「死ぬ前にあなたに会って渡したい物があります、いえ、渡さなければならない物があります」そんな恐ろしい手紙を貰ったのはつい一週間前の事だ。なぜ恐ろしいか?それは手紙の差出人はすでに亡くなっていると私は思っていたからである。
彼女は私の実家宛に手紙を出し、それを母が現住所に郵送したのだった。
25年前、短大を卒業したM子と私は、東京のあるレストランでウエイトレスをする事にした。そこは大きな窓ガラスから賑やかな通りが一望できる有名なレストランで、芸能人が良く来ると言う噂の店。私達は冷やかしのような軽い気持ちで働き始めたのだった。
そこにバーテンダーとして働いていた俳優志望の大学生の男がいた。彼はある有名大学に在籍中の背の高いハンサムな男だった。
M子はすぐに彼を気に入りそわそわと落ち着かなく、かと言ってアプローチする訳でもなく、彼が作ったクリームソーダを客の前でこぼす等の失態を犯していた。好きと言えずに彼の前でお馬鹿をやっていた。
だが二人の距離は次第に近まり、M子が彼の胸をこぶしで打つようなまねをすると彼がその手をねじり上げる。するとM子は大げさに騒ぎ立てた。
それを見て私はイラつき、強引に彼を映画に誘ってみた。彼はすぐに承諾した。その事でM子は彼をあきらめた。
言い忘れたがM子と私は同じアパートの一室を借り費用を折半していた。愚鈍な表情と体つきでスター性の全くない男が、私の映画への誘いにすぐに乗って来た事で私は幻滅を感じた。役者になりたいならもっと他にやる事があるだろうが。同時に私は仕事をやめ、M子とも疎遠になった。
新幹線の『のぞみ』で東京から京都まで行き乗り換え、そこからJRで奈良まで行く事にした。M子の実家は奈良の田舎にあり、彼女は今そこで乳がんステージ4の状況で、あと三か月の命の消滅を待っていると言う。そう彼女の手紙に書いてあった。
M子には、すまない、申し訳ないと言う気持ちしかない。遊び半分で彼女の恋を邪魔し、一時的にせよ人生を迷わせた罪は重い。彼女は今も独身だと書いてあった。死にかけている私にもう何のチャンスもないと自嘲げに書いてあった。
レストランをやめてから十年以上もたった後に、私は大学の学生住所録の中から彼女の実家の住所を探し出し、長い手紙を書いた。「二人の共同生活が失敗に終わったのは怠け者の私のせいである。あなたの好きだった俳優志望の男にちょっかいを出したのは、自分の人生がつまらなかったからである。あなたが私より楽しい時間を持つ事はがまんできなかった」と正直にすべてを吐露した。だが彼女からの返事はなかった。
列車が京都の郊外に入った。窓から美しい紅葉が見える。そう言えばもうすぐ12月だ。京都の晩秋の紅葉は凄まじく美しい。紅葉に見とれていると、白と黒の縞の毛糸帽を被り橙色のジャケットを着た、どことなくあか抜けない女性が私のそばに来た。「ここ空いてます?」とすぐ前の席を指さす。
空いてはいるが指定席でない列車の中はガラガラで、何も私のすぐ前の席に座らなくてもと私は冷淡な顔をした。だが断る言い訳も見つからずあいまいにうなずいた。だがすぐに後悔した。彼女がバッグからピーナッツの袋を取り出しぽりぽりと嚙み始めたからである。
しかもピーナッツを食べやめると、東京駅で買ったと言う釜飯弁当を私の前に突き出し「食べませんか?」無表情に聞く。私は断った。私のバッグにはやはり東京駅で買った野菜サンドが入っているのだ。
すると彼女は釜飯の蓋を開けながら、「どこまで行くの?」と急にタメ口で聞いて来た。「奈良です」と言うと「あら私もよ」と彼女はぱっと笑顔になった。またもや私は返答した事に軽い後悔を感じた。
この女性のどことなく不遜で横柄な態度が気になり始めたからだ。すると彼女が軽い震え声を出し「ほんとは婚約者と行くはずだったの、だけど彼は来なかったのよ、釜飯二つ買ったのに」私は黙って彼女の顔をじっと見ていた。彼女はすすり泣き始めた。
便箋3枚もの長い手紙に返事のひとつもよこさないM子に私は腹を立て、M子はすでにこの世に存在していないと勝手な妄想を作り上げた。見栄っ張りで自尊心の高い私の心からの手紙を彼女は無視した。彼女の実家宛に送った手紙が彼女には届かなかったのだと言う可能性を私は無視した。その返事が長い年月の後に突然来るとは予想もせず。
「うちの両親も今度こそ私が結婚出来ると楽しみにしてたのに。私の田舎では女が40近くになっても独身でいると、白い目で見られるの」釜飯の中からタケノコの煮た物を咀嚼しながら彼女が文句を言った。私とあまり違わない年なのだとその時分かった。
釜飯のむせるような匂いがあたりに充満していた。彼女はかまわず「紅葉がとてもきれいね」窓外に目をやりそうつぶやいた。
私は今また新幹線『のぞみ』に乗っている。JRの奈良線で京都まで行き、そこで乗り換え東京に向かっているのだ。行きの汽車と同じ、だがまったく正反対の方向に向かっている。何となく人生を逆戻りしているような奇妙な感覚があった。
私の左手には銀色のブレスレットが握られている。M子が病床で私に手渡した物だ。あのレストランでバーテンダーをやっていた俳優志望の男が、「私に渡してくれ」と預けた物だと言う。25年前に。それは私があのレストランをやめてからすぐの事だった。
M子は見るも哀れな相貌に変わり果てていた。乳がんのステージ4と言うのはこんなにも哀しく人間の体を蝕むものか。私は驚き涙を流した。「手紙もあったけど、失くしてしまったの。ごめんなさい」彼女は弱弱しく謝った。「そんな事何でもないわ、ブレスレットだけでも十分よ」
ブランケットから出した骨と皮だけの彼女の手を私は力強く握りしめた。涙がとめどもなく私の目からあふれた。
車内販売のワゴンが回って来た。作り立ての釜飯がいくつもワゴンの上部に乗っていた。行きの汽車で私のすぐ前に座った女性を思い出し「電話番号でも聞いておけば良かった」と軽く後悔した。会って話でもすれば、彼女の哀しみを少しはやわらげる事が出来たかも知れない。