真昼のように明るい月の光

真昼のように明るい月の光に照らされ、床一面に張り巡らされたメキシコタイルの絵柄が、一枚一枚はっきりとここから見える。

私は庭の隅にある大きなアボカドの木に登って、その模様を楽しんでいた。アボカドはかなり熟しているらしく、枝を揺らせばぼたりぼたりと実は地面に落ちる。だから私は息をひそめて身動きもしない。

すると同じタイル造りの四角い柱の影から一人のメキシコ女がさっと出て来て、そばにあった大きな壺の傘立てから傘を取り出し床に置いた。次に女は壺の中に手を入れがさがさと中をさぐり始めた。

やっと目当ての物を探り当て、取り出した布製の袋の中身を月光にかざし、うんとうなずきまた袋をもとに戻した。中身はへそくりだったのだ。

その時、庭の大きなアジサイの花株の横から6才位の男の子が姿を現し、走って来て「かあちゃん」と女の背中に抱きついた。すると女は立ち上がり幼い息子の頬に往復ビンタを喰らわせ「バカだよお前は、誘拐されるなんて、どんなに心配したかしれやしない!!」とまたもやビンタを喰らわせた。

息子は泣き出し「かあちゃん、かあちゃん」とさらに背中にしがみついた。

やがて女は息子の手を引きパティオを出て建物のまわりを歩き、反対側の庭の隅にある堅牢だが小さな自分の家に入って行った。この女が邸の主人の運転手の女房だと私の中では理解できていて、次に私は小賢しい猿のようにするすると木から降りて彼らの後をつけた。

半開きのドアから家の中に入ると、ドアのそばのテーブルで女の亭主と彼の知人らしき男がカードゲームに興じていた。私は亭主の隣にすわり、目の前にあったバーベキュー味のポテトチップスを一つつまんだ。亭主がじろりと私を見た。

斜め向こうの壁に聖母マリアの木製像が釘で打ち付けてある。白いドレスに赤い腰ひもをつけ薄青のベールを被ったそのマリアは、とてもやつれた女に見える。その下の祭壇らしき台には、赤に金糸の入った布がかけられその上にアボカドが二つのっている。

さっきの女が庭で拾ったアボカドを供え物にしたのだろう。私はこの女の横着で怠惰な信仰心を蔑んだ。女も息子もこの部屋にはいない。ベッドルームで息子はまたお説教をくらっているのだろう。

亭主がやたらジロジロ私を見るので外に出て、今度は建物の反対側を回って先ほどのパティオに来た。ここはアボカド木のある庭の反対側、右手は切り立った高い崖になっている。下を見るとめまいがし真っ逆さまにそのまま転落しそうだ。

ふと見るとこの邸の主人らしき男がパティオの中央で運転手と話をしている。ロバート デニーロ風の主人はハデなローブを着て葉巻を吸い、その葉巻をつまんだ右手の小指に大きな指輪がはめられ、その指輪の模様が分かる程月の光は明るい。

「お前、馬鹿か、なんで俺がお前の息子を誘拐するんだ!何の得にもなりやしない!それよりお前は俺に5000ドルの借金してるだろうが!!!」と、葉巻を持った手を運転手の前でぐるぐると回した。

「女房が聞いて見ろと言うんで、、、、」運転手が怯えながら言うと「お前、馬鹿か!お前の女房は俺より偉いんかっ!!!」主人が彼の額をどづいた。

運転手はその後恐怖で一言も発せず、ただ私より後に家を出た彼が私より先にここにいると言う不思議にこの私は無頓着である。その時主人が凄い顔で私をじろりと見たので、私は走って逃げ出した。

その時パティオの隅の汚れた寝椅子に、ピストルが一つ置き忘れてあった。まさかの時のためにそれをポケットに入れたが、拳銃の使用法など知らない事を思い出し後で捨てた。

やがて気づくと次の瞬間、私はニューヨークのある汚い路地裏の行き止まりに来ていた。そこにはゴミがあふれ出したダムスターが5,6個置き去りにされ、波のうねりのように高く低く折り重なったホームレスの群れがこちらを威嚇するようだった。

生きているのか死んでいるのか、彼らは食いすぎて太った灰色の羊の様に身動きもしない。

ふと見ると行き止まりになった壁のすぐ前で、一人のホームレスが体を起こしじっとこちらを見つめていた。その赤黒い顔も月の光に照らされありありと見える。

私は怖くなりまた全速力で走りだした。20階だての高層ビルの屋上の端っこを、下を見ればめまいで落っこちそうな危険な場所を、全速力で駆け抜けるのだ。昔からかけっこは苦手なのに、なぜこんなに走るのか、いや走らされるのか?

だがこんな事はいつまでやってられないと考えが湧き普通に歩き出すと、目の前に昔見たサウンド オブ ミュージックの映画ポスターのような景色が広がった。

胸のすくような美しく壮大な大草原、私は思わず両手を広げクルリクルリと体を回転させた。すると急にめまいと疲れが押し寄せ、そのまま両膝をつき草の上にくずおれた。

するとどこからか子供たちの歌うドレミの歌が聞こえて来た。私も子供たちのように歌を口ずさみながら、体を海老のようにいや猫のように丸めてそのまま眠りに落ちた。

だが次の瞬間私はまた目を見開き朦朧とした頭の中で、自宅のベッドの上のブランケットにくるまっている自分を発見した。

私の名前はルナ、27才の日本人だ

私の名前はルナ、27才の日本人だ。ロスアンゼルスで日系情報誌のコラムニストをやっている。それまで東京でフリーマガジンのレポーターをやっていたが、この雑誌の編集長に就職希望の手紙を書いたら運良く採用された。

数ある日系情報誌は若い読者をねらいすべて英語版にしたが,この雑誌はいまだに日本語だけ。英語版を見たければネットで翻訳版を見ればいい。この先読みの深さに私は惹かれた。街角の英語版のフリーマガジンを読む日本人なんていない。彼らは英語が読めないから日本語に頼るのだ。

言い忘れたが私はその情報誌で『街角の夢』と言うコラムを担当している。街を歩く人にいきなり話しかけ「将来の夢は?」と聞くのである。これは非常に時代遅れでつまらない企画、編集長により斬新な物をとかけあったが、彼は聞いてくれない。

ところで私には非常に困った性癖がある。それは人をガン見する事である。これは人を指さす事以上に無作法だとこの国では思われている。レストランのブースで前席の背もたれの向こうに見える人の顔をジーッと見るのである。じーっと人を見る場所はやはりレストランが多い。

猫じゃあるまいし人をガン見する、これは非常に相手に失礼な事で彼らはやがて席を立ち店を出て行く。その時初めて「あっ、私またガン見やってたんだ」と気づく始末。

私は何も仕事柄、人間探訪のつもりでこれをやっている訳ではない。別にじっと見る相手に興味がある訳でもない。ならばなぜガン見か?と聞かれると返答に困る。知らず知らずにガン見してその間は無の境地である。

私が6才の頃だった。遮断機の下りた踏切の前にいると、反対側に同じ年ぐらいの女の子が立っていた。私は彼女をじーっと見続けた。するとその子は泣きだした。その時電車が来てそれが通り過ぎた後見ると、少女はもういなかった。

私は少女が電車に轢かれて死んだような怖い気持ちになった事を覚えている。

大学生の時、『国文学』の講義に出かけると、教室の中ほどにいた私から窓際の席を見るとある女学生の横顔が見えた。それは美しい横顔だった。この美貌の横顔が素晴らしく魅力的で、私はこの横顔をガン見するために講義に出かけたと言っても、過言ではない。

