すっかり薄暗くなった戸外を急ぎ足で帰り始めた。タクシーを呼ぶような距離でもないので歩く方が早い。通りに歩く人は一人もいない。ヘッドライトとテールランプをつけ、華々しく行き来する車の多さに物寂しくなる。その時後ろで激しく咳をする声がしたので振り向くと、レストランにいたあの女性が後をつけて来ていた。

かすかな恐怖を感じガスステーションの隣にあるコンビニに入る。煌々と照らされた広い店だが客がいない。店員もいない。またもや無人の店かと辺りを見回す。だがこの店まで彼女がついて来るなら、何か魂胆があるに違いないと腹を決め身構えた。

すると自動ドアが開き彼女が入って来た。つかつかと歩みより私の目の前まで来て言う。「Mom you forgot your bag!」(おばさん、店にバッグを忘れたわよ)と見慣れた私のバッグを両手で差し出した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ダニエルはアニメ化した子豚

ダニエルはアニメ化した子豚のような可愛い顔にぽっちゃりした体を持つ男の子で、「子豚のように可愛い」と皆に言われた。だが彼は自分の見た目が大嫌いだった。だから「どうしてこんな顔に産んだの?」とたびたび母親のシルビアに文句を言った。

すると母親は泣きじゃくる。顔をおおって泣きじゃくる。何かと言うと泣きじゃくる母親なので、彼は隣家の同い年のリーリーを泣かせたような気になり愉快だ。だから母をからかうのをやめない。と言っても母を格別すきな訳でもない。

ダニエルは小学3年生。友達が出来ない、と言うより作らない。面倒くさいのである。

だが成績優秀の出来る子である。ある教師からは「君のIQはとても高い、平均値のかなり上だ、誇りを持ちなさい」と言われ、この教師が嫌いになった。彼は何であれ自分に関わろうとする人間には冷淡である。

こんな支離滅裂な男の子に大きな悩みがあった。それは彼の庭の大きなビワの木である。ある日隣家の女の子リーリーが囁いた。「ダニー、アンタの庭のビワの木だけどさ、あれとても悪い木なんだって」「悪い木?」「そう、あの木がある家には必ず不幸な出来事が起こるんだって」「誰が言ったの?」ダニーの問いに「インターネット」と彼女は答えた。

二人はその時ダニーの庭にいたので二人してビワの木を見上げた。そこには楕円形をした金色の実がびっしりとつき二人を見下ろしていた。昨夜降った雨で実はしっとりと濡れ、ポタポタと雨のしずくがその実から落ちていた。食べればうまそうだった。

リーリーは友達嫌いのダニーの唯一の友人で、大嫌いな兵士の遊びにも文句も言わず付き合ってくれる。兵士の遊びとは草むらに隠れて、前方に敵の兵士がいると仮定してオモチャの機関銃で彼らをやっつけるのだ。「バンバンバン」と鉄砲玉の音響効果も自分で作る。その時のダニーの顔ときたら真剣そのものである。

「リーリーと遊ぶのはやめなさい」ある日母親に言われてダニーは「どうして?」と聞いた。「彼女のお母さんに言われたのよ、二人は遊んじゃいけないって」すると彼はすぐ白い柵を越え隣の庭に行き、リーリーを呼んだ。彼女はドーナツを食べていたらしく、口の周りにドーナツのカケラをいっぱいつけて出て来た。

「僕と遊びたくないって君のママに言ったの?」彼が言うと彼女は首を振った。「ママがダメって言ったの」リーリーはクルリと回れ右して家の中に入り、ドーナツを二つ持って来て一つダニーに上げた。「沼に行こうか」彼がそう言うとリーリーはうんと頷いた。歩いて3分の所にあるこの小さな沼は、二人のお気に入りの場所で「沼に行こう」と言うのが二人の合言葉だった。

この沼はとても怪しげな沼で表面がどろどろの黄緑色の藻でおおわれ、時々ずぶっずぶっと奇妙な音がして藻の上に穴が開く。まるで厚い藻にふさがれた哀れな魚たちが、息苦しく上を向きあえいでいるようだ。思わぬ所にズブッズブッと穴が開くのを、身を乗り出して見ていたリーリーがバランスを失い池に落ちてしまった。

一人では無理と思ったダニーは、大急ぎでリーリーの父親を呼びに行った。リーリーは助かったが彼女の父親は激怒し「もう二度とここには来るな‼」と彼を頭ごなしに叱りつけた。そしてその足で隣家へ行きシルビアにも同じように怒った。泣きじゃくる事しか出来ないシルビアはただ泣くばかり。

リーリーの父親が帰るとダニーはトイレに入った。さっきからおしっこがしたくて仕方がなかった。ふと窓を見るとビワの実を三個つけた枝がすぐ近くに見える。彼はちゃんと手を洗いビワの実をもぎり一つ食べてみた。甘くておいしかった。

その時なぜか彼は父親を思い出し携帯で電話をする。「ヘイ、ダニー元気か。久しぶりだな、どうしてる?」いつもと変わりない父の声に「ヘイ、ダッド」ダニーは涙が出そうになった。世界で一番好きな父親だった。

