トムはお船の船長さんだった

トムはお船の船長さんだった。あの大海原にただようさざ波のように、とても繊細で優しい心を持っていた.

Cruise voyage

「マリ、僕は癌なんだよ」ある日クラブのパティオで彼が言った。「癌と言っても色々あってね、僕のは舌癌。そのうち舌を抜かれ口を焼かれ、口が貝のようにふさがってしまうんだ」といい、手にしていたジャックダニエルのオンザロックをテーブルに置いた。気の早い私はその右手が溶け、骨がくずれ風化して行く様を秒速の速さで夢想した。

小さな田舎のカントリークラブで、妻に失望し暇をもてあましたメンバー達は、カードルームでくだをまきバーカウンターで下手糞なカンツオーネを歌い、バーテンダーを苦笑いさせていた。だが妻に先立たれたトムは、ひっそりとやって来てひっそりと飲みひっそりと帰って行った。彼は孤高の人だった。

しばらくするとクラブに、ナナと言うあばずれ女が、金目当てにトムの家に入りびたりだと言う噂が立った。夫は女の品定めをするために、あるダンスパーティで彼らと同じテーブルに座るお膳立てをした。ナナは雰囲気の優しい女だった。ふわふわのアフロヘアに花模様のシフォンドレス、ときどき私たちをちらりと見た。その時ぷんと高価な香水の匂いがした。

トムときたら、まるで頭の弱い金持ちの男の子が乳母に甘えるように、ナナの手をぴしゃぴしゃと叩いていた。海の男らしくがっしりとしていた彼の肩や胸板が、ひとまわり小さくなっていた。潮風にもまれた茶褐色の顔が生白く変貌していた。その時初めて私は、彼が本当に癌なのだと気づいた。トムとダンスを踊ると「ナナにプロポーズしたけど、断られたんだ」彼が耳元で囁き微笑した。

しばらくすると、トムはぱったりとクラブに姿を見せなくなった。「彼が最後の航海に出たらしい」ある日夫が言った。夢想好きな私はすぐに、牛車輪の形をした船舵を握り、海原を見つめているトムを思い描いた。そしてその寂しそうな横顔も。

「トムを慰めに行こう」ある日夫が言った。よけいな事だと私は言った。死に行く者を慰めるのは、その人の不幸をもてあそぶ事だと。だが私は気になった。トムのリビングの壁全面には、とてもリアリスティックに白樺の林が描かれ、私は行くたびに迷子になったような気がしたものだ。小リスがぱっと壁から飛び出し、足首を噛みそうだった。トムもあのリビングで迷子になっているかも知れない。

すっかりと面変わりしたトムを前に、私はバカみたにはしゃいだ。トムを笑わせようといつか見た夫と見た、ニューオリンズの小劇場の覗き穴から見たアダルトビデオの話をした。ナナはとても笑った。トムは静かに微笑した。でも目は笑っていなかった。放射線治療で下顎の骨は壊死し歯は抜かれ、ノートブックとペンを手にしていた彼は、笑いたくても笑えなかった。いちいち思いを紙に書くのが、恥ずかしそうだった。

「トム、どうしたの?悲しくなるわ、死んじゃだめよ、強く生きてよ」そんなおためごかしは口が裂けても言えない。彼の瞳の底に浮かぶとても真摯で生真面目な精神が、私をじっと見据えているから。初めて癌の告知をされた、あのパティオのテーブルでもすでに気づいていたから。

生き残る者が死に行く者と話す魂と魂の話し合いは、照れ臭くて私には出来なかった。照れ臭い?私はまだ若かった。トムは私を買いかぶっているのだと彼に諭そうにも、あまりに私は道化になり果てていた。

トムがホスピスに移った時、夫がまたもや言った。「トムに会いに行こう」私は黙っていた。「ナナのアイデアなんだ」彼はダメ押しをした。「四人で昔やったジンロミーをやろうって、トムも気にいると思うよ」夫は乗り気だった。私はまた道化をやらされるんだとしぶしぶついて行った。

ノートとペンを傍らに置きトムは気分が良くなかった。ホスピスの玄関わきで三人だけのカードゲームを始めると、亡霊のような患者たちが私たちを取り巻いた。車椅子に乗ってじわじわと私たちに近づいて来た。デッドマンウオーキング、、、。ナナがぱっと煙草を取り出した。煙を鼻から出し患者たちを見返した。「僕に一本くれませんか」バンダナを頭に巻いた、痩せこけた黒人の若い男がそう言うと「癌患者にあげる煙草はないわ」ナナがそう言い私に一本くれた。

それは血も涙もない言葉だった。トムは先生に怒られた小学生のように悲しい顔で、私を見た。病室に戻るととうとうトムが、かんしゃくを起こした。あたりにある物を手のひらで床にまき散らした。でもそれは弱い力だったので少し滑稽に見えた。

「トムどうしたんだ?」夫がバカげた事を聞いた。「枕がない!!!」激怒が頂点に達した彼が、封印された口を思わず感情的に開いた。すると彼の丸い口から大量の吐しゃ物が床に吐きだされた。それは腐りかけた獣の内臓物のような恐ろしい匂いだった。誰もが鼻を押さえて廊下に飛び出した。

だから言わない事じゃない。こんなものだ、見せかけの同情心や思いやりなんて。真実を突き付けられると、あたふたと逃げ出してしまう。人の不幸を慰めようなんて実におこがましい。