だがある日、彼女の顔を真正面から見た時かなり失望した事を覚えている。平べったい顔に丸い目が二つあり、鼻も決して高くはない。別人だったのかも知れない。この二つが私の過去のガン見体験の、苦い思い出である。

そして性懲りもなく今も私はガン見をし続けている。やめようにも無意識の所作は自然と出るのである。なぜ山に登るかと聞かれた登山家は、「そこに山があるから」と答える。なぜ人をガン見するのかと聞かれれば、「そこに人がいるから」と答えるしかない。

ある日、アウトドアアイスクリーム屋の庭の椅子に座りバニラアイスを食べていると、庭の隅のストレリチアの花株のそばで私をじーっと見ている女性に気づいた。やれやれ今日はガン見される日かと何気に空を仰ぐと、彼女が私に向って真っすぐに歩いて来た。

「こんにちわ」と彼女は言った。褐色の肌をした黒人の女性がきれいな発音で日本語を話したので、私は少しあわてた。「少しお話してもいいですか?」と彼女が聞く。私はうなずき椅子を手のひらで指示した。

「日本語が上手ですね」と言うと「祖母が日本人なので」と言い奇麗な微笑を見せた

それから彼女が話した事はとても素敵な事だった。彼女の祖母は私が働く情報誌の愛読者で、あなたのコラムのファン、記事をいつも楽しみにしている。あまり面白くない企画が人気コラムになったのは、私のスキルが良かったからだと祖母が言ったと言う。

「ありがとう」と私は心から言った。人に褒められると言うのはそれが何であれ嬉しいものだ。彼女は街角でインタビューをしている私を実際に見た事もあり、機会があったら話したいと思っていたと言う。

あれやこれやと話をするうちに、私はとうとう近いうちに彼女の祖母の家を二人で訪問すると言う約束をしてしまった。彼女のおばあさんがランチをご馳走してくれると言う。「祖母は日本料理がとても上手なの」とサラはウインクして見せた。絶妙なタイミングで自分の名前を言ったサラに、私はすっかり打ち解けた。

一週間程して約束通り、サラは私を彼女の祖母の家に連れて行った。祖母は一人暮らしで小奇麗に片付いたリビングで私たちを迎えた。ランチに用意されたちらし寿司、煮物、吸い物もさっぱりとして味わい深く、私は地元の人と日本語を話せるチャンスにとても楽しくなった。名前を洋子と言った。

サラは顔のある部分が祖母によく似ている。目とか鼻とか。サラは祖母の前ではあまり話さない。それが祖母への尊敬だと私は思った。

心を許せるような相手に出会うと私は悩みを打ち明けたくなる。ガン見の癖を洋子に話した。洋子は「実は私にも若い頃、同じ悩みがあったの。それで思いついたのが鏡の中の自分を一度ジーッと見つめて見る事。これは効果てきめん、自分が裁判長の前に立つ死刑宣告された被告人見たいに思えるのよ、なんだかぞっとした」と顔をしかめた。

それからデザートの水ようかんが出された。とても美味だった。洋子は緑茶を飲みながら「すっかりおしゃべりしたけど、あなたは私にとても似ている気がするわ。だから最後に言わせて頂く」

「あなたは実は孤独癖が強いのだと思う。本当は孤独が好きなのよ、だけど友達もほしい、その願望がガン見へと変わる。だけどあなたは頑固でもあるからすんなりと行かないのね。言える事は、これからあなたはその孤独とうまく折り合いをつけて行く事だと思う、もっと幸せになるためには」

あっさり真髄をつかれ驚き、私はまたもや彼女の顔をジーッとガン見した。

『毒キノコ』と聞く

『毒キノコ』と聞くとやんわり後ろから首を絞められた気になる。それほど耳障りで嫌な言葉だ。もちろん人それぞれだろうが。

毒キノコですぐに思い浮かぶのはあの見かけが毒々しいベニテングダケだ。赤いぬるりとしたカサに白いイボイボがある。見ただけで気持ち悪くなる。だがこれは良くゆがいて調理すればほぼ毒素は抜けるらしい。

本当に怖い毒キノコは白いキノコ類、なかでもドクツルタケは『殺しの天使』と呼ばれ一本で人ひとり殺す猛毒を持っている。ある老夫婦が山中で採った白いキノコを食し激しい嘔吐、下痢を起こし二人とも亡くなったと言うニュースが日本であった。

ところでメイン州のある郊外の雑木林の中に、それは可愛らしい石造りの家があった。外壁がくすんだ七色石のモザイク模様でおおわれ、屋根に小さな煙突がついている。まるで白雪姫の七人の小人の家の様におとぎ話めいた家だ。メイン州はアメリカ合衆国の東北部に位置する素敵な場所だ。

この家にある日若いホームレスのカップルが忍び込んだ。ひっそりとした暗い家の中、置き去りにされた家具、クローゼットの中の衣類、靴、パントリーの中には缶詰やレトルト食品などが残され、何もかも3日前と同じだと確認した。実は二人は何度もこの放棄された家の下見に来ていたのだ。

今まで清潔で美しい街のあちこちで、ストリートパフォーマーとして食いつないで来た彼らは、パフォーマンスのネタである手品の種類もつき未来の生活に不安を感じ始めた。そして偶然見つけたこの空き家。暖かいベッドに食料も暖炉さえある。

時は秋、林の中はそれは美しい紅葉で彩られ、二人は見た事もない色の魔法にかけられその家に住み着くことにした。短絡的、かつ単細胞の彼らは他の選択肢など思いつかない。

一週間も住み着くと玄関の3段ほどの石段の横に生えた、白いキノコに彼らは気づいた。これこそが恐るべきドクツルダケで、気味悪がった女がゴム手袋をはめた両手でむしり取った。だが採っても採ってもまた生えて来る。しかも量を増して。

「一度料理して見ろよ、毒キノコだとは限らないぜ」男が何げなく言うと女はむきになった。「嫌よ料理なんか、あんたは何でも口に入れるんだから、拾ったものでさえね、あー嫌だ嫌だ、乞食と暮らすのは‼」

「乞食とはなんだ!俺がいなきゃお前なんかとっくに飢え死にしてるぜ」「あら手品の腕は私の方が上よ」女が睨むと男が「けっ!」と言う顔で横を向いた。だがそれ以上の口喧嘩をする気力も習慣も二人にはない。世間から隔離された小さな家の中で、次第に彼らは人格と気力を無くして行った。

ある日男は生え続ける玄関先の白いキノコを摘みとり、深夜にニンニクとオリーブオイルで炒め、立ったまま鍋からフォークで口に入れた。「お前も食えよ」男は女に鍋を差し出したが彼女は首を横に振った。

しばらくすると男は吐き気がする、腹が痛いと大騒ぎをしてベッドの上でのた打ち回った。

だが翌朝は晴れ晴れとして「今日は気分がいい」と女を抱き寄せキスをした。だが彼はその日の午後死亡した。女は意外と男を愛していた事に気づき、泣き泣き携帯で警察と埋葬屋に連絡し、男を手渡しドクツルタケの家を後にした。

そこから車で30分程の所にある街の瀟洒なアパートのリビング、窓から真っ赤に紅葉したメープルツリーが見える。この家の主婦らしき女性がテレビのニュースを見ている。外から帰って来た夫を見上げ言った。