拾って来たオブジェで室内の装飾品を作るのが好きなダニーのために、彼は良さそうな廃材を出先で見つけて来る。どれもセンスの良いものばかりでダニーはいつもそれらが気に入った。父親はダニーのアーティストとしての才能を見抜いていた。

両親は三か月前に離婚したばかりだ。喧嘩ばかりしていたママとパパが、やっと離婚したのでダニーはほっとした。

数日後シルビアを訪ねて若い男とその息子がやって来た。最近母親にできたボーイフレンド。大きなマーケットでレジ係として働くシルビアに出来た恋人は、やはり同じ店のレジ係だった。

案の定、ダニーはその子供が気に入らなかった。カウチに座って彼をじっと見るこの少年は、ダニーより一つ年上だ。デイトを重ねる度にシルビアのボーイフレンドは、息子を連れて来る。アダムはこの子は言い訳ばかりする頭の悪い子だと分かったので、もう話す気にもなれない。だがリーリーとはもう遊べない。

そんな日がだらだらと続きある夜ダニエルはベッドの中で考えていた。「ビワの木は悪い木だとリーリーが言った事は本当だった。彼女とはもう遊べなくなるし、ママには変なボーイフレンドが出来るし」彼はベッドの中で何度も寝返りを打ちついに決断を下した。「よし、ビワの木を切ってしまおう」

次の日の午後、学校から帰ると彼は、ガラージの隅にあった小型電動ノコギリを取り出して来た。これは拾って来た廃材を使いやすく切るために、父親がダニーのために買ってくれたものだ。小さくてそれ程重くなくダニーにも使いやすい。

ビワの木の根元の雑草を引き抜き程よい所にノコギリの歯をあて、スイッチをオンにする。父親の指導で何度もやった事がある。手慣れたものである。性能の良いノコギリで騒音もなく、直径10インチ程のビワの木は簡単に切り倒せた。

その後ダニーの家に幸せが来たかどうかは、もう少し様子を見なければならない。

 

 

僕はロスアンゼルスのある日系不動産

僕はロスアンゼルスのある日系不動産会社に勤務している。日系の会社としては成功している会社だ。支店もカリフォルニアに他に5件ほどあり会社名も日本人で不動産に興味のある人なら知らない人はいない程、良く知られた会社だ。

顧客の大半が日本在住あるいはアメリカ在住の日本人で、スタッフは日本語を話せる事が必須条件。それに伝統的な日本人の振る舞いや道徳、日本人魂も必要とされる。

そんなこの会社へ、最近若い男性がアトランタのアメリカの不動産会社から転勤して来た。彼は日本人と白人の混血で、どちらかと言えば白人に近い顏をしている。転勤の理由は本人の希望で、新世界への挑戦だと言う。名前をクリスと言う。

彼はフリーランスのエージェントで生まれつきの気品のようなものがあり、真摯な振る舞いで皆に好感を持たれた。

そんな彼がある日僕に話しかけて来た。「君はこの辺りの寿司レストランには詳しいですか?」「あまり詳しくはないけど」僕は本当の事を言った。ある日彼は満面に笑みをたたえながら言った。「僕の祖母が日本の浅草に住んでいて、数年前にそこに滞在したんです。そこでその近くの寿司屋に行ったのだけど、それが素晴らしい味でね」

間口がとても狭い店で薄汚れた暖簾が掛かっていた。引き戸を開けると縦に長いとても狭い店。頭に手ぬぐいを巻いた年寄りのシェフが寿司を握っていた。何となく薄暗く時代遅れの店と言う雰囲気である。

彼は一度ドアを開けたがすぐに閉めたと言った。再度開くと「らっしゃーい‼」とそのシェフが威勢のいい声で言い放った。つられてそのままカウンターに座りお任せ刺身を頼んだ。これは祖母のアドバイスだった。

シェフはその後黙りこくった。クリスはそれがなぜか分からなかった。それはクリスの日本語の話し方に起因していると僕は思った。彼は標準語を話す時、相手の目をじっと見て低い声で話す。まるで言葉を間違えないように、文法を間違えないようにと注意深くゆっくりと反芻しながら話しているようだ。

それが寿司屋のオヤジには奇妙に見えたのだろう。クリスはそれから、目の前のガラスケースの中の寿司だねをじっと見ているだけだった。

「だが寿司の味は最高だった。あんな寿司をもう一度食べたい。そんな店を知らないか?何となく薄暗く時代おくれのような小さい店、だが飛び切りうまい寿司を出す店を」その言葉がそれからはいつも僕の頭の隅にあった。

彼はほとんど会社では何もせず他のスタッフの現場調査や空き家調査について行く、でなければ突然休日を取ったりしていた。上司からは彼の素性を何も聞かされていなかったので僕たちは勝手に、縁故関係のコネクションで配属されたどこかの御曹司だろうと噂した。自由気ままに仕事をこなす彼を羨望する者もいた。

そんな日々が何日か続き社員たちの過剰な彼への興味も薄れてきた頃、僕は彼との約束を思い出した。時代遅れの老舗、だが味だけは天下一品の寿司屋を紹介すると言うあの約束だ。ネット検索、知人からの聞き込みで一軒良さそうな店を見つけた。