夫はキャプテンハットを形見に貰い、ナナはどこかへ消えた。私はと言えばトムの魂の叫びを踏みにじったと言う後悔に、今もさいなまれている。

カラスをペットにしたい

カラスをペットにしたいとレイラから言われ春子は困惑した。学校帰りに草むらで見つけたカラスを家で飼いたいと言う。「パパやジュンにまず聞かなきゃね」と春子は言った。

夕食の席で皆に話すと「野生の鳥や動物は飼っちゃいけないじゃないかな」と夫は言い、弟のジュンは「日本のどこかじゃカラスが生ごみを漁るんで、退治するために鷹を使ってるよ。カラスと暮らすなんてごめんだな」さっさと自室に引っ込んだ。この息子は姉より二才年下だが、とてもしっかりしている。春子は春子で「カラスの群れが屋根の上で鳴くと、その家に死人が出る」と昔祖母が言った事を思い出し眉を曇らせた。

夫の駐在でロスに住み着き早や二年。小学六年のレイラはまだ英語も話せず友達もいない。とても不幸せな学校生活が続きいつも暗い顔をしている。その娘がカラスの友達を作ろうと、生き生きしているのだ。

Eye contact with the Jackdaw

「ママ、ママ、これ見て、すごいよ、ほんとすごいよ!」一週間前、タブレットを見せレイラは興奮していた。ブラジルの小さな島の老人が、オイルまみれで瀕死のペンギンを助け海に放すと、そのペンギンが毎年、3000キロ彼方から彼に会いに来ると言う動画だった。老人とペンギンがキスをしている写真がありどうやら実話のよう。

それにあやかろうと言うのでもないだろうが、自分も弱ったカラスを助けたいレイラ。学校に馴染めず不登校気味だったレイラが、久々に見せた笑顔だった。春子はそんな娘が愛しかった。

カラスが飛べるようになるまでと言う事で、春子は夫と息子を説得した。小さめのダンボール箱に柔らかい布を敷きカラスを横たえ、餌や水を入れるための穴を開けた。妙に品のあるカラスで鳴きもせず、可愛い丸い目でじっと家族を見つめたりする。別にケガしている訳でもない。ただ弱っているだけだ。「野良猫にでもいじめられたんだろ」と父親が言うと、「違うよ、普通はカラスが猫をいじめるんだから」とレイラが言った。普段父親に口答えなどしない娘の変化に母親は驚いた。

カラスは物置にしている地下室に置くことにした。ガラス引き戸の向こうに、先住人が造った常夏風の小さな庭がある。ユッカや大シダ、極楽鳥花などがセンス良く配置され、小さな岩もある。レイラの好きな庭だった。ドアのそばにカラスを置く。「ここだとディンディンも庭が見れていいよね」レイラが嬉し気に言った。ディンディンとは老人がペンギンにつけた名前である。ちゃっかりそれをカラスの名にしている。

学校から帰るとレイラは、いそいそとカラスに会いに地下室に行く。ネットで調べ丹念に餌を選び注意深く世話をする。やがてカラスはレイラの指に止まるようになり、キスをすると嘴を寄せそれに答える。羽を撫でられるとじっとレイラを見つめる。彼女はカラスに夢中になった。

「明日ディンディンを学校に連れて行く」ある夕食の時間にレイラが言った。週に一回自分の宝物を皆とシェアする、プレゼンテーションの日がある。そこでカラスをみんなに紹介すると言う。「あんた、だいじょうぶ?英語も喋れないのに」と春子。「だいじょうぶ、ジュンが原稿書いてくれたから」ジュンがてれて餃子をパクリと口に入れた。「カラスさまさまだな」夫が笑いながらビールを飲む。

カラスはかなり知能の高い鳥だと言われる。自分で割れないクルミを、赤信号で止まった車のタイヤの前に置いたり、飲みやすいように噴水の水の調節をするなど、見かけほど愚鈍でない事が分っている。一度見た人間の顔は忘れないとも言われる。ディンディンもそんな中の一匹なのだろうか。

地下室から少女達の笑い声がする。春子はケーキとアイスティを持って降りて行く。プレゼンテーションは大成功だった。新しく買った白いドーム型のケージの中で、カラスはキョロキョロとあたりを見回し、とても愛嬌があった。レイラはクラスから沢山の拍手をもらった。心の中のもやもやが一気に晴れたように、レイラは見違えるように明るくなった。カラスを見せてと言う友達も増え、ときどき家に連れてくるのだ。

そんなある日、地下室に降りたレイラが大声を出した。「カラスがいないよー」春子が降りて行くと、レイラが空のケージの中をのぞいている。この頃にはカラスの具合もとても良くなり、ケージを庭に出していた。カラスは自分でケージを開け、ユッカの枝先や岩のてっぺんに止まり、キョロキョロとあたりを見回していた。艶の出て来た翼をときどき大きく広げていた。そしてとうとう飛び立って行ったのだ。

「また戻って来るかなー」春子が何げなく言うと、レイラが空を見上げた。「帰ってくれたら嬉しいけど、ディンディンは仲間と一緒にいた方が幸せだよ。誰だって友達といた方が楽しいよ」と言った。その娘の横顔を春子は頼もし気に見つめた。何となく周囲をほのぼのとさせ去って行ったカラス、ディンディンがまた遊びに来てくれる事を春子は心の隅で願った。

63180948 - flying crow between heaven and earth in a cloudy sky

 

一部の熱狂的な

一部の熱狂的なファン程ではないが、私もオンラインショッピングしたりする。だがこれが常に私を混乱の世界にいざなう。まずEメールアドレスの後にパスワードを入力する。これがすんなり行った試しがない。必ずと言っていい程、incorrectの赤い文字が顔を出す。Oops!と言うお騒がせ文字をつけて。だがめげずに何度も入力する。が、その度にOops!。最後にやっとそのサイト向けのパスワードがある事に気づく。私はEメールアドレスのパスワーを入力していたのだ。