「ハニー大変よ❣私達の家で人が死んでるわ!」夫はキョトンとしてどういう事だと言う顔をした。「ほら、私達の別荘よ、林の中の家よ、毒キノコのあるあの家よ、あそこでホームレスの人が死んだのよ!」

「キノコを食べたのか?」夫は冷静な顔で聞いた。「そう、ガールフレンドもいたんだけど、彼女は無事だそうよ」

この夫婦こそあの7人の小人達の家の持ち主で、ドクツルタケに嫌気がさし家を手放した張本人である。いや、売りには出している。だが事故物件である事が不動産屋から漏れ伝わるらしく買い手がつかない。

この夫もまた玄関先の白いキノコを食した一人で、しかも生のままサラダにして食べた。その後緊急搬送され胃洗浄をし、九死に一生を得めでたく世間に返り咲いた男だった。夫婦はその後ドクツルダケに怨念を込め、キノコ駆除に励んだがこの性悪な猛毒犯は採っても採っても生えて来る、しかもさらに量を増して。

殺人犯と暮らしてるような憂鬱な思いに、二人は耐えきれなくなり引っ越しを決めた。

しかもすべての家具、衣類、日用品など、置き去りにして転居した。『殺しの天使』の突然の仕打ちに動揺し、彼らは着の身着のまま逃げ出したのである。だがその後冷静になり、逃げだした家に未練がある二人は、まだ中途半端な気持ちで暮らしている。

実はこの毒キノコは性悪な反骨心があり、家に人が住んでる間は執念にも似たしつこさで生え続けるのだが人が居なくなるとしれっと姿を消す。土にもぐって顔を出さない。そんな陰湿でじめじめした自然の神秘を人間は知らない。

「私、ほんとはあの家気に入っていたのよ、交通の便もいいし林の中の景色や鳥の声がとても好きだったの、暖炉にくべる枯れ木を拾いに行くのも楽しみだった」妻の声に「交通の便は良かったよな、山中の道を少し運転して行けばすぐフリーウエイに出れたもんな」夫が答える。

「ねえ、今度の週末、様子を見に行きましょうよ、ホームレスの人たちが住んだのなら散らかってるかも知れないし、掃除をしなくては」妻がそう言うと夫は「もっと頻繁に行ってもいいんだぜ、俺たちの別荘なんだから」からかうような視線を見せた。妻は黙ってうつむいた。

毎年7月4日の独立記念日

毎年7月4日の独立記念日にはアメリカの各地で花火大会が行われ、国民はそれを楽しみにしている。その催しは他州の花火より立派な凄いもの打ち上げようと各州が競い合うイベントではなく、どこも淡々と年に一度のお祭りを楽しんでいるような雰囲気だ。

ある年の海辺の街の花火大会で、今年は丘の上の富豪が自腹で海上花火を打ち上げると言うので、人々はワクワクしていた。しかもそれは、5年前に白血病で死んだ娘の誕生祝いと言うので人々は少なからず感傷的になっていた。そしてその女性は以前私の無二の親友だったのだ。名前はジンジャーと言った。

その頃私たちは高校二年生で、放課後スクールバスで家に帰ると、私は自転車に乗って断崖絶壁にある彼女の兄ノアの家に直行した。ジンジャーは両親の家が近い事もあり徒歩で行く。

ノアの家と言っても彼らの祖父母の家で二人が交通事故亡くなった後、大学を中退、と言うか出席日数不足で放校になったノアが、ちゃっかり一人で住んでいたのである。

断崖絶壁にあるその家はこんもりとした樹木に囲まれた白い四角い家で、そこに行く度に私たちはポケットに大量のお菓子を詰め込み、ツリーハウスによじ登り秘密のパーティをする子供達のように、興奮していた。それは私の一人よがりだったのかも知れないが。

私が行くとノアはいつも裏庭にいた。断崖絶壁の今思えばいつ落ちても不思議はないほど何の囲いもない庭で、見下ろすと崖下は鋭い岩場になって目が眩みそうだった。その異様に狭い庭のビーチチェアに寝そべり、彼は私を見ると「ヘーイ」としかたなさそうな微笑を浮かべた。そばにはおびただしい野生のミントが蔓延っていた。

ノアはジャーナリストになる夢を持ち、地元の大学に通っていたが寮生活がうるさ過ぎると言うので、自宅に戻っていた。そんな兄をジンジャーは「ノアはエイリアンだから人間とは気が合わないのよ」と真面目な顔で言った。

エイリアン?それは実に言いえて妙な表現だった。彼はある日突然空から降りて来たというような、とても非現実な姿形をしていた。類まれな彼の美貌は、どんな美辞麗句を使っても的確に表現する事は出来ない。

何しろ彼には美貌以外にも、裕福な子供だけが持つ特有の美意識があり、それが彼の穏やかな性格に反映されていた。とても贅沢で洗練された穏やかな性格。そのため彼の表情やしぐさはすべてがエレガントに見え、卑しい顔をしてもそれが彼の顔の上では女のような端麗さに豹変する。

そんな彼に私が恋愛感情を持ったとしてもしかたのない事だ。だがそれは激しく抱き合い愛をなすり付けるようなものではなく、いわゆるプラトニックなものだった。だが当時はこれがプラトニックラブだと気づきもしない。断崖絶壁で海を見る彼の横顔をただ眺めるだけの夢の恋だった。なにしろ私はまだ高校二年生なのだ。

「私、ノアに恋しているの」ある日ジンジャーに打ち明けた事があった。すると彼女は薄ら笑い「そんな事しても無駄よ、ノアはエイリアンなんだから」と言って私を黙らせた。白状するとジンジャーもノアに負けず劣らず美貌の人だった。

ノアに似てはいるが男性の美と女性の美の相違で、彼女の美の方が受け入れやすい。だが私はノアの異質の美貌に固執した。恋は盲目なのだ。

ときどき彼らは私を夕食に誘ってくれる事があった。その時は近くの両親の家のメイドが

車を運転して私達に料理を運んでくれる。テーブルにディナーが並ぶといつも、ジンジャーが儀式めいた顔でキャンドルに火をつける。そのロウソクの火影にうつむくノアの顔は凄絶な美を放っていた。

高校を卒業するとジンジャーは舞台女優の夢を実現するため、ニューヨークの演劇アカデミーに進んだ。だが彼女は体の不調を訴え一年で実家に戻って来た。急性白血病と診断されたが、なぜか医者に診てもらう事をかたくなに拒否した。そして彼女は半年後に亡くなった。

私とノアをつなぎとめる唯一の絆であるジンジャーの死で、私はもうノアに会う事も出来ず私達は次第に間遠になって行った。

その5年後、今は亡きジンジャーの24才の誕生日を祝う花火大会に私は出かけていった。暗い海から打ち上げられる花火は凄絶な美しさで闇空に咲き開き、言葉を失い私は見とれた。ノアとジンジャー、それに私の3人で見たかったと思った。

その時背後の人込みから声が聞こえた。「これは主催者の死んだ娘の誕生祝いなんだって。理由はどうあれ私たちはやっと海上花火を見れた訳ね」「そうよ、丘の上の金持ちに感謝!感謝!」幸せに生きている主婦たちの声だった。

その時もう一人の主婦の声が聞こえた。「この娘には二つ年上の兄がいたんだって。その人も崖から落ちて死んだそうよ」「えっ、まさか自殺じゃないでしょうね」「いえ、あやまって落ちたそうなの、でもほんとの事は分からない」三人はまた空を見上げた。