リトル東京のビレッジの近くにある寿司屋だった。60年近く開業している老舗で、味の評価は4つ星半だった。これで決まりだろうと僕は金曜日の夕方彼を連れて店に行った。

ここで思わぬアクシデント、店外に長蛇の列。予約の電話を二日前にしたのだが予約は取らないと店から言われた。その事を彼に言うと「予約しても連絡なしに店に現れない客がいるからね。最近は予約制をやめた店が多いそうだ」

クリスはそう言うと落胆した様子も見せずむしろ僕をいたわるような顔をした。しかたなく近辺をドライブした。やがてやみくもに運転していると小さな路地裏に迷い込んだ。古い寺があったりしてクリスはそれらを興味深く見ているようだった。

突然彼が言った。「この近くに兄が住んでいるんだ、ちょっと寄って見ようか?」と言う。「もちろん」僕は即座に答えた。彼の支持通りに運転していくと緩やかな坂を上った所で「ここに駐車して」と彼が言った。

そこは駐車場と言うより子供たちが草野球をするようなラフな場所で、あちこちに草が生えている。車を止め彼の後ろからついて行く。今度は緩やかな下り坂を彼は手慣れた風にさっさっさと降りて行く。やがて小さなトンネルの出口らしき所に出た。彼はさっさとトンネルの中に入って行く。線路のないトンネルだった。

そこに1張りの三角形テントがあった。「ヘイ、マックス!」クリスはテントの中を覗いた。そして中の人物と親し気に握手をした。「やあ、クリス」中から弱弱しい声が聞こえた。僕も握手をしようと右手を差し出すと彼は左手を出した。

帰りの車の中でクリスが言う。「マックスは右手の中指がないんだ。8才の時闇の組織に誘拐され、犯人は身代金2億ドルを要求して来た。父はこんな事は嘘っぱちだと取り合わなかった。すると彼らは中指が第二関節から切り取られたブライアンの右手の写真を郵送して来た。母は驚愕して気絶した。遅ればせながら父は犯人に金を渡した。

「マックスはその後釈放され帰って来たが二度と本来の彼に戻る事はなかった。今でも普通の暮らしを拒絶してホームレスをやめないんだ」クリスはそう言うと深いため息をついた。僕に紹介された時、顔をそむけたままの彼の兄からは荒々しい虚脱感だけが感じられた。

僕は彼の父親の名前を聞いた。それはアメリカでも有数の不動産会社のCEOの名だった。

その後僕は何度か別の寿司レストランに誘ったが彼は断った。兄を紹介した事をかなり後悔しているようだった。何か言われたのかも知れない。

クリスはそれから半年ほどしてLAの他の支店に移った。

激しい雨の朝

激しい雨の朝、父親は北の窓から外を見ていた。遥かな山のふもとが雨足で曇っている。あのあたり一帯に数日前山火事が起こり、全焼した家が何軒もあった事を彼は思い出す。その灰だらけの家にこの大雨では焼け出された住人もたまったものではないなと、彼は同情する。

牧場では放し飼いにされていた馬十頭のうちの一匹が、恐怖で暴れ出し山の中に逃げ出し今も行方が分からないと言う。まかり間違いこの家に逃れてきたら手厚く労わってやろう。彼はそんな事を意味もなく考え、手にしていたコーヒーを静かに口に含んだ。

やはり同じ日の午後、長女は南の窓から外を見ていた。目の前にある数本の木が雨に打たれ、まるで哀れな酔っ払いのように前後左右に揺れている。その向こうには大海原がある筈だった。彼女は海上をたたきつける雨の白い飛沫が見えるような気がした。

あの日彼女の婚約者は土砂降りのなか波乗りに出かけた。勇敢と言うか向こう見ずと言うか、そんな彼を長女は愛していたのだが。彼の右肩には錨の入れ墨が彫られ、彼女はそれに良くキスをしたものだ。すると彼はお返しに彼女の唇にキスをした。

だが彼はもういない。あの日、猛烈に降る雨の中のサーフィンで、荒波に巻き込まれるように彼は海の底に沈んでしまい、そのまま帰らなかった。長女はさほど心の痛みを感じなかった。彼女は若かったしとても魅力的な女性だったのですぐに新しい恋が来ると思った。

同じ日の夕暮れ、母親は東の窓から外を見ていた。雨は降りやまず、彼女は恨めし気に空を見上げた。約束していた3人の女友達とのゴルフもおじゃんになり、彼女は不機嫌だった。いや、ゴルフが出来ないからではなく、クラブハウスでのランチがお流れになった事が残念でしかたない。

そこに彼女のお気に入りのウエイターがいて、ランチのあと彼女は彼と軽口をたたくのを楽しみにしている。内に秘めた情熱が、自分で処理できない情熱がいつかは動き出し、取り返しのつかない事になりはしないかと彼女は心配する。だが彼女はまだ夫を愛している。

同じ日の夜、小雨の中を長男がバイクで帰って来た。少し飲んでいるようだ。バイクをガラージに入れキッチンに入って来た息子に、父親は小言を言った。「こんな雨の中、どこを今までウロツイテいたんだ」「どこにいたんだ」と普通に言えばいいものを「うろつく」と言う言葉で父は息子を嫌な気持ちにさせる。