住所、電話番号、クレジットカードのナンバーを書き込むのも一苦労である。まず私はそれらをそらで言えない。銀行、スーパーの店先で「電話番号は?」「住所は?」「ジップコードは?」と聞かれれば必ず動揺する。なぜかポリスに職務尋問されたように慌てふためく。家にいる時は郵便物をそばに置きそれから住所や電話番号を得るので、オンラインショッピングには困らないと言いたいところだが、、、。

Amazon on Apple iPhone 6 device display

実は私の脳髄の中には“あまのじゃく”と言う悪い虫が巣くっていて、これが時々ちょっかいを出す。あまのじゃくとは何でも人にさからう悪鬼の事である。最近、ハウス番号を間違え注文商品が他の場所に行った事があった。住所を入力した後何となく間違っている気がしたが、玄関ドアを開けハウスナンバーを今一度確かめようとも思ったのだが「ま、いいか」とそのまま注文のボタンを押したのだ。

待てど暮らせど商品が来ない。ここで最後の切り札。オンラインショッピングなど目をつぶってでも出来る娘に調べてもらう。電話の向こうでしばらくPCをカチャカチャやっていた娘が「住所が間違っているよ」と言う。同じ敷地内のコンドの違うユニット#を書いていたのだ。その住所を訪ねて行くと、ヒスパニック女性が出て来て「そんなものは知らないよ!」と流暢なスペイン語で怒られてしまった。注文する際、最後に住所を確かめなかったのは、むろんあまのじゃくのせいである。

その一週間後、今度は住所も名前も知らぬ他人宛ての小包が届いた。アドレスはやはり同じコンドの敷地内だった。その日たまたま私も小包(猫の玩具)を待っていたので、配達人が二人の商品を間違えて届けたのだろうと、宛名の女性を訪ねると、「確かに(靴)をオーダーしたが私はまだ何も受け取っていない」と、私から靴の箱を受け取りながら女性は気の毒な顔をした。

彼らのこの失態を、アマゾンと言う大組織と掛け合うには、私の英語はあまりに下手糞でしかも電話でとなると至難の業。ここでまた娘の登場である。アマゾンと話した彼女が「お金は返金するからもう一度オーダーしろ」と彼らは言ったと言う。その通りにすると二日後に品物は届いたが返金はまだない。Oops!この時点で銀行のトランザクションをチェックすると、すでに返金してあった。ごめん、アマゾン。

その後別の商品を注文すると、今度は玄関ドアのそばに置いた箱の写真をEメールで送って来た。「ほら、確かにここに置いたよ」とでも言うつもりだろう。配達もさることながら、それが盗まれると言う問題もある。通行人の盗み以外に配送者の盗みも毎年、膨大な数に上ると言う。アマゾンも大変だな。

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余談だが私には、二つの事が同時に出来ない、第二国語が習得できない、人と世間話が出来ない、ために孤独が好き等の問題もある。こういった生活感覚の欠如は、天才、偉人によく見られる兆候だとネットにあるので、いい気になってお医者にはまだ行かない。

だが天才とバカは紙一重と言うから、天才でない私は単なるバカなのだろう。きっとそうだろう。

サンフランシスコ行

サンフランシスコ行の飛行機から窓外の雲海を見ていた。そこへ編集長との会話がよみがえる。「シスコのチャイナタウンへ行ってほしい」と言われたのは二週間前だ。60年前に撮った映画を最後に映画界を引退した、ある女優に会ってほしいと言う。

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「これはある意味ではセンセーショナルよ」と彼女はクラブサンドの一切れをつまんだ。日本人街のレストラン、ランチついでのミーティングだった。一時は雨後のタケノコのように増えた日本人向けの無料情報誌、そのほとんどが自然淘汰された中、今もしぶとく生き残る敏腕女編集長。彼女に私はある種の畏敬の念を抱いている。

「この女優は日本人離れした美人でね、もともとお姫様役とか金持ちのお嬢様役で民衆をふとりこにしたんだけど、ある時汚れ役をやりたいと駄々をこねたのよ。ほんとに駄々よ。彼女はずっと何をやってもトップ女優だったんだから」「私、その人ネットで見た事あります。ずいぶん前の写真でしたけど」私は身を乗り出した。

「そこで監督が用意した映画が原爆病患者の話でね、右ほほに大きなケロイドのある女の話なの」「へー」と私は昔見たケロイドの写真を思い出した。「彼女はアメリカで整形手術をして前より美人になった。それを機に自ら整形外科医になり人々を助けたと言う成功話、陳腐きわまりない嘘のような話で、でも映画はヒットしたのよ。もちろん海外ロケなどはなく、すべては日本のセットでの撮影だったんだけどね」

これには後日談があり、女優はその後強度のノイローゼになった。鏡を見る度に、ケロイドのメーキャップが落ちないと大騒ぎをするのだ。周りが幾らなだめても「お化けのようだ」と奇麗な顔を両手でかきむしる。いつしか精神病棟に入ったと言うまことしやかな噂が巷に流れた。だがどうにか持ち直しもう一作撮ったんだけど、さんざんな出来で彼女はそのまま自然消滅した。今は100才に近いと言う。その女優にインタビューしろと言うのだ。「そんな大役を私に?」と言うと「何事も経験よ」と彼女は意味ありげな目をした。

ロスから約一時間半のフライトでシスコに着いた。ホテルにチェックインしカメラマンと別れ、その後チャイナタウンをぶらりとする。街並みは原色の赤と黄を基調にした派手な色合いで、とても異国的だ。元女優はあるレストランの階上のアパートに住んでいると言う。

San Francisco's Chinatown at sunrise, California, USA

ドアを開けると、逆光を受け窓辺に立つ女性の後姿が見えた。海に面した部分がすべて広い一枚ガラスで、その向こうに広がる海景色、揺れる島影、曳航するボート、飛翔する数羽のカモメ、どこかモネの絵に似ている。やがて女性がゆっくりとこちらを振り向いた。