海上花火が終わるとコーストラインのあちこちで、美しい車輪のような小さな花火がポンポンと街の空に上がり、それが私にはノアとジンジャーの最後の別れの合図に思えた。私はひっそりと涙ぐんだ。

あれから10年が経った。私は今でもあの兄と妹は本当にエイリアンではなかったかと思う事がある。

卓也は腰に手を当て仁王立ち

卓也は腰に手を当て仁王立ちになり完成したばかりのピザ窯を眺めた。「我ながら良くできたものだ」と思う。材料の耐火レンガとコンクリート、それにブロック、基本材料となるそれら三品を買った最初の日は、どうなる事かと思った。

一年ほど前に部長のガーデンパーティーに呼ばれた時、手作りのピザ窯を見せられ実に羨ましかった。その窯で焼かれたピザもうまかった。窯に見とれている卓也に「簡単、簡単、ピザ窯なんて誰だって造れるよ、君も挑戦してみろよ」と白い歯を見せて笑った。

以来ピザ窯DIYは卓也の夢となった。そしてついに完成したアーチ形の窯、何となく異国的な雰囲気で狭い庭をお洒落な感じに見せている。

「パパ、言ったでしょ‼ピザ窯のDIYなんてやらないでって!」振り向くと娘の雅美が同じ仁王立ちになり恐い顔している。「どうせパパの造った窯で焼いたピザなんてまずいに決まってんだから」と身も蓋もない事を言う。

その言葉に彼自身の昔の言葉がだぶった。中学一年の夏「どうだ勉強部屋を造ってやろうか。お前は勉強すれば必ず成績が良くなる」と言った父の言葉を邪険に振り払った。「いらないよ勉強部屋なんか!どうせ父さんの造った勉強部屋なんか使えたもんじゃないから」

「造ってやるよ」と言う父の言葉を片手でさえぎり走って街に飛び出した。それでも父は造った。だが卓也は意地でも使わなかった。今はもう単なる物置である。

その時体を揺さぶられる感覚で目が覚めた。夢を見ていたのだ。「パパ夕食よ、起きて、ピザが冷めちゃうから早く起きて」雅美がソファでうたた寝していた卓也を揺さぶっていた。上半身を起こし襖の陰に消える娘の後姿に寝ぼけた声で聞いた。「ママは今夜も残業かー?」

アロマセラピーサロンを経営する妻の英子は、コロナ禍も何のその評判が良く、顧客はコンスタントにやって来る。だが従業員を一人減らした今はその分英子に分が回って来る。そのための残業も多く、その時は長女がピザのデリバリーを頼む。なぜかいつもピザである。

持ち前のセンスと手腕でセラピーをここまでやり抜いた妻は、さらに事業を成功させようと必死だ。どうせ毎日宅配ピザにするのなら、自分で窯を造ってやろうじゃないかと思ったのもDIYの一つの理由だった。忙しく働く妻への恩返しの意味もある。

大工と言う父の仕事を忌み嫌っていた卓也は事ある毎に父に反抗した。今でこそ『大工さんはカッコいい』と言う子供たちも多いが、30年前はまだ男の子のなりたい仕事ランキングの下位にあった。そんな事もあり父の仕事に不満があった。

しかも誠実に丁寧にと仕事をこなす父は、いつも寡黙でうつむいてばかりいた。それが辛気臭いと思いあまり父と口も聞かなかった。いかにも工務店と言った白いカーテンを引いた自宅の入り口にも嫌気がさしていた。

そして卓也は努力で奨学金を取得し有名国立大学に合格し、念願のサラリーマンになった。

だが父親に反抗するような気持で成ったサラリーマンの生活は空しく儚い物だった。あの時の父との確執が原動力だった勉学への思いは、成果が出ても何の満足も得られない。

三年前、父が心筋梗塞で急死した時、卓也は郊外の借家から交通の便の良い父の家に引っ越して来た。母の死以来父が守って来た家の中は、整然として傷みもなく堅牢としていた。それはまるで父の大工仕事のように、地道な魂のこもったしっかりとした生活空間だった。

だが妻の英子はちょっと古臭い家ねと言い、彼女の実家からの借金でほとんどリフォームしてしまった。何事も成り行き任せの卓也は何の反対もせず、それこそ黙って成り行きを見守った。そしてそれは正解だった。

深夜になって妻の英子が帰って来た。すっかり冷えたピザをレンジで温めもくもくと食べている。働きづめなのに愚痴も言わない。証券会社のサラリーマンで営業担当の卓也は、コロナ禍での在宅勤務で対面営業が出来ず給料も激減した。

そんな夫に文句の一つも言わない出来た嫁である。「すまないな、お前にばかり働かせて」と言うと「あなたが悪いんじゃないわよ」と明るく笑う。

英子は好きなアロマセラピーの仕事を極めそれは軌道に乗りとても幸せなのだった。

「あのさー庭の隅に手作りのピザ窯を造ろうと思うんだけど」ピザを食べてる妻のそばまで行き弱弱しく卓也は言った。「毎日デリバリー頼むんだったら自前の窯で焼いた方が安上がりだろ」と言って見る。英子が薄く笑った。

「あのね、ピザを自前の窯で焼くんだったら、まずピザの生地を作らなきゃいけないのよ、それにトッピングの材料も用意しなきゃ。あなたにそれが出来るの?雅美は先ず駄目だし、店で売ってる冷凍の生地なんて嫌ですからね」卓也はうなだれた。このところ妻には頭が上がらない。

「それよりも庭の隅にあるあの物置ね、雅美の勉強部屋にリフォームしない?あなたのお父様がそのために造られたんでしょ。30年経ってもまだしっかりしてるし、あのまま腐らせておくのはもったいないわよ」

「それはグッドアイデア!」と卓也は即座に思ったが口には出さなかった。ただこの女はいつも俺の考えを先読みしてくれると感心した。「実は雅美にはもう話してあるの、彼女喜んでいたわ」「そうか、良かった」卓也は本当にそう思った。

「俺が使わなかった部屋を孫の雅美が使ってくれるなら親父も本望だろう」彼は今こそ部屋を造ってくれた父親に感謝したい気持ちだった。そして密かに「親父はこの家のどこかで俺たち家族を見守ってくれてるのだろう」と思った。

森林に囲まれた曲がりくねった坂道

森林に囲まれた曲がりくねった坂道を車で行くと、トロリとした感じの薄緑の湖が右手に見えた。ここを過ぎればサリーに会える。ロスアンゼルスを出発してすでに5時間は経っている。

コムニュティー カレッジで絵画の講師をしていたサリーは、退職後亡き母親が残した湖畔の山小屋に移り住んだ。それが半年前。その後も私達はLINEのやりとりをし、彼女は引っ越し先の家や近辺の森や湖の写真を送ってくれ、とうとう私を家に招待したのだ。

やがて前方に小さな集落が広がった。数軒のレストラン、コンビニ風のマーケット、コインランドリー、そんなものを寄せ集めたような小さな町だ。その時、奇妙な物が目に入った。

褐色の木造建ての二階のバルコニーに、花模様のロングドレスを着た痩せた白人女性が、柱に寄りかかりこちらを見ている。とても奇麗な女性だが身動きしない。身動きもせずただぼんやりと立っている。その階下はピザ屋である。