「夕食前に帰って来たんだからいいだろ」と息子はあざとく父を見て皮肉った。幼い頃から「夕食までには帰って来い」ときつく言い聞かされてきたので、22才になった今でも外出先で夕食時になるとそわそわし出す自分の事など、父は何も知らないと彼は思った。

半年ほど前「獣医師になりたい」と父に告白すると「お前には無理だ」と獣医師の父は即座に言った。息子は父が喜んでくれると思ったのに、父はむしろ引き止めた。だが優秀な頭脳を持つ息子は、ペンシルバニア大学の大学院に受かり、すべてを奨学金で賄える算段までしたので父親は少し驚いた。新学期が始まると寮にはいる。

なぜ彼が獣医師になりたいかと言うと、単に動物が好きだからだ。とても幼い頃彼がまだ7才の時、道で野良猫に出会った。足にけがしてびっこを引いていたが頭を撫でてやると後をついて来た。とうとう家までついて来た。

父親が猫のけがを治してやった。息子はそのままその猫を家に置き可愛がったが8年後には死んだ。裏庭に埋めるその穴は父が掘った。その穴に猫を埋葬したが父はその後長い事動かず、じっと立っていた。長男がちらりと父の顔を見ると左頬にひとすじの涙が見えた。

その時は何とも思わなかったが大人になるにつれ、長男は無口な父の人格に敬意を払うようになった。それが獣医になりたい理由でもある。

夜になり家族はそれぞれの部屋の窓から、澄んだ夜空に光る星を見ていた。雨がやみすべてのチリやホコリが洗い流された空に、キラキラと光る星たち。父と長男、長女はとても清浄な気持ちでその優美な星のセレナーデに聞き入った。するとほのかに甘くうまい匂いがして来た。

キッチンに一人でいた母親がスパゲッティミートボールを作っているのだ。これは家族の大好きな料理である。彼女は何となく作って見たのだが思いの他、皆に喜ばれた。家族団らん、そんな気持ちに浸りたかった家族が食卓につどい、ナイフとフオークを使い思い思いにスパゲッティを口に運んでいる。

「母さんのスパゲッティミートボールはいつも最高だな」ナプキンで口を拭きながら、父親がぶっきらぼうに言った。家族の皆がその時うなずいた。長男は「大学の寮に入ればこのスパゲッティも今ほど頻繁には食べれないな」と少し寂しく思っていた。

僕、またあの女の人を見た

「僕、またあの女の人を見たよ」パープルカラーのパーカーが良く似合うエリックが言った。「あら、私もよ」ミアがすぐに反応した。ランチタイムのカフェテリア。4,5人の子供達の間に小さなざわめきが起こった。

「でも今まで隠れていたのにどうしてまた出て来たんだろう?」ツナサンドが大好きなポールが今日も同じサンドを頬張りながら言った。「隠れてるのが退屈なんじゃない」テーブルの端に座っていたエミリーがぼそりと言った。「そうかもね」これはミア。「僕は昨日、近くの林の中で見かけたな」

エリックがそう言うと彼らは急にお喋りをやめ中庭に走って行き、ウオールボールを始めた。これがこの頃の彼らのお気に入りの遊びだ。

あの女の人と言うだけでこんなに小学2年生の子供たちを興奮させる「女の人」とはいったい何者なのか。だが気が変わりやすい彼らの興味が瞬時に「女の人」からウオーターボールに変わるのはめずらしい事ではない。

子供達の間でそんな自分の噂話がされている事など知らないティナ。ティナはドッグウッドの白い花が舞い散る初夏の林の中を歩いていた。高い梢を飛び交う小鳥のさえずりを聞きながら、風が運ぶ花びらに頬を撫でられているととても優しい気持ちになる。

ブロンドの長い髪を風になびかせ歩くティナに、春色のシフォンのロングドレスがとても似合っている。春の息吹きに包まれ彼女は、わずかに酔いしれたような気になっていた。

「マミー、ルナ、少し疲れちゃった」振り向くとルナが立ったままティナをじっと見ている。

まだ2才の子供を長い間歩かせていた事にティナはやっと気づいたかのように、ルナを抱き上げた。「ごめんね、あなたの事をすっかり忘れていたわ」彼女は娘の頬にキスをした。そのキスで微笑みを思い出したルナは少し顔を上げあたりを見回した。

その頬にもう一度キスをしながら、「私のママはもうあの廃墟についてるだろうか?」ティナは心細く思った。廃墟とは林の中にある小さな小屋だ。この山の持ち主が何十年も前に(彼がまだ木こりだった頃)山で使う道具を保管して置いた小屋である。今はもう用済みの小屋。そんな小屋など周りの住人は誰も知らないすっかり忘れ去られた廃屋だ。

ティナとルナはそこに2週間以上も隠れている。彼らをこわがらせる恐ろしい男から逃れるために。そこを隠れ家に指定したのはティナの母親ハンナだった。「しばらくここに隠れていて。その間に私がもっと安全な場所を探すから」2週間分の食料と下着を詰めたバッグをティナに押し付けながら、母は可哀そうな娘と孫を小屋の中に押し込めると急ぎ足で去って行った。