長い外国暮らしで身に着けた気品、優雅さ、ノンシャランな仕種、こちらが卑屈になるほどの洗練されたオーラに包まれた絵姿。まさにモネの絵の貴婦人にもひけを取らない女性が、そこに立っていた。

窓を背にした肘掛椅子にゆっくりと彼女は座った。私とカメラマンは窓と直角になった、ソファに座る。用意したどんな質問も馬鹿にされそうな威圧があった。それに気おされ私は、愚かにも窓の向こうを指さし「あの島は何という島ですか?」と聞いてしまった。彼女は窓の方を向き、「さあー」と首をかしげた。“監獄島?”と私は一人ごち、“いや、あの島には確か建物が見えたはずだ”と思い直した。

「あの島は不思議な島でね、ときどき見えなくなる事があるのよ」と彼女は言った。「見えなくなる?」「そう、まるで空の上から神様が引っ張り上げた見たいに」と女神のようにつんとした。広いリビング、贅沢な調度、一度中国人の商人と結婚したがすぐに別れたと聞いた。今は生活費をどうしてるのだろう?つい下世話な事を思った。奥の方でカタコト物音がする。お手伝いだろうか。

最後にカメラマンが三脚をセットしている間、私も彼女の真正面に立った。すると光の具合で彼女の顔に、今まで見えなかった無数の深いしわが見えた。垂れ下がった首のしわも。別れを告げドアの所でもう一度振り向くと、私は見たのだ、右ほほにある大きなケロイドの痕を。後ろから抱きつかれでもしたかのように驚きあわて、私は外に出て後ろ手にドアをぴしゃりと閉めた。

結局、その記事はボツになった。リアリティがないと言うのだ。「あなたもまだまだ修行が必要ね」と編集長はあきれた顔をした。

私の窓は縦に長い

私の窓は縦に長い四角い窓で、ツルバラのふち飾りがついていた。その向こうにあなたが立っていたのよ。あなたは胸と袖に白いフリルのついたブルーのスーツを着て、出来そこないのオースティン パワーズ見たいに、卑屈に笑っていた。ちょっと待って、それは私の思い違い。あれは芸能界に入ったあなたの初めてのプロマイドよ。あなたの人生を変えてしまった芸能界の。

同じ年に同じ音大を卒業した私たちは、夢と希望にあふれていた。日本のピアノコンクールに幾つも優勝していずれは世界進出と、夢をふくらませた。でも大きすぎる夢は挫折するのも早い。しばらくするとあなたはライブハウスやラウンジで弾くようになり、私はピアノ教室を開いた。でもコンタクトを取る事はやめなかった。すぐに雲隠れするあなたを見失うまいと、必死だった。だって音大では私たち、恋人同士だったもの。

Classical music concept

心の底にはあなたのピアノの音色が好きという事もあった。鍵盤をたたく優しい指のタッチ、若葉のささやきを思わせる繊細な音作り、そんなものに魅かれていた。だから薄暗いライブハウスであなたの出番を待ったり、ラウンジの隅で一人しょんぼりピアノを聞くのも、苦にならなかった。でもあなたは気づいてくれなかった。気づかない振りしていたんでしょうけど。それにあなたのファンもだんだん増えて来たし。

やがて芸能界があなたに目をつけ、歌うピアニストとして売り出そうとした。それをあなたは受けて立ち、歌を歌った事もない癖にポロダクションのいいなりに、甘ったるい作り声を出しピアノの音色も邪悪なものに変わった。クールなムードと美貌で最初はそこそこの人気だった。でも二年もすると誰もがそっぽを向いた。民衆は正直なのよ。

その頃私はあなたを訪ねたのよね。人の住所を探し出すのは私の特技なの。窓を閉め切ったままの薄汚いあなたのアパートは、足の踏み場もないほど散らかり、壁にもたれて座ったあなたの荒んだ目が恐かった。「何、このごみ屋敷は!」つい私は声を荒げた。「これが俺の今の心模様だよ」あなたは薄ら笑いを浮かべ、上目づかいに私を見た。「やめて、そんなきざなセリフは、今のあなたにもうスターになる夢なんてないのよ!」

あなたは立ち上がり私をベッドに押し倒すと、馬乗りになって「このストーカーめ」と凄んだ。キスをしながら私の唇を血がでるほど噛み強姦した。終わるとあなたは、「もう俺につきまとうな」と背中を押して外に追い出した。私は唇の血を指で押さえながら「これが最後通牒なわけね」とわりにさばさばとして夜の街を歩いた。あなたの心の狂気をばっちり受け止めてやった。なにもかもが吹っ切れた。

あれから三十年。旅行先のロスの海辺のボードウオークであなたを見た時は、ほんとにびっくりして腰を抜かすかと思った。頭を振りながら狂ったように鍵盤をたたき、こんな所でストリートパフォーマーやってるなんて。体には贅肉がつき顔はホームレス焼けし、そこに深く刻まれたしわ。すっかり変貌した姿は別人のようだった。でもピアノの音色に、昔聞いたあの優しい指のタッチの残滓のようなものを聞き取れ、あなたと分かった。

私はそばに行きビートルズの『AND I LOVE HER』をリクエストした。音大の頃、二人で良く聞いた曲。でもあなたはすました顔で『YESTERDAY』を弾き、それもしれっとすぐに他の曲にすりかわった。あなたがすでに異次元の世界にいる事を悟った私は、埃とフケだらけの白髪頭を横目で見ながら、ピアノの上のガラス瓶に思いきりチップをはずんだ。

