若い頃には金運にめぐまれ人間関係も充実し幸せに暮らした人が、年取ると共にすべての運に見放され、気づいた時はホームレス。そんな漫画のような人生を送る人が世の中にはたまにいる。いや、たまにどころかずいぶんとあるようだ。
そんなホームレスの人たちは自分の半ば終わった人生を、どんな思惑を抱えて過ごしているのだろう。終わってしまった華麗な時代にすがりつき懊悩する、あるいはすべてのしがらみから解き放たれ、さばさばしたリラックス感を味わう。人それぞれだろう。
粉骨砕身して一代で財を成した祖父に、アキラは懐かしいと言う感情は少しもない。不動産業だった祖父に、可愛がってもらった記憶は一切ないから。ただ仏頂面をして家族ともあまり話さず常に考え事をしていた祖父。
そんな彼は、売れない弁当を前にして不貞腐れている、屋台販売のおやじのようだとアキラはいつも思っていた。祖父は資産を増やす事にしか脳を使わない石頭男だった。
父もまたそんな祖父にうんざりしていたのだ。祖父が死ぬと資産を増やすどころかそれを切り売りして生活していた。アキラが「画家になりたい」と言うと「そうかそうか、それじゃ、日本で一番いい美術大学に行け、金は幾らかかってもいいぞ」
大学を卒業すると「そうかそうか、ゴッホが好きなんか、じゃゴッホが頑張ったフランスで勉強しろ、金は幾らでもやるぞ」またもや尻を叩いた。ゴッホがフランスで頑張ったと知る父は、ひそかに絵に関する情報も集めていたのだろう。フランスには7年もいた。
ホームレスになってあっと言う間に10年が経った。アキラは所々に灌木の生えた河川敷に青いテントを張った。ホームレスの集落ではない静かな場所。中を趣味よく飾り誰にも邪魔されず昔のパリでの暮らしに想いを馳せる。
暖房が利かない、エレベーターが動かない、トイレの水が止まらない、アパルトマンに住んでいた彼はその不便さに辟易したが、考えれば今の暮らしとあまり変わらない。何かが故障した時は、街角のカフェで人の行き来を眺めたり、エッフェル塔や凱旋門、ルーブル美術館のあたりを散策した。それは夢見るような楽しい時間だった。
そんな思い出に浸る時が、今となってはアキラの唯一の安らぎであり至福の時。彼は夢想家である。現実的に何が可能か重要かなどに重きを置かない、救いがたい夢想家である。夢想家ゆえに画家になり成功した夢を思い描き、その幸せに浸る。よって現実的に画家になる夢は次第に遠のいた。
春になると川の両脇に美しい桜が咲いた。一本ではない桜並木である。満開の時は素晴らしい景観になる。その頃アキラの小屋を一匹の白い猫が訪れるようになった。毛先の長いそれは奇麗な猫。すべての毛先がふわっふわと風にそよぎ、毛の先が時々金色に光る。首輪を着けているどこかの飼い猫だ。
猫の癖に犯しがたい気品がある。ハンバーグの切れ端などを投げてやるが口にしない。だが膝には乗り頬をすり寄せてくる。アキラは優しく頭をなでてやる。すると猫は愛しそうに彼を見上げるのだった。
ある日猫がやって来たすぐ後から、感じの良い老婦人が現れた。「今日はココの後をつけて来たんです。最近は私に黙って出かける事が多くて、とうとう彼女がお宅にお邪魔してる事を突き止めました」婦人は微笑した。アキラは猫の名前がココである事を終に知った。
女はアキラのテントの中を一べつして「素敵なお住まいですね」と言った。本気でそう思っている事が雰囲気で解る。それもその筈、テントの中は異国情緒あふれる小物で趣味良く飾られ、観葉植物の鉢も幾つかあり香まで炊かれている。
エッフェル塔のオブジェ、金色の丸い掛け時計、耐熱ガラスのティポット、もちろんゴッホの複製画、アキラがパリの蚤の市で見つけたものだ。捨てきれずに家を出る時に持って来た。夫人はそんな物を興味深く見ている。
父が心臓まひで突然亡くなった時、資産はほとんどなくすべては銀行からの借金の担保になっている事を知り、アキラは驚がくした。だがそれもありだなとすんなり受け止めた。むしろ自分の中でうごめく金食い虫を退治できるとさっぱりした。
祖父の遺産をなし崩しに使い果たそうとした父は、アキラ同様、祖父の仕事を軽蔑していたのかも知れない。
アキラの膝の上に丸くなっている猫を優しく見やりながら婦人が言う。「実は大変失礼とは思ったのですか、あなた様の身元を調べさせて頂いたんです。ココが頻繁にここに来たがるものですから。そしたら実は今のホテルをお世話し下さった方と、あなたのお父様が同一人物だと言う事が分かりました」
彼女は対岸を指さし「ほら、あの丘の上に白い建物が見えますでしょ。あれが私どものホテルなんです」そこに緑に囲まれた瀟洒な建物が見えた。
婦人は父に言った。「こんな史跡や温泉がない所でホテルが成功するものか」父が言った。「いや、こんな所が良いんです。春は桜、秋は紅葉、川では夏に花火もあります。これからはそんな自然な景色が一番です。みんな大げさな観光地域づくりにあきあきしていますからね」
父の強い勧めでとうとう買ってしまった。そして今では彼の言う通りになり、ホテルは繁盛している。
しかもこの物件は父の物ではなく彼の知り合いの不動産会社の物だったと言う。「何の見返りもない物件をただ私どもの事を考えご推薦下さったんです」婦人はしみじみと言った。
婦人が帰った後、アキラは茫然と宙を見ていた。ホテルに来て住まないかと言う彼女の言葉を、彼はどう受け止めてよいか分からない。何もしなくても良い、退屈だったら雑用は幾らでもあると彼女は言った。もし世話になるとしたら体だけは洗っとかないとな、彼は漠然と思った。
それから一週間後、近くの公園の公衆トイレで床に倒れて行き絶えているホームレスの男を、警備員が発見した。彼はその手に濡れたタオルを握りしめていたと言う。トイレの隅に薄汚れた白猫がいたが、近づくとさっと外に逃げたそうだ。