それからティナは母がくれた大きな毛布を小屋の中に置きルナと一緒にくるまった。小屋の中には錆びついた大きな林業用の道具が押し込まれとても窮屈だ。

「そんなに私が憎いのなら私を殺して!今すぐ、さっ、早く!」夫のルークと会った最後の夜、平手で何度もティナの美しい顔を殴りながら彼は追いかけて来た。ベッドの上まで逃げて来た時、上に覆いかぶさって来たルークに「さあー早く首を絞めて!」見開いた絶望の目で彼を睨んだ。

するとルークは振り上げた手のこぶしでベッドを叩き悔しそうに自分の顔をおおった。いつもそうだった。彼は決してとどめを刺す事はない。それがルークの僅かな愛の名残りだと思うティナは、だからまだ彼のそばを離れない。

「彼の心にはデイモンが巣くっているのよ。それが時々出て来て悪さをするのよ。だから彼は決して変わらない」ハンナは一度そう言うと二人を別れさせようと躍起になった。いつ飛び出してくるかも知れない悪魔を飼う男と暮らすなんて危険すぎる。ティナもそうかも知れないと思う。

「君みたいにIQの低い女は僕はやり切れない」ルークは一度そう言い自分の髪をかきむしった。ルークは家の近くの高校でラテン語を教えて、学校では穏やかに生徒や同僚と人間関係を築くから家庭内の暴力など誰も知らない。

だが空を見たり花を見たりして優しい気持ちでいれば、必ずいつか幸せになると信じているようなティナを説得するのは並たいていの事ではない。林の中をつまらなそうに歩いていたルナがしゃがみ込み、野菊を摘み始めた。ティナもそれを手伝った。

ハイウエイの車の渋滞に巻き込まれたハンナはイライラしていた。林の中のティナに会うためにドライブしてるのだが、約束の時間に30分も遅れている。気まぐれなティナの事だから待つのが嫌で何をし出すか分からない。

「ルークはとても危険な男だ。ティナとルナの居場所をすぐに嗅ぎつけ襲いに来るに違いない。だからホテルや知人の家などもってのほか、二人を見つけられなければそれだけ彼の心のデーモンが暴れ出し、すぐに彼は気が狂ったようになる」ハンナは気が気ではなくサイドミラーからチラッと車の渋滞を見た。

「とにかくティナをどこか外国に住まわせよう」ハンナはそう思っている。スイスに彼女の姉がいる、そこにしばらく移住させようか、だがそれもせいぜい出来て3か月、いやルークの事だからそんな居場所などすぐに探り当てる、いやスイスまで追いかけて行くかも知れない。今度捕まえられたらそれこそ一巻の終わりだ」思いつめたハンナがハンドルに置いた両手をバンバンと数回叩いた。後ろの車がクラクションを鳴らした。

「マミー、アイスクリームが食べたい」ティナが作った野菊の冠を頭に乗せたルナが母を見上げた。「オーケイ」ティナは優しくルナを見つめ抱き上げ、明るい日差しが差し込む表通りを見た。車の往来が常より多い。そこにはルナの知らない世界がある。もちろんティナの知らない世界でもある。

林の中を行ったり来たりする頼りなげなティナとルナの姿は、表通りから見れば森の精の親子のように見えたかも知れない。

ティナはルナを抱いたまま小さな崖を降り沿道に出た。その時少し離れた場所でスクールバスが止まり、4,5人の子供が降りてティナとルナの方を見た。学校で一緒にランチを食べていた子供達だ。ルナが彼らに手を振った。彼らも手を振り返した。

そのマッチングアプリの案内人は、黒いスーツに白手袋と言う大昔の手品師のような恰好をしていた。人間離れした機械的な声でぺらぺらと喋る。だがその感情を押さえた声が、参加者をさらに本気にさせた。

案内人「このアプリには4件のコースがあります。まず初めに春の園、次に夏の園、それから秋、冬と続きます。園と言うのは男女が楽しめる小規模の大人向けテーマパークと言う意味で、春の園は春らしい映像の中で春の娯楽が楽しめます。もちろんアプリで出会った相手の方とです。夏の園は海ですね、泳いだりサーフィン楽しんだり、秋は、」ここまで言うと案内人は人差し指を立て、含み笑いをした。

案内人「皆さんのお気に入りの相手はすでに、それぞれの園の中に配属されています。小さなモデルとして画面の中に登場し、同じモデルのあなたとデイトをするのです。皆さんはゲームをする感覚でスマホを使って彼あるいは彼女との、楽しい時間を作って下さい。彼の映像をスクロールしたりチャットをする事も出来ます。時に思い通りに彼が動かない時がある。なぜなら彼がその事に興味がない、あるいは反対だからです。

相手のすべての情報はすでにアプリのアルゴリズムの中に導入されているので、あなた方が変える事は出来ません。あらゆる情報を駆使して相手の性格、キャリアをAIが算出している訳ですから、これは何物にも代えがたい真実なのです。だから嘘をついたり写真の加工修正などは出来ない。空港の検問と同じです。