それにしてもあなた、ここはいろんな国の旅行者の来る所、世界に進出すると言う夢だけは、ある意味はたした訳ね。おめでとう。

Venice Beach boardwalk

 

 

幻想的で神々しい

幻想的で神々しいその森の中に、ジーナは歩み入って行く。何という懐かしい光景だろう。森の中すべてを埋め尽くすおびただし秋の木の葉。赤、黄、紫、まるでカラフルな大きな蝶の群れが、木々や地面を被っているよう。その優しさの色に彼女は膝まずきたいほど感動していた。ふと、ストローラーの中の幼児を見つめ話しかける。

「森の中はきれいね。ほら素敵な枯葉のベッドが沢山あるわ」すると2才を過ぎたばかりのヘンリーは、物分かりの良い笑みを浮かべジーナを見返す。時々ジーナは自分がこの子の母親なのか子守りなのか、分からなくなる時がある。彼女はストローラーから赤ん坊を抱き上げキスをした。まるで恋人にするような愛情深い口づけを。

Beautiful autumn sunlight in a forest

「ヘンリーには規則正しい生活を教えてね。怠け者は大嫌いなの」母親のモリーは高飛車に言う。シングルマザーでセラピストの彼女は、わずか14才のジーナを子守りに雇った事に、今は懐疑的である。近隣の小奇麗なビルにオフィスを持つ彼女は、恋人が自分を妊娠させたまま去った事が許せずいまだに根に持っている。

「ランチにしようか」ジーナは美しい枯葉の上にブランケットを敷く。籐製のランチボックスからミルクびんを取り出しヘンリーに渡す。すると彼は心得顔で乳首を口に含む。幼児キリストに似たピュアな表情をもつ天使のようなヘンリーと、こんな風に森の中でピクニックをするのが夢だった。

母親のモリーはその頃一人の患者と向き合っていた。患者が言う。常に誰かに盗聴され盗撮されてる気がして眠れない、眠れないから発狂しそうだ。この女は20年前、3才の従妹を階段から突き落とし重症を負わせた。両方の母親が外出し他には誰もいない午後だった。だが母親たちが姉妹同士であったため、すべては秘密裡に隠蔽され加害者は丁重に釈放された。女はどす黒く地獄から這い上がって来たような陰鬱な顔を、ときどき左右に激しく振る。つぐなわずに闇に葬られた罪の重圧、それが彼女をいまだに苦しめている。

ハラハラと舞い落ちる枯葉の雨に、ヘンリーが両手を上げる。その手の愛らしいくびれを見ながら、ジーナは不安でならない。誘拐しても構わないほど好きなこの赤ん坊を、もうすぐ母親に手渡さなければならない。なんと理不尽な事か。子供が信頼し愛しているのはこの自分なのに。モリーはクライアントの前では女神のように振る舞うが、家に帰ると口やかましく横暴である。その事でジーナは彼女を尊敬できずにいる。

ジーナと暮らす無教養な両親と4人の年下の姉妹、彼らはやっと見つけたベビーシッターの仕事を脅かす。裕福な家庭で働くジーナに嫌がらせをし、両親は稼いだ金を取り上げる。彼女はヘンリーと二人、どこかへ遁走したいと欲望するようになった。こんな風な森の中でもいい、二人きりで暮らすのだ。

「あなたが階段から従妹を突き落とした理由を、もう一度説明して」唐突にモリーが患者に聞いた。「理由はない」女は無表情にいつもの答えを出す。モリーはうなずく。それは納得が行く事だ。当時8才だった少女が、たまたま階段の上で隣にいた幼女の背中を押したとしても、理由などない。その時耳たぶに止まっていた小さな悪魔、その囁きに従っただけだ。「押せ!」と言う、、、。

ここでモリーは絶妙な質問を放った。「もし今あなたが階段の真上に立っているとして、隣に幼女がいたらやはり背中を押しますか?」女は数秒考えたが「そうすると思う」と恬淡と答えた。ああ、ではこの女は今でも耳たぶに小さな悪魔を飼っているのだ。生まれつき悪魔の手先となる宿命なのだ。モリーはため息をつき窓外を見た。駐車場の色づいた落葉樹が美しかった。彼女は身に覚えのない胸騒ぎを覚えた。

blue baby stroller isolated on white

ジーナは手ですくった枯葉の束をヘンリーに振りかける。歯のない口を開けヘンリーが笑う。きゃっきゃっと愛らしく両手を上げて。ジーナがまた枯葉をかける。ヘンリーが笑う。この絶え間ないやり取りが二人を夢中にさせた。

やがてゆっくりとヘンリーが真横に倒れて行く。急に眠気に襲われたのだ。今では深々と枯葉に被われたヘンリーの体は、急に動かなくなった。しばらくしてジーナは彼の顔の上の枯葉を指先で取り除いた。死んだように眠っているヘンリーの顔。その顔にまたジーナは枯葉を戻す。

俺はうっすらと目をあけた

俺はうっすらと目をあけた。青空に広がる樹木の葉枝が見える。何という木だろう。下から眺める木の枝は爽快なものだ。俺はふと、昔親父と見た古いロシアの映画を思い出した。ふわふわの毛皮のコートを着た貴族の男が、従者が手綱を引く黒い馬車に乗って森の中を走る。ふっと男が空を見る。そこに風に揺れる葉群れが見える。男が何かつぶやく。

「パパーあの人何て言ったの?」俺は聞いた。親父が答えた。「森の緑がきれいだって言ったんだよ」男がまた何か言った。「今度は何て言ったの?」「人生はすばらしいって言ったよ」親父は嫌がりもせず答えた。25年も前の話だ。なぜかその貴族が親父に似ていた。次の瞬間、激痛が腹に走った。だがそれは7才の俺の腹ではなく、立った今、道の上にあお向けに寝ている俺の腹の痛みだ。