女性に見とれていた私は、ハンドルを切りそこなうところでとても慌てた。

サリーの湖畔の家は、古く質素だが堅牢な家だった。時を経たチョコレート色の木造建てで前庭が芝生に覆われている。そこに立つ数本の白樺と茶色い家のコントラストが素敵だった。半年の間にゆるくパーマをかけた彼女の髪はさらにグレーがかって、どこか精神的な顔をしている。

夕食後庭に置かれたローンチェアに二人して座った。目の前の湖があたりを幻想的な雰囲気にしていたが、私はさっそく気になっていた事を話した。先ほど見た、あの身動きしない美しい女性の事である。

「ああ、、、」と彼女はうなずき「あれは人ではなく人形なのよ」「人形には見えなかったけど」彼女は微笑みこんな話をしてくれた。

20年前、あのピザ屋にとても可愛い娘がいて店を手伝っていた。娘は一人娘で両親に溺愛された。そこにデンマークから来た若いバックパック旅行者が偶然立ち寄り、二人は恋に落ちた。娘の両親も彼を気に入り、物置だった離れの小屋を片付け青年を無料で住まわせた。

そして娘は妊娠した。だが青年はさっさと国に帰ってしまった。傷心の娘はしばらく泣き暮らしとうとう姿を消した。

両親は血眼になって娘を探した。誘拐殺人では?と地元警察、ボランティア消防士等が近隣の森を探した。だがすべて徒労に終わった。「湖に落ちたとか思わなかったの?」私は彼女が作ってくれたマティニに口をつけた。

「そこなのよ、近辺の湖を探したけど見つからない、この辺りには湖の数も多いし結局、捜索を打ち切った。まさか自殺するなんて普通思わないでしょう」私は黙って前方を見た。対岸の森の上の切り立った山頂の雪に映える夕日が神秘的だ。

サリーが続けた。「ところが娘の死後、夜更けになると彼女の泣き声が毎夜聞こえてくるようになり、たまりかねた母親が霊媒師に相談したのよ」「霊媒師?」私はうさんくさい顔をした。

「そう霊媒師よ」彼女は自信に満ちた顔をして続けた。「霊媒師が言うには、娘はここから南方にある暗い湖の底に沈みとても寂しがっている。彼女を地上に引き上げ人目につく所に置き、寂しさを払拭してやれば魂は浮かばれる、そのためには」

「そのためには?」と聞く私をサリーがちらりと見た。「そのためには彼女とよく似た等身大の人形を作り、一目のつく所に立たせる事。単に置いてはダメ、立たせる事と霊媒師は言ったのよ」

それで母親は人形の作り方を調べ渾身込めて人形を作った。思いが込められた人形を二階のバルコニーに立たせしばらくすると、娘の泣き声が聞こえなくなった。

「そう言う事ってあるものよね」私が言うと「あるものよ」サリーがうなずいた。私達の目の前には日没直前の黒い太陽がまさに沈もうとしていた。

翌朝、サリーに呼ばれ朝食のテーブルに着くとハーブとチーズ入りのオムレツが用意されていた。菜園で採れた豊富な香草を包んだ柔らかいオムレツはとてもおいしかった。あたりを包み込む優しい微笑を彼女は失わず私は癒された。

私の前にコーヒーを置きながらサリーが言った。「昨日の話だけど実は後日談があるのよ」待ってましたとばかりに私は彼女を見た。「人形をバルコニーに置くと、それがローカル新聞やテレビニュースになり写真も紹介され、人形の美しさに人々は魅かれ沢山の人がピザ屋に押し掛けるようになったのよ、しばらくは行列が出来たほど」「それは良かったわね」私は心からそう言った。

3日間の滞在はとても楽しかった。彼女の運転でドライブ徘徊、火山噴火に寄る溶岩の石柱、レインボー滝などなど、自然の創造に寄るパノラマが素晴らしかった。子供時代に母親と暮らした湖畔の家にまた戻って来た事を、彼女は喜んでいた。絵画教室を開くことも計画していると目を輝かせた。

帰途につくためサリーの家を後にした私は、迷うことなくピザ屋に立ち寄った。女性の両親が生きていればまだ60代の筈だ。彼らに何らかの声をかけて見たいと思ったのは、単なる私の感傷だったのかも知れない。

ピザ屋の夫婦は私の訪問を喜び「サリーとは懇意の中で、死んだ娘は彼女と同じ年だった」と言った。「霊媒師の占いは良く当たりあれ以来私たちは幸せだ、今でもあの時のニュースを忘れず訪れるお客もいる」主人がそう言うと婦人が微笑でうなずいた。

「人形はメンテナスを怠らず妻が時々手を入れる度に、顔がますます生き生きして来る、まるで魂が宿っているようだと、お客に言われる」ロスアンゼルスに向かう車の中で、私は主人の最後の言葉を思い出していた。

現代は動画の時代である

現代は動画の時代である。ありとあらゆる動画がユーチューブに氾濫し、視聴者はより取り見取りの中から好きなものを選び楽しむ事が出来る。

中でも猫動画は人気を博し、手を変え品を変え投稿者はセンスの効いた猫動画を投稿する。視聴者はそれらの中から勝手に選び、面白ければチャンネル登録する。投稿者が「登録してね、登録してね」と言うからだ。

登録すれば配信者の稼ぎにもなり、視聴者は人助けをしたような豊かな気持ちになる。これが作る側と見る側の一つの醍醐味かもしれない。

ある初夏の昼下がり、イサムはふらりと近所の公園にやって来た。ベンチに座りあたりを見回す。サクラも葉桜になり日差しも強い。池の岸辺をカモの親子がすいすい泳いで行く。

彼は勤め先のコンピューター会社を昨日解雇されたばかりだ。プログラマーの仕事だったが失意感はあまりない。「何とかなるさ」と言う安易な気持ちで生きているから、何が起きても響かない。

事実、首になったのは自分の向上心のなさが理由と言う事に気づいてさえいない。

その時オレンジ色の子猫がそばに来て、彼をじっと見上げた。まだ一か月にも満たない野良猫で、うるうると彼を見上げる両目が愛らしい。「おい、どうした?」彼が思わず声をかけると子猫はピョンと膝の上に飛び乗って来た。

家に連れ帰った子猫に残り物の飯と水を与え、しばらく遊んでやった。猫は驚くほど彼になつきニャーニャーと可愛い声で鳴き彼にまとわりついた。コンピューターのプログラマーをやっていた彼が、可愛い猫を前にして、猫動画のユーチューバーにでもなろうかと思い立ったのは自然な成り行きだったのかも知れない。

オス猫だったので‟こてつ“と名付け去勢手術もすませ良く可愛がった。餌もネットで調べ良さそうな奴を見つくろいふかふかの猫ベッドも買った。もともとイサムは心優しい性格なのだ。

猫との距離がさらに縮まった所で第一回の動画を製作し世に放った。子猫が水を飲みながらチラチラこちらを見るだけの動画である。タイトルは『こてつの日常』平凡すぎるとも思ったがあまり奇をてらっても視聴者はそっぽを向く。

ところが反響が凄かった。投稿してすぐにチャンネル登録者が2万になった。イサムはほくそ笑み「ちょろいもんだな」と思った。その後も登録者数はうなぎのぼり、大した動画でもないのに。イサムは次第にうすら寒くなって来た。登録者数はひと月ごとに10万人増えて行く。