ただこのアプリの優れている所は、自分たちのデイトのシーンを以前にスマホの画面を通して高みの見物が出来る所です。つまり本物のデイトの前のウオーミングアップですね。

ここでスマホの隅で小さくなって説明していた案内人が、いきなりにゅーっと画面の真ん中に移動して言った。

案内人「これは女性向けのアプリで男性の方には別のアプリがあります。それでは皆さん、グッド ラック」そこで彼は消えた。

リリーは即座に『夏の園』を選択した。すると画面の中央に巨大な波がざんぶりと現れ 茶褐色に日焼けした男がボードに乗ってあらわれた。これこそレコメンドから熟考して選んだ、自分に最もマッチした男ジョーである。もちろん彼もリリーを選んだわけで、でなければ画面には出てこない。

だがリリーはサーフィンが出来ない。浜辺でデイトでも彼は波乗り、自分は犬カキどころ猫カキも出来ない。嘘をついたのだ。自分好みの男性だったのでサーフィンが出来ると言ってしまった。相手が執拗にサーフィンに誘ってくるが、画面の中のリリーは波打ち際でうろうろしている。

だが男は黙って微笑しながら待っている。実は彼も年齢を詐称している。30才なのに25と言い、実際にはやはり老けて見える。そこでリリーが「ごめんなさい、サーフィン出来ないの」と言う。「わかった、浜辺に座って何か話そう」彼は彼女の背中に優しく手を添え二人はその場に座った。彼はそこで年齢を詐称している事を明かした。

リリーは東京の浅草育ちで、茅ケ崎まで遠出する事はめったにない。電車を使っても2時間ぐらいはかかる。彼はその街でブティックの店長をしている。笑顔の素敵な男性だった。茅ケ崎は憧れの場所でもあるし、茅ケ崎のサーファーなら望むところだとリリーは思った。

いま茅ケ崎の海沿いのカフェにリリーはいる。海沿いのカフェのテラスにいる。目の前には真っ青な空と海、広々とした砂浜、ボードウォークをそぞろ歩く幸せそうな人達。自分の座っている席の斜めひだりに、白い小さなポメラニアンがこっちを見ている。彼女は小さく手を振った。隣にいる犬の飼い主が彼女を見てニコッと微笑んだ。

彼女はジョーと待ち合わせしている。もちろんこれは本物のデイト。

「ごめんごめん、すっかり遅れて」20分も遅れて来たジョーがリリーの正面に座った。「サーフィンの後で浜辺に上がったら、急に足がつって歩けなくなった。元に戻るのに時間がかかった」彼は素直にそう言うと注文を取りに来たウエイトレスに「バナナシェイク」と言う。それから空になったリリーのグラスを指さした。「もう一杯どう?」という意味だろう。リリーはうなずいた。

彼のアイデアでデイトの日と落ち合うカフェを決めた最後の電話で、ジョーは「あすこのバナナシェイクはうまいよ。お代わりは無料だしね」と言った。シェイクはホントにおいしかった。

二人ともこれが初対面とは思えなかった。一度アプリの画面でデイトする自分たちを見ているので懐かしささえ感じる。どんな欠点弱点でも許してあげようとなる。

あれから3か月、二人はいま非常にリアルなデイトを重ねて愛を深め合っている。

その梅の木は砂の上に

その梅の木は砂の上に立っていた。とても古い砂で、やはり古いセメントの枠で正方形に囲まれていた。古い砂では栄養も取れないのだろう、梅の木はすっかり痩せ枯れなぜ自力で倒れないのか不思議な程だった。何十年も枯れたままそこに立っていた。

その細い幹の上部にやはり細い枝が左手に伸びていた。まるで悪質の持病を持つ老人の腕のように、ひょろりと宙に浮いていた。黒い木肌に意味もなく曲がりくねった筋があり、それが人間の皺のようだった。

だがある年の正月に、その左手に伸びた枝の中ほどに、人間の手に例えるなら肘の内側に当たる部分に、白い梅の花が咲いたのだ。枯れ木と言うよりすでに死んだ木の枝に、しっとりとした白い花が咲いた。私は驚いた。それはまるで生きたまま墓場に埋められた死人の、魂の叫びのようにも見えた。

私はその頃高校2年生で黒い詰襟の制服で学校に通っていた。可もなく不可もないありきたりの生徒で、自分でもあくびが出る程つまらない、と言うか退屈な生徒だった。

だがそんな私でも学校に行くのは楽しかった。同じクラスに好きな女生徒がいたからだ。

もちろん彼女はそんな私の思いなど知る由もない。その頃、理科の実験は化学室でやる事になっていたので、生徒はその時間だけ全員教室から移動しなければならない。その授業が私の正念場であった。

大きな四角いテーブルに座る時、席は自由に選べて部屋の中の移動もわりに自由だったので、私はいつでも彼女のそばに行く事が出来た。そうしたいと思うならばである。だがそんな勇気は私にはなかった。

ある時ぼやぼやして席を決めかねていたらやっと見つかった席が、なんと彼女のテーブル、しかも彼女のすぐ前の席だった。私はドギマギしながらそこに座りあらぬ方向を見て彼女から始終目をそらした。彼女の名はルリ子と言った。

この頃からなぜか私は、実験室ではではルリ子と同じテーブルに座る事が多くなった。私は彼女がわざとそうしていると言う妄想にかられた。

天にも昇る気持ちだった。ときどきちらりと目が合い、彼女のかすかな微笑みを見る事も出来た。無味乾燥な私の暮らしにやっと春が来たと思った。言わせて貰うならこの時期が、私の庭の古い梅の木に花が咲いた時と同じ時期だった。