Sunny Canopy Of Tall Trees. Sunlight In Deciduous Forest, Summer

小さな町の歯医者だった親父は、40半ばまでは羽振りが良かった。脱税で捕まるまでは。そこで患者が激減しお袋は半狂乱になった。歯科医大を三浪もしていた俺が「俺、ロスに行くよ」と言うと「そうか、そうするか」と彼は冷めた顔で言った。行きの飛行機代と少しの小遣いをくれ「あとは自分でなんとかしろ」と言った。親父にしては出来た決断だ。だが彼は一年後に心臓まひで死んだ。あんがい繊細だったんだ。その後お袋からは音沙汰なし。

腹の痛みはドクドクと続くが耐えられないほどではない。痛みは行ったり来たりする。そうだ思い出した。落ちていた百ドル札を拾おうと看板を持ったまま大通りに出た。それが一ドルだと分かった時ちょっとうろうろした。その時暴走して来た赤いスポーツカーに激突されたんだ。次の瞬間、ものすごい勢いで宙に放り投げられ地べたに叩きつけられた。あっという間だった。そうだ看板はどこにあるんだろう。あれを無くしたら仕事はクビだ。

どういう訳か親父はお袋より俺を可愛がった。映画のビデオを借りて俺と見るのが好きだった。映画はどれもおセンチすぎて俺は苦手だった。「ぼく、ちびまる子ちゃんが見たいな」そう言うと、親父はほんとにそのビデオを借りて来た。女、子供が見るアニメを黙って俺と見ていた。その頃からだ、俺のセクシャリティに迷いが生じたのは。

腹の痛みが背中にまわり苦痛で意識を失いそうになる。両手をバタバタと地面に叩きつけるが手はマヒしている。レストランの看板を路上で振り回すサインスピナーと言う仕事は、俺の性にあっていた。看板をクルクルと振り回す練習を死に物狂いでやった。物になるのに3年かかった。仕事は車の多い大通りの歩道でやる。すると俺のパフォーマンスをたたえるドライバーが出て来た。車の窓からサムズアップする、クラクションをならす、そんなドライバーが増えた。気分が良かった。何やっても無視された俺が人の目を引いている。

女にも男にも性的欲求が湧かない俺がバイセクシャルだと分った時、目からうろこの思いだった。何をやっても半人前でどっちつかずの性格も、それが原因だったのだ。俺は闇をさまよう迷い人だった。だがサインスピナーと言う仕事が俺に、アイデンティティを持たせてくれた。だがもうそれも終わりだ。

遠くでサイレンの音がする。救急車のサイレンだ。誰だ、ぎゃーぎゃそばで泣く女は。「ショー!ショー!ショー!」そうだこれは俺の嫁だ、俺を優しく養ってくれる素敵な嫁だ。英語なまりで俺の名を呼ぶ可愛い嫁だ。救急車の音が近くで止まった。赤い服を着た男が二人、俺の体を持ち上げ担架に乗せ運び出した。その時また空に広がる葉枝が見えた。素敵だ。俺もあの貴族のように、ちょっと気取ってつぶやこう。「人生はすばらしい」と。そこで俺は気を失った。

Emergency medical service

サクラは浮気している

サクラは浮気している。足の悪いだんなをいい事に、女を連れ込みイチャイチャやってる。彼女の愛人が女だと言う事を問題にしてるんじゃない。今どき同性愛などみなやってる。サクラにはもう一人愛人がいる。それが問題だ。

庭にレモンの木が三本ありブーゲンビリアの花が塀に絡まる、そんな家に新しい女は住んでいる。とても目立つ家だ。女は塀のドアから出て来て、大きなゴムの木の後に隠れる。サクラの姿が見えるとまるで犬が尻尾を振るように、走り寄って来る。サクラは手のひらを開いて小さな宝石を見せる。その手のひらに女はキスする。「宝石?ただの餌じゃないの」とサクラは言う。そうだ餌だ、女を釣るための。

サクラとは中学、高校、短大と一緒だった。親友だと私は思っていた。「いつまでも友達でいようね」私は彼女に言い続けた。人に好かれず孤独だった私は、サクラだけがたより。イエスともノーとも言わず彼女はただ微笑む。その微笑みが恐くもあったが、先の事は考えない事にした。カリフォルニアに遊びがてらの一年留学を彼女が決めた時も、迷わずついてきた。だが二人でホームステイした家の近くに小さなアイスクリーム屋があり、なんとサクラはそこのオーナーと結婚してしまった。留学半ばで結婚。昔から無鉄砲な性格でそこが魅力だった。「あたしも店でアイスを売るのよ」サクラは嬉しそうに言った。

Waiter Giving Receipt To Female Customer Standing With Family

「あんたが結婚したらどうなるの、あたしは」「大丈夫、面倒みるよ」サクラは流し目でそう言った。ブラッドの店は小規模だが繁盛していた。うしろかぶりの野球帽で頑張るイケメン、性格がさっぱりしていた。だが彼はじきに足の甲を骨折した。朝だけのジョギングを夜もやり初め、張り切りすぎたのだ。サクラは私に一緒に店で働いてくれと言った。

その頃だ、サクラが愛人を家に連れ込んだのは。ブラッドは文句も言わず、黙ってその女を見ていた。私もすでに彼らと暮らし、二人の生活をつぶさに見ていた。「せめて彼の前で女を抱くのはやめて、あんまりじゃないの」私の助言をサクラは鼻で笑った。集中力がなく、店のOPEN、CLOSEのサインさえ忘れるサクラは、事の重大さに気づいていない。