コメント欄には「中に人間が入っている見たい」「表情が人間そのもの」あるいは「売ってくれたら100万円で買う」とかべた褒めのものばかり。

動画投稿を始めてから半年ほどして父から電話があった。「動画見たよ、すごいな!今じゃ大富豪じゃないか!」故郷の香川県で讃岐うどん屋を何店も営む父は、イサムを東京の私立大学に出し、卒業後いつまでも就職できない息子に嫌な顔一つせず仕送りを続けた。今でも「嫌になったらいつでも帰っておいで」と言ってくれる。

だからイサムの根底には「東京がダメなら香川があるさ」と言う愚にもつかない甘えがはびこっている。

繁盛している店は両親と長男、次男が激しく切り盛りしている。イサムは家族に猫かわいがりされ、意気地のないふぬけ男になってしまった。

登録者数が100万人になった頃こてつがふっと居なくなった。今では月1000万円の金づるがどこへ遁走したんだと、イサムは血眼になって探した訳ではない。「事故に会わなければいいが」と心配し写真入りのチラシを作り、その辺の電信柱や木の幹にペタペタと貼った。猫を見つけた公園にも行って見た。

だが無しのつぶてである。イサムは意気消沈し猫恋しさに以前の動画を見返し、懐かしい猫の表情やしぐさを見て静かに涙ぐんだ。

その中に彼が公園でこてつを見つけた日に撮った動画があった。これは投稿せずに記念に携帯に残したものだ。膝の上のこてつがじーっと彼を見上げている。長い間見上げぺろりと舌を出し横を向いた。どこかで見た猫だな、彼は初めてそう思った。

その時脳裏に一つの記憶がよみがえった。20年も前に飼っていたオレンジ色の猫、コーリーと言う猫の事である。その頃人気の子供向けテレビドラマの主人公の名で、ただ思い付きでつけた名だった。

だがイサムはその猫にそれはひどい虐待をした。まだ7才だった彼は二階の階段の一番上から、思い切りコーリーを下の廊下に投げつけたり、猫の平衡感覚を保つひげを根こそぎハサミで切ったり、穴を掘って首だけ出して埋めて見たり、それはひどい事をした。別に猫に恨みがあった訳ではない。

むしゃくしゃするのだ。砂糖にまみれもがいているような腹立たしさが彼の神経を揺さぶるのだ。それが必要以上に親に甘やかされメリハリのない子供に芽生える、苛立ち、憤怒、焦燥だとは誰も気づかずにいた。そして猫はある日突然姿を消した。

そうか、あいつが生まれ変わって俺に会いに来たという訳か、イサムは漠然とそう思った。『猫の恩返し』か、と思ったがそうではない、いやこれは『猫の仕返し』だと即座に思った。

新しい動画を出せないイサムに、視聴者からのコメントが辛らつだった。「猫はどうした、殺したのか?」「今すぐ探して動画を上げろ、さもないと視聴者全員今すぐ登録を削除する」「お前は悪い奴だ、何様だと思っているんだ!」などなど。イサムは打ちひしがれた。

実は生まれ変わってイサムに会いに来たコーリーは、彼にもう少し立派な男になれ、強い一人前の男になれと諭しに来たのだった。ひどい事をされたがイサムは餌と水だけは決して忘れずに与えた。それをコーリは忘れなかったのである。

ドッペンゲルガーと言う現象

ドッペルゲンガーと言う現象をウイルが知ったのは最近の事だ。この広い世界のどこかに自分とそっくりの人間がもう一人いると言うドッペルゲンガー現象。しかもその人物を見たとうの本人は、早晩死ぬ運命にあると言う。

これは都市伝説などではなく、古典作家の中には実際にそれを体験し本に書き、その本の中で自分をもう一人の自分に殺させたり、日本のある作家は体験を書いた後、自殺という形で自分をこの世から抹殺している。

叔父のイタリア料理店で働くウイルの店に近頃、新客が一人増えた。馴染み客の多い店だから新参はすぐ分かる。男はつばの広い紺の野球帽をかぶり、つばの両脇を極度に下に曲げサングラスをかけている。

ウイルはその男がどこか自分に似ていると密かに思うようになった。

スポーツシャツにジーンズと言う格好でやって来て、男は戸外のバーカウンターでビールを飲む。戸外と室内は上半分のガラスで仕切られているから、ウエイターとして店内を動き回るウイルには店の様子が良く分かる。ウイルは時々ちらりと男を見るが彼はいつもあらぬ方向を見ている。

つまり彼が見ていない時は向こうがこっちを見ていると言う事だ。

その男が今、キャッシャー脇に立っているウイルに向って真っすぐに歩いて来る。そして彼の前でぴたりと止まり「君は以前オハイオ高にいたウイルじゃないか?」と聞いた。「ああ、そうだけど」ウイルは怪訝そうに答える。

「俺だよ、俺、ほら、サッカー部で一緒だったジョーだよ!」男はサングラスをはずし帽子を取りウイルの手を握った。「あーあ、君かー」確かにそれは見覚えのある高校時代のジョーだった。ウイルは事情を察し引きつるような笑いを見せた。「君がこの店にいる事を人づてに聞き会いに来ていたが、なかなか言い出せなかった」ジョーは屈託なく喜びを見せた。

マサチューセッツ州のオハイオ高校、しかも部活のサッカーで一緒だったジョーとは、高校卒業以来15年以上音信不通だった。何も無理して会わなかった訳ではない。もともとそれほど深い友情に結ばれていた訳でもないのだ。ウイルは卒業後すぐにロスに住む叔父を頼って移住し、その後は高校時代の友人とはだれ一人会ってはいない。

「なぜ俺はジョーを俺の分身なぞと思ったんだろう」その夜ウイルは思った。ジョーはウイルとは似ても似つかない顔をしている。「それになぜ彼は今になって俺に馴れ馴れしくするのだろう」とも思った。

ウイルは常に世間に対して潜在的恐怖心を抱え生きている。何かに追われるような、そしてそれから逃げるような疑心暗鬼にとらわれている。それはアル中だった母との、二人だけの過去の暮らしがトラウマになっているのかも知れない。母は彼に愛情が無かった訳ではないが、それを表現する術を知らず酒にまぎれて彼の生活をぶち壊しにした。父も母との暮らしに嫌気がさし去って行った。

酒に酔った母のせいで、家族が崩壊したのだと彼は今でも思っている。

ジョーは育った街で矯正歯科医としての父の仕事をついだ。だがコロナ禍と言うご時世で患者があまり来ない、それでバケーションを取りロスに遊びに来たと言った。「バケーションか、いいご身分だな」とウイルが皮肉を言うと「一度外で会わないか。君と話がしたい」と真面目な顔で言った。

四日後の水曜日、店が非番の日にウイルは行きつけのメキシコ料理店でジョーと落ち合った。「君はテッドを覚えているだろう?」開口一番ジョーが言う。「テッド?」ウイルが首を傾げる。「ほら、高校の時演劇部にいた、、、、」

「あーあ、役者になるとか言ってたやつだろ」「そうそう、そのあいつがハリウッドに来たのは知ってるな」「いや」と答えウイルはビールで口を湿らせた。何かおかしな話になりそうだと彼は身構えた。

「それであるエージェンシーに所属したまでは良かったが、それがひどい三流事務所で結局嫌になりやめた」「で今は何してる?」ウイルが聞くと「ヒモ、女のヒモだよ」「幾つだ、あいつ」とウイルが思わず聞き返す。「33、俺たち三人は同い年、同年に同高校を卒業した訳だから」ジョーがウイルを上目使いにみた。