だが彼女には思いを寄せる男子性徒が他にいて、二人は相思相愛だと言う皆の評判だった。この男子生徒はその頃としては粋な風貌をしていて頭脳明晰でもあった。裕福な家庭の次男だった。

もちろんその頃の田舎町の慣習として、いくら相思相愛でも人前でいちゃいちゃする事はしないので、彼らはただ二人して寡黙の愛を育てていたのだ。そう思うと心がざわついた。

『若きウエルテルの悩み』と言う本を読んだのはこの頃だった。とても古いドイツの作家ゲーテの作品で、若い地方官だったウエルテルが舞踏会で知り合ったロッテと言う女性に恋をするが、彼女にはアルベルトと言う婚約者がいる。そのウエルテルの恋の苦悩を描いた小説だ。

ウエルテルと私の精神的な境遇が酷似していたのでこの本に魅かれた私は、暇さえあれば貪るように読んでいた。だがストーリーの進み具合がとても緩慢でページを飛ばし飛ばしで読んだ。高校二年で胸中に悶々とした恋を隠していた私は、本の話ののろさに苛立ちある日突然その本を投げ出してしまった。

実験室で目を奪われるような事が起きた。ある日過酸化水素をカタラーゼに注ぎそのプロセスを見ると言う実験をした時、ルリ子がフラスコに入れたカタラーゼに過酸化水素を多く注ぎ過ぎた。ためにフラスコから白い泡がもくもくとあふれ出て、グラスの縁からこぼれ始めた。

彼女はとっさに泡があふれるフラスコを教師の目の前に差し出し「先生、たすけて!」と言い放った。この大胆な言葉とコケティッシュなその時の彼女の所作が相まって、鮮烈な印象を教室内の生徒皆に与えた事は間違いない。教師に甘えたようなこの仕草に皆は驚いた。

何度も言うようだが古い昔の日本の田舎の話である。そんなあざといやり方は通常生徒はしない。私はルリ子と寡黙の恋をしているあの男子生徒にさっと目を走らせた。彼はかすかな微笑を見せ「しかたないやつだな」と言うようにルリ子を見ていた。それは他の男に目を移す恋人を、鷹揚にしかし自信ありげに見つめるそのやり方だった。

この時私はルリ子の手をつかみ床に引き倒したい衝動にかられた。両手が宙に浮き、彼女が持ったフラスコを破壊したい思いだった。だがそれも夢想のうちに終わった。

高校三年になった時、父が家の改築を試みた。なので家の周りにあった老木、枯れ木もすべて伐採した。むろん私が気にかけていた梅の木もである。

私はとうとうルリ子に手紙を出した。私は何かを勘違いし増長していたのかも知れない。自分でも恥ずかしくなる程情熱を込めた手紙だった。あまり返事は期待していなかったが、程なくして薄い封筒が届いた。

中にはたった一枚の便箋、開いて見ると『私にあまりつきまとわないで下さい』とある。これは適切な言い方である。彼女ほど傲慢で気位の高い女が、私のように委縮したもやしのような男を相手にする訳がない。彼女が傲慢な女であることは薄々気づいていた。離れた場所では視線を合わせるのに、至近距離では絶対私をみないのである。

私は今ホスピスの白い病室に横たわっている。80近い長い人生の末に、肝臓癌の末期症状で体もやせ細り死を待つだけの状況である。ベッドに横たわったまま私は、やせ衰えた右手の腕を、宙に浮かせてみる。だがそこにはもう、昔の庭のあの梅の木のようにふくよかな奇跡の花を咲かせる余裕はない。

ルリ子への片思いが終わった時、途中で投げ出したウエルテルの悩みをまた読み始めた。自分の恋が終焉した事である意味心のもやもやが消え、晴れ晴れとした気持ちで彼の立場なり境遇を理解したいと思ったのだ。

『若きウエルテルの悩み』では恋の破局の末、ウエルテルはピストル自殺をする。だがそんな事が馬鹿馬鹿しいと思える年まで私は生きながらえた。大昔の西洋の女流社会の恋物語に、一時的にせようつつを抜かし自分の恋と比べたあの頃。純粋とそれを呼べるだろうか。

ウエルテルの自殺も私の思い過ごしもすべては若気の至りだ。私を馬鹿にしたルリ子の手紙を私はすぐさま破り捨てた。考えればすべての男子生徒の憧れであったルリ子が、影の薄い見た目に貧弱な容姿の私の手紙に心を動かす訳がない。ウエルテルに負けず劣らず私も、自意識過剰で自惚れの強い男だった。

クリスマスが終わったショッピングモール

クリスマスが終わったショッピングモールの中は、閑散としている。クリスマスの飾り付けが取り外され、お客の数も激減する。まるで広場で遊んでいた子供たちが、夕食の時間を思い出し蜘蛛の子を散らすように家に帰った後の、その広場のようだ。

だが家に帰りそこねた男の子が一人いる。彼はエレベーターの横の規制線を張られた狭い場所に置かれた、大きな椅子の上で遊んでいる。ぐにゃぐにゃと体をくねらせ、椅子の上で子供ヨガ体操をやっている。大きな椅子、ふかふかのとても大きな椅子の上で。