ある日私が店に一人でいると、ブラッドがふらりと立ち寄った。まだギプスをはめ松葉づえをついている。ガラスケースの中のアイスのコンテーナーを布きんで拭いていると、「君は良くやってくれる」としみじみ言った。「商売の才能があるよ」とも言った。生真面目で寂しそうな彼の顔を見て、妻になるべきなのは私だとちらっと思った。だがその晩、驚くべきことが起こった。サクラのもう一人の愛人が突然訪ねて来たのだ。

Asian woman grabbing knob opening wooden door

迷いあぐねやっとドアをたたいた女に、サクラは感激していた。「良く分かったわね、ここが」と言い女を抱きしめた。部屋に入って来た女をチラッと見て、ブラッドはまたかと言う顔をした。女たちはこれ見よがしにブラッドの前で、サクラに甘える。サクラは生き生きして前より美人になった。二人の女愛人のおかげだとは思いたくもない。

店の売り上げが少しづつ減っていく。ブラッドを助けたいと私は頑張る。だが心迷いがありうまく行かない。サクラはもはや頼りにならない。ついに二人の女愛人を家に住まわせ、私たち三人の仲はとても気まずくなった。女達はハデなケンカをし家中をうろつきまわり、大声で話した。行儀作法がなってない。

「売り上げが落ちてるよ。真面目に店の事考えたらどうなの!女を二人も家に連れ込み、いい加減にしなさいよ!」ある日私はサクラに詰め寄った。もうがまんが出来なかった。すると彼女は珍しく派手に怒った。「あんた、ホントにうるさいわね!私だって、ブラッドの介護で疲れてんのよ。リハビリのヘルプだって大変なんだから!」「でも愛人を二人も連れ込むなんてどうかしてるよ!」二人の女がブラッドのギプスの上に飛び乗るのを、痛い思いで私は見ていた。

サクラが手にしていたテレビのリモートコントロールを床に投げつけた。「ああー、あんたほんとうるさい!愛人愛人ってたかが猫じゃないの!」ブラットがカウチでじっとこちらを見ていた。そうだ、たかが猫、されど猫なのだ。猫で身をほろぼす女は多い。猫は魔性の生き物。人間を冒とくする。とてもあやふやで不安定な私たちの暮らしを、ひっかき回そうと二匹の猫が爪をとぎ待ち構えている。

Concept of divorce, crack in relationships,family split. Sad girl and guy after parting. Colorful vector hand drawn illustration.

東部からカリフォルニア

東部からカリフォルニアに越して来た時、お世話になった東部の親戚の方々にお礼のハガキを出そうと思った。地元の写真つきの絵ハガキに、新住所、近況などを書きそえたいと思ったのだ。だがこの街には外へ出ればすぐに、地元の絵ハガキが買える賑やかなギフトショップ等ない。ロスのようにツーリストが氾濫しているような街ではないから。
郵便局へ行けばあるかもと、ふと思った。車がないから歩いて行く。散歩は私の大好物。幾らでも歩ける。ネットで調べると2,30分ほど歩けば郵便局があると言う。だが着いた場所は高齢者向けの健康グッズの店だった。車椅子などが置いてある。なんだか馬鹿にされたような気になった。私も高齢者の一人だし。
しかたなく駐車場をぶらついていると、若いカップルに出合った。男性の方が近づいて来て、「君は日本人か?」と聞く。「そうです」と言う。男性はうなずき「僕は二年前、日本でバックパック旅行をした。その時日本人がくれた親切心は忘れられない」と言う。絵ハガキを買うまでは落ち着けない私は、気もそぞろに「この辺に大きな郵便局はないか?」と聞いた。
「ここから歩いて30分も行けばあるわ」と女性の方が言った。歩くのは構わないがすでに落胆している私は、また30分かと礼もそこそこに歩き始めた。日差しの強い、人や車の少ない幅広の道を歩いていると、とても心細い気分になって来た。まだまだこの街では新参の私だ。先ほどの男性がまた追いかけて来た。郵便局まで乗せて行くと言う。女性は近くの図書館に行ったそうだ。

Camarillo Streets and Mountains, CA

それから彼が車の中でまくしたてた日本人称賛は、こちらが持て余すほどの激しさだった。「日本人の旅行者に対する親切心、優しさは他のどんな人種にもおよばない。僕は驚いた。電車の中で切符を無くしたら、新しい切符を買ってくれた人がいて小遣いまでくれた。田舎道を歩いていたらお婆さんがおにぎりをくれ、道に迷っていると、目的地まで一緒に歩いてくれた人がいた」口角泡を飛ばし話してくる。「日本で親切にされたから、今度は僕が日本人に優しくする番だ」とも言った。
どれも日本人あるあるだから、にこやかに聞いていた。実は数年前、娘と日本旅行した時、電車の中でサングラスを置き忘れた彼女が駅員に届けると、紛失係に名前と電話番号をと言われた。次の日、京都のホテルに「ありました」と駅から電話があった時は、娘よりも私の方が驚いた。その時は、一旅行者として私が日本人の正直さに触れたのだった。
郵便局にはなぜか長蛇の列ができており、絵ハガキをとたずねると、そんなものはないとにべもない職員の返事。すると列の後から「ドラッグストアに行けばある」「モールにもある」と言う声がする。ドラッグストアにモールか、それは盲点だった。なぜ郵便局などと思ったのか、遠距離からの引っ越しで軽い時差ボケにかかっていたのかも知れない。