「ところが捨てる神あり拾う神ありで、最近じつに良い女性が現れ結婚する事になった」

‟なーんだ、良かったじゃないか“と言う顔になりウイルがため息をついた。

だが、だからどうしたっていうんだとウイルは訝しがった。そんな事を今さら俺に報告してどうするつもりだ。察しの良いジョーが背筋をのばし声を変えた。

「君は高校の頃、あいつに200ドル貸した事があるそうだね」ウイルがジョーをチラりと見た。

それは本当だった。新しいコンピューターを買うために手助けをした。彼も母子家庭で母親は彼の学校生活に実に無関心だった。その事に同情したのかも知れない。細々と貯めたなけなしの金を貸してやった。だが返却をうやむやにするテッドに催促もせずそのままになってしまっていた。

「彼はそれが気になってどうしても今返したいと言うんだ。ヒモなんて生活をしていたが誠実な女に巡り合い、結婚するとなると身辺を整理したいと思うんだろ。あいつも根は生真面目な奴だからな」それはそうだとウイルはうなずいた。

「実はね、彼の結婚式が来月半ばにハリウッドのビーチホテルであるんだが」「ハリウッドのビーチホテルか、豪勢だな」とウイルが苦笑いをした時、頼んでいたケサディアが来た。ジョーはすぐにその一切れをつまみウイルを見た。「それで君も招待されているんだ、どうする?」そう言うとケサディアにぱくついた。

15年以上も連絡が絶えていた高校の友人の結婚式にいそいそと出かける程、ウイルは現実的ではない。人との付き合いが苦手でだからウエイターなぞをやっているんだ。ウエイターと言う名目で忙しく動いていれば、気もまぎれ憂さ晴らしにもなる。

「それでこれが招待状なんだが」ジョーがポケットから白い小さな封筒を取り出しウイルの前に置いた。彼は一瞬それが葬式の案内状に見えた。ウイルがおそるおそる中身を取り出し二つ折りの紙片を開くと、左ページに鮮やかなカップルの写真が貼りついていた。

「あっ!」ウイルは思わず声を発した。テッドの顔はウイルのまさにそれだった。一卵性双生児、そう言ってもおかしくはない。「あいつも紆余屈折がありだいぶ様変わりした。高校の頃はぼってりしていたが今は贅肉が取れ、とてもいい顔になったよ」

ジョーは屈託もなく笑った。「だから結婚式に行ってやれよ、俺からも頼むよ。過去を清算するためにも君に会い直接金を返したいと言っている」

ウイルは招待状を手にしたまま茫然と宙を見ていた

郊外のその小さな田舎町

郊外のその小さな田舎町にはなぜか占い師の数がとても多かった。それらは小さなショッピングセンターのマッサージ屋の隣にあったり、車の行き来の激しい道の横に埃だらけの裏窓をさらしたり、小さな坂道の脇に雑草に囲まれていたりと、実に商売っ気のない佇まいを見せていた。

人口の少ないこんな田舎町で、それで生計が成り立つのかと心配する向きをよそに、彼らはそうやって何十年も暮らしている。

だがそんな占い師の中で、最近とみに客足が伸びているという者が一人いた。町の人々は「どうせ猫の占い師、犬の占い師、そんなもんだろう、あるいはロボットか?」と皮肉を言った。流行らない占い師には同情を寄せるが、はやればはやったで嫉妬する。この町の人たちもそんなありきたりの人間たちだった。

占いを見てもらう人たちは多少後ろめたい気持ちを持っている、自分に問題がある事を人に知られたくない。だからなるべく人目につかないような時間帯をねらいさっと中に入る。だからその人たちに様子を聞こうと思ってもなかなか難しい。それで誰にもほんとの事はわからなかった。その占い師が女でしかも飛び切りの美人と言う以外は。

その間にも流行り始めた件の占い師は、石段を数段登った古い木造家の広いポーチを、真新しいヒノキ造りに変えたり、家の横に花に囲まれたモダンな小屋を建て、セカンドビジネスとして『瞑想教室』をも開いた。町の人々は色めき立った。「なぜあいつばかりが儲かる」

この頃から「その女占い師の頭の回りには金輪が浮かんでいる」と言う噂が立ち始めた。

キリスト教の聖母マリアの絵に見る、あの頭のまわりに描かれる金色の輪である。そんなバカなと誰も言うが、イタリアのどこぞの漁師町では、聖母マリア像の目から血の涙があふれたと言うニュースが今でも時々ある。

イタリアで起こるそんな奇跡がアメリカの片田舎で起きたとしてもなんら不思議はない。

だが噂を噂のまま捨て置くのは体に良くない。「よし、俺が調べてやる」とその時、建設作業員のラリーが乗り出した。彼は仕事柄、無粋で野暮な荒くれ男だとか言うのでは決してなかった。仕事休みの日は映画観賞、読書をそれとなく楽しむ静かな男でもある。

上半身のすべてに入れ墨を入れているが、それも上品な色合いで鳥、花、雲、月などをモダンにデザインしたものだ。それで仲間にいつも揶揄されるが気にしなかった。彼は『我が道を行く男』だった

だから自分の人生に後悔、不安などは微塵もない。あるのは一つ、疑念である。何の疑念か?それは女にもてないと言う疑念である。

見かけも悪くなく教養もある俺がなぜ女に嫌われるのか?「ラリーよ、それはあんたが死ぬほど退屈だからよ」と教えてくれる人がそばに居れば良かったが、そんな人は居なかった。

さてラリーは今、占い師の家の石段を登って行く。フロントドアの前まで来ると、さわやかでスパイシーなヒノキの匂いが鼻を刺激した。その匂いが彼を奮い立たせた。

半開きのドアからちらっと中を覗くと、机の上にうつむいている女の髪の分け目が白く見えた。次に彼女は頭を上げドアから顔だけ見せているラリーに向って、おいでおいでと手招きをした。

女の前に座ると彼女は「何を占いたいの?」ニコリともせずに聞いた。噂通り女はものすごい美人だった。ただ年が分からない。30才?50?70?にも見える。嗄れ声を消すために一つ咳をするとラリーが言った。「いつになったら女が、つまり恋人が出来るのか占って貰いたい」糞真面目な顔で言った。

「今まで恋人は出来なかったの?」と占い師が無関心に聞いた。「出来ても長続きしない」とラリーが言う。すると占い師はそばにあったタロットカードの山をいきなり崩し、両手でそれをくるくると混ぜ合わせた。

その恐ろしく長い爪にドキリとしラリーはじっと見入った。ピカピカ光る色の違うそれぞれの爪の上に、ダイヤモンドのような粒が乗っかっている。こんな爪見た事ない、とラリーはなおも見入った。

それは付け爪と言うものだよと教えてくれる奇特な人はその時も居なかった。占い師は手慣れたしぐさでカードをいじくり回すと、さっと重ねて、開いた扇の様にした裏面をラリーに示し「一枚引いて」と命令した。

ラリーが一枚引くと、彼女はそれを奪い取りテーブルの上、つまりラリーの目の前に表を広げぴしゃりと置いた。それは杖を持った全裸の女が蛇に巻かれている絵で、後ろに黄色い太陽が笑っているものだった。