それはクリスマス前に小さな子供たちを膝に座らせ、記念写真を撮ったサンタの椅子だ。

その後ろにある暖炉もまだそこにある。だが暖炉の火は燃えておらずしんとしている。

モール内のステーションから来たポリスマンが二人、男の子のそばに立って何かひそひそ話している。男の子はだがそんな事はお構いなしに、椅子の上で例のグニャグニャ体操をやっている。そしてついに椅子の上で逆立ちをした。

「それでサンタはいつ来ると言ったの?」男の子の右側に立つ若いポリスマンが聞いた。「今日だよ、今日の2時だよ」男の子が逆立ちした体をぱっと元に戻して明るく答えた。「もう2時20分だ」中年のポリスマンが 腕時計を見て言った。

つまり男の子は、今日12月26日にここにサンタがやって来る。そしてクリスマス前に撮りそこねた二人の記念写真を今日ここで撮るのだと言っているのだ。「親はどこにいるんだ?」中年ポリスが若い方に聞いた。

「今、おもちゃ屋にクリスマスのプレゼントを買いに行っているそうだ」「もうクリスマスは終わったろう」「クリスマス前にプレゼントを買うのを忘れたそうだ」中年ポリスがしきりに頭を横に振った。

男の子は外見からすればどこにでもいる普通の子で、特にポリスマンをからかっている風でもない。精神に問題がなければ。例えば虚言癖、妄想癖などの内面の問題だが。服装、喋り方なども、むしろ裕福な家庭の子にすら見える。髪の切り方などが上品だ。

そこへすぐそばの右手にある宝石屋の中から、若い奇麗な女が出て来て「ヘンリー!」と男の子に声をかけた。「君がこの子の母親か?」ポリスマンが聞く。「いえ、この子のベビーシッターよ」女はそそくさとヘンリーの手を引いて立ち去ろうとした。

「待て!おもちゃ屋に行ったんじゃないのか?」ポリスの問いにベビーシッターは「行ったわよ、そのあと宝石屋に寄ったのよ」何なのよ!と言う顔で女はポリスを見た。「なぜ子供を一緒に連れて行かなかった、一人にしたら誘拐なんて事もある」女は横を向いて‟知るか“という顔をした。だがそれ以上の反抗は見せない。ポリスの制服にいささか敬意を表している。

「あっ!サンタだ、サンター!」その時男の子が椅子から飛び下りて白髭の男に走り寄った。見ると白いあごひげにサンタのコスチュームを着た男が、もっていた黒いケースを床に置き両手で男の子をハグした。

「ほら、ほんとにサンタが来たでしょ」ヘンリーはポリスを見て得意げに言った。「君は一体何なんだ?」ポリスがサンタに聞く。「見ての通りサンタですよ」彼は両手を広げて大げさに肩をすくめた。

「オフィスで話を聞こう」ポリスの提案で彼ら5人は、モール内の有名めがね屋の隣にある、ポリスステーションに入った。

事情聴取  ポリス 「クリスマスが終わったモールになんでサンタがいるんだ?」

サンタ「僕は遅れて来たサンタなんですよ」

ポリス「なんで遅れて来たんだ?」

サンタ「車の渋滞で。クリスマス明けは意外と道が混むんですね」

ポリス「そもそもクリスマス明けにサンタの恰好でモールを歩くと言うのは、どう言う 魂胆なんだ。その下心を聞こう」

ヘンリー「だから言ったでしょ、僕と写真を撮るために来てくれたんだ」

ベビーシッター「その事は私も知ってるわ、その時そばにいたから。ヘンリーはとうとうサンタと写真が撮れるとすごく喜んでいたの。ヘンリーの両親はサンタなんてどこにもいないと昔から彼に言ってるから。モールのサンタはただの芸人だって。ヘンリーはまだ5才なのに」

サンタ「僕が25日にここに来るとこの子がここでしょんぼりしている。事情を聞くと、サンタと写真を撮りたいけどママもパパも許してくれない、と泣きそうにしている」サンタがベビーシッターをちらりと見た。

そして彼は言う。「僕は学生だけど、サンタの養成学校を卒業したプロなんだ。サンタ派遣所に登録もしてる。でも今年は需要が少なくて僕には仕事が来なかった。でも何とかヘンリーの力になりたい。つまりサンタの衣装を着た僕と撮った彼の写真をプレゼントしたいと思った」

そこでベビーシッタが助け舟を出した。「私は彼の親切心が分かったから、もしあなたにそれが出来るならどうぞお願いするわと言ったの。両親には私からすべてを話す、撮った写真を見せれば両親だってきっと喜んでくれるわと言ったのよ」

サンタの衣装も椅子も暖炉も派遣会社に事情を話し、もう一日貸してくれる事に話をつけた。会社は快く承諾してくれ、しかも無料でと言う事になった。何もかもうまく行ったとサンタとベビーシッターが顔を見合わせた。子供の誘拐どころか子供を幸せにする話だった。   

殺人や暴動の多い今の世の中でこんな話を聞くとは。二人のポリスマンはこの街の治安の良さに感謝した。彼らはサンタが床に置いた黒いケースの中からカメラを取り出し、いそいそとセットするのを微笑しながら見ていた。