Postcards on racks with views of Trakai castle

駐車場で待っていた男性が、しびれを切らし局までやって来た。雨が降りそうだと言う。窓の向こうを見るとすっかり雨空に変っている。ぽつりぽつりと雨粒が窓ガラスに落ち、私たちは車に戻った。図書館の近くで連れの女性が、小雨の中で立っている。私は恐縮して車から飛び下りた。「ごめんなさい、雨に濡れさせて」と言うと彼女は無表情にうなずいた。
立ち去る彼等に最後にもう一度、車のドアから礼を言った。「とても親切にしてもらってありがとう。あなたに親切にした日本人にも私は礼を言わなければ」と言うと彼はさわやかな笑顔を見せた。
人の親切、思いやりはどこの国にもある。要は流儀の違いだ。日本人の旅行者への親切心は、仕種のこまやかさ、思い入れの深さなどで、他国の人達のそれより際立って見えるのかも知れない。小さな島国の中で日本人同士が営々と温めて来た礼の美徳が今、ネット配信などもあり日の目を見ているのだろう。
空を見るとにわか雨はあがり、家々の窓に灯りがともりはじめていた。私はとても幸せな気持ちで家路に着いた。

Modern home at dusk

テレビの画面

テレビの画面をぼんやり眺めていたアイは、あるシーンで目が釘付けになった。そのチャンネルは、殺人、レイプ、浮気などをネタにした、中流階級の退屈しきった主婦向けの番組で、出てくる俳優がすべて美形、庶民的だが高級感あふれる舞台装置、難解でない心理描写などで、なかなかの視聴率をあげている。

今しもスクリーンでは、離婚した妻に気前よく豪邸をくれた元夫が仕掛けた、クローゼットの天井の隠しカメラを見つけ、家中のあちこちにカメラがある事に気づき驚く、元妻の顔がドアップになっている。元妻の家にカメラを仕掛けただけで、それをなぜ元夫が、アパートのコンピューターでなめまわすように見れるのか、その辺がアイにはイマイチ不思議なのだが、つじつまは合っているようなのでスルーする。

Cat watching TV.

だがアイの目が釘付けになったのは、隠しカメラを発見したヒロインに同情したからではない。女優が着ていたブラウスが、数日前に買ったそれと酷似していたからだ。彼女はわき役専門の女優だった。が、今日は主役に昇進している。白人と見間違うほど肌の薄い黒人の女優で、小柄でコケティッシュな感じだ。アイの好きな女優だった。

だがその女優がまたもや自分の物と同じデザインのコートを着ていた時、アイは落ち着かなくなった。今度の役は高校の不良グループのリーダーで、リンジー ローハンの映画『mean girls』の二番煎じのようなドラマ。今度も主役でなかなか良い味を出していた。

実はそれらの服をアイは、同じブティックで買っていた。その店には新人デザイナーのコーナーと言うのがあって、アマチュアデザイナーが自分の作品を持ち寄り、店に置かせてもらうのだ。値段はどれも5ドル、10ドル、それでも売れれば次の作品をと、デザイナーのモチベーションが上がる。オーナーの心意気で新人デザイナーが腕を競う。だが一度売れた品と同じ作品は作れない事になっていた。

テレビ女優が自分と同じ服を二回も着ているのだ。彼女もおなじブティックで買ったのに違いない。でもこの世に一つしかない服をなぜ彼女が?アイは心なしか興奮し、自分がその女優のレプリカになった気がした。街へ出ればときどき振り返りスートーカーをチェックし、歩道わきに高校生がたむろしていれば、きっ!と睨みつけたりする自分がいる。彼女はブティックのオーナーと話がして見たくなった。

サンタモニカのサード ストリート プロムナードから北へ数マイル行くと、知る人ぞ知るとても小粋で閑静なショッピングスポットがある。街路樹が美しい石畳の歩道に沿って、カフェ、花屋、画廊など、可愛くて小さな洒落た店が軒を並べている。その店の並びにとつぜん、狭い階段が現れる。階段の上には、水瓶を肩に持つ女の小さな石膏像が立ち、瓶の中から静かに水が落ちている。噴水の周りにはプリムラジュリアンの鮮やかな花々が耐えた事がない。その噴水を囲むようにして数件の店が並んでいる。アイが一軒のブティックの扉を開けた。

14329602 - general view of modern store

「ハーイ」と店のオーナー、クリスがにこやかに迎えた。グラマラスだが上品な仕種を持つ、歯並びの奇麗な女性だった。「今日はちょっと聞きたいことがあって、、、」とアイが言うと、彼女はわずかに首をかしげ微笑した。「この前新人デザイナーのコーナーで買った服と、同じ服を着た女優をテレビで見て、ちょっと気になったの」と言ってみた。

クリスはすぐに合点が行ったようで、「彼女の服はもう見れないわ」と悲し気な顔をした。「女優業が忙しくなって、しばらく演技に専念するんですって」「女優業?」「女優とデザイナーの二刀流は大変よ」アイは納得が行った。女優は店に一枚と自分用に一枚、同じ服を作ったのだ。

「新人デザイナーのコーナーも今は人気がなくてね、作品を持ってくるデザイナーもいないの。今はネットショップやホームページ販売なんかも盛んだし」クリスはそう言うと帰るアイの背中に、もう一度声をかけた。「またいらしてね、あの女優さんこの辺に住んでるから、どこかで会えるかもよ」

階段を降り喉の渇きをおぼえ彼女は、スムージー専門の店に入った。淡い若草色の壁紙に、やはり淡いブルーやピンクのランプシェードがファンタジックで、好きな店だった。いつものように店に入って右手にある、通りに面した小さな木製のカウンターのスツールに座る。

店員が飲み物を持って来た時、アイは何となく後ろを振り向いた。誰かに見られているような気がしたのだ。見ると店の一番後ろのテーブルに座った奇麗な女性が、こちらを見て微笑していた。女優特有のオーラーをまとったあの女性だった。テレビで見るより数倍聡明な感じがする。アイは一瞬、遥かな昔に生き別れた優しい姉に再会したような、奇妙な感傷にうたれ鼻の奥がつんとした。

Various Bubble Tea