ラリーの顔を見つめて「あなたは心優しく人に好かれ真面目に働く人です。このまま今の人生を楽しめば安楽な老後が待っています」占い師は言う。「勉強心もつよく周囲に惑わされず、いずれ成功した自分の世界の中で幸せになるでしょう」と続けた。

やがてラリーは占い師の頭のまわりに、金色のドーナツのような物がぼやけて浮かんでいるのに気づいた。頭のまわりを囲むその金ドーナツは、時々ふわりと彼女の頭上に浮かび上がる。ラリーはそのドーナツをじっと凝視した。

「ただ、そのあごの下の傷が気がかりね、恋人が出来ないのはその傷が原因かも」と女はじっとラリーのあごを見た。彼は黙っている。「でもここから先は第二ステージだから加算料金になる」と彼女が言ったその時、金ドーナツがまた頭上にふわり、ラリーは思わず立ち上がりそれをつかもうと手を伸ばした。

彼はバランスを失い、女占い師を押し倒すように彼女の上半身に折り重なった、いや折り重なろうとしたその時、彼女はさっと身をかわし彼の右ほほにバシャリと炸裂の大パンチを喰らわせた。

ある住宅街の歩道

ある住宅街の歩道を歩いていたら一本の大きなユーカリの木が目についた。ふと木の根元を見ると小さなドアのようなものがある。

画用紙で作った古い逆さU字のドアで茶色く塗られ、黒い鍵穴もある。何となく童話の挿絵に出てくるような可愛いドア、その上に青い小さな窓が二つ、セロテープで貼ってある。ドアのそばに本物の小さなレモンが添えてあった。

数日して同じ家の前を通ると、木の根元の小さなドアはそのままで、その後ろのポーチの本物のドアの前で、白髪の老婦人が椅子に座ってこちらを見ていた。優しく笑みを浮かべていたので、そばへ寄り話しかけて見た。

「あの木の根元の画用紙のドアと窓、とても可愛いですね」と言うと、彼女は急に暗い顔になり「あれは私の孫が作ったの、オリビアがね、でも彼女はもう死んでしまったの」とふいと横を向いた。

「死んでしまった?どうして?」思わず聞いた。「トラックに轢かれて死んだの。オリビアはあの日向かいの家に遊びに行って、家から外に出て来たから“オリビアー”って大声で呼んだら私に向って走って来たのよ、そしたら向こうから来たトラックに」と道路の右側を指さし涙声になった。

気まずくなり立ち去ろうとすると、「彼女はね童話を読むのが好きで特に『不思議の国のアリス』は良く読んでいた」と話し始めた。「オリビアは空想癖の強い子でね、とても頭の良い子だった」

「木の根のドアを指さして、“グランマ、このドアを開けてはダメよ、これは『不思議の国のアリス』のウサギ穴なの。ドアを開けたら穴に落ちてしまう”って言うのよ」婦人は愛らしい孫の事を思い出したのか涙を流し始めた。

『不思議の国のアリス』など読んだ事もなかった。だが老婦人の話は、オリビアと言う少女の人物像を鮮明に浮き彫りにし興味を持った。その晩『不思議の国のアリス』をネット検索し物語の全文を読んだ。ウサギ穴の意味が知りたかったのだ。

それから一週間程して同じ家の前を通ると、今度は恰幅の良い老紳士がポーチの椅子に座っている。私に向って手を上げた。そばに寄り「奥様はお元気ですか?」と聞く。

「ああ、たぶんあなたの事だ。この前言ってましたよ、通りがかりの人と話をしたって」と言う。「奥様は素敵な方ですね」「見かけだけはね、妻はひどい認知症で実は困っているんです」

「お孫さんが事故で亡くなられたとか、、、」と言うと彼は頭を振り振り「またそんなありもしない事を」とため息をついた。「孫なんかもともといません、死んだのは向かいの家の子供です」とすぐ前の家を指さした。

「もう、現実と空想がごっちゃになっているんです、孫なんかいないし、あの漫画見たいなドアを作ったのも妻なんです」とユーカリの根元を指さした。「そんなふうには全然見えませんでしたが」と言うと彼は頭を抱えうつむいてしまった。「だから困っているんです」と顔を上げ私を見た。

「認知症なのは主人の方ですよ」一週間後同じ場所で婦人が私に言った。「それに糖尿病を併発して、お医者様に運動するように言われてるのにビールばっかり飲んで、もう老い先短いのに」彼女は出来の悪い子供の愚痴を言うように顔をしかめた。

散歩は私の大好物だ。空を見たり木々を見たりして歩くと、気持ちがウキウキしてくる。だが同じ道をいつも歩きはしない。飽きて来るからだ。だがこの老夫婦の家の前はついつい歩いてしまう。

家の前のユーカリの枝には向かいの子供のために作ったと言う、ご主人の手製のブランコが下がり私はそれにも優しさを感じた。

彼等は非常に親しみ深かった。ポーチにはいつも婦人か主人のどちらかがいて、歩く私に手を振ったり近寄ったりした。長年の友人をもてなす感じで私と話をしたがった。だが彼らが話す事と言えばパートナーの悪口ばかりだ。

それでも嫌な気がしなかったのは、彼らが持つ上品でエレガントな雰囲気が好きだったから。それも二人が黙っていればの話だが。

パートナーを蔑む彼らの口調は次第にエスカレートして行った。夫が「妻は少女趣味で大人になり切れず」と言えば、妻は「主人はろくな仕事も持たず私の稼ぎで生活して来た」と言う。

「実はね、主人には別の家庭があるの、子供もいて奥さんもいるんだけど、奥さんには他の旦那さんがいるから、しかたなくここにいるのよ」ある日婦人が声をひそめて語った。「私が知らないとでも思って、死ぬ前に必ずばらして赤恥かかせてやるわ」と言うその顔は、いつかテレビで見たシンデレラの継母の怒り顔にそっくりだった。

「妻に生命保険をかけているんだ」と彼女の夫が言う。「1億ドルのね、殺すのも面倒だから何とか事故で死ねば良いと思っている。こっちにとばっちりが来たらもともこもないからね。だがいつまでも死なないならその時は!」と立ち上がり、ユーカリの枝にかかったブランコを思い切り引っ張り宙に放った。

誰かが両手を私の頭の中に差し込み、脳みそを掻きだすような異様な感触があった。私の体は天井を向いたまま、頭からベッドにずるずると埋もれて行く。そこは暗い穴で、私は羽の様に上下左右に宙を舞いながら奈落の底に落ちて行った。

翌朝、昨夜の悪夢からまだ覚めやらず外に出ると、おびただしい蝶の大群が宙を舞っていた。ある蝶達は木の幹に止まりそこだけ蝶の羽で埋めつくされている。蝶の大きさはまちまちで色はオレンジ色、羽のまわりが黒いまだらになっている。何となく不安な色だ。

これはいつか人づてに聞いたオオカバマダラと言う渡り蝶だとすぐに分かった。だが数年前にある豪雨のためほとんど死滅したのだ。そして今この時、忘れていた幻の蝶の大群襲来。私は妙な胸騒ぎを感じた。

走るようにしてあの老夫婦の家に急いだ。すると彼らの庭にも蝶の大群が飛び交っていた、ユーカリの枝にも幹にもびっしりと止まっている。その中でポーチの椅子に座っている老夫婦は、笑いながら幸せそうにビールを飲んでいた。声を上げ笑っている。

ユーカリのブランコに乗った少女もまた、笑いながら空高くブランコを漕いでいた。彼女は何となく妖精のような顔をしていた。