じっとしているだけで汗がにじみ出る

じっとしているだけで汗がにじみ出る熱い真夏の午後だった。開け放した背後の窓からやかましいセミの声が聞こえ、それが暑さに拍車をかけていた。俺は教室の最後列の席で頭の後ろに両手を組み顔をそらせ、他の生徒を睥睨していた。

バカなやつらだ、こんな簡単な問題に四苦八苦している。たかが漢字のテストじゃないか。全問解答をすでにすませた俺は全問正解の自信に身をまかせていた。

やがて俺はふと目の隅に、後ろの窓のそばに寄りかかっている担任の姿をとらえた。40半ばでまだ結婚できない女をやっている女教師だ。

この時どういう心の動きがあったのか俺には分からない。魔がさしたとでも言うか、、、机の中からこっそりと国語のノートを取り出しぱらりとめくった。

この時背後で、女教師がわずかに体をずらすのが分かった。“さあ先生、僕はカンニングをしていますよ、そこから見えますか?”かすかに憐れみを込めて心の中で吐いた。

数日後、休み時間に友人と談笑していると、案のじょう教師が俺を呼んだ。「風間君、ちょっと」黒板の隣にある自分用のデスクに座って手招いた。待ってましたとばかりに俺は彼女のそばに近寄った。机の上にはこの前の漢字のテスト用紙が置いてあった。100点満点だった。

「このテストの時、あなたはカンニングをしたでしょ」彼女は言った。俺は何の動揺もなく教師をじっと見た。「どれとどれをしたのか言いなさい」と用紙を俺の前に指先で押しつけた。俺はすぐさま「これと、これと、これ」迷うことなく適当に三つばかりの熟語を指し示した。

すると彼女は「よろしい、正直に言ったから大目に見ます。ほんとは0点にしようと思ったけど、カンニングした漢字だけ差し引きます」教師はわずかに思いやりを込めた微笑でうなずいた。

「カンニングなんかやってません、たんにノートを広げただけです。100点は僕の実力です」ほんとの事を言っても良かったのだが、小学4年の俺には、その後の長いやりとりを思うと気が萎えた。それよりも俺が示したカンニングの漢字をあっさり信じた教師の方が不思議だった。

それでもこの小事件はその後、時々俺の歴史の中で時おり浮かび上がる事があった。まるでとぐろを巻いた蛇がふっと頭だけもたげるように、、、

Wall street sign in New York

あれから20年、俺は今ではニューヨーク証券取引所に上場する日本企業、そこに勤務するエリートサラリーマンだ。ここまで上り詰め出来たのは、もちろん俺のたゆまぬ努力と優秀な頭脳が物を言ったのだが、運の良さと言うのもあった。俺はどういう訳か人に好かれる、愛嬌を振りまく訳でもないのに、男女を問わず人から持ち上げられる、それを俺は神の采配と呼ぶ。

ウオール街で働くエリートビジネスマンには、仕立ての良い濃紺のスーツ、有名ブランドのネクタイ、清潔な短髪などで身を固め、退職後のジム通いで筋トレしスリムなボディを保ち、口角上げた口元で真っ白い歯を見せ、話す、笑うと言う常識的なマニュアルがあるそうだ。俺はそんな猿真似はしない。そんなものは生粋のアメリカ人に任せ、俺は俺の流儀でやる。つまり神の采配に任せるのだ。

俺は今マンハッタンの高級レストランで女を待っている。女はすでに30分も遅れている。「娘がどうも君を気に入って一度会いたいと言うんだ、会ってやってくれないか」数日前にやり手の上司にそう言われた。

会社の祝賀パーティで見たその女は、振るいつきたくなる程の美人ではないが、それなりに品があり目元が涼やかな物静かな女だった。上司の娘だ、会って損はない。恋愛に興味はないが俺も30半ばだそろそろ身を固めても、と思った所で女が入り口に姿を現した。

俺の目の前に座った女はパーティで見た女とは似ても似つかない不細工な女だった。一体どういう事かと目を疑ったが、つまり女はいっさい化粧をしていないのだ。ワインを勧めるといらないと頭を振る、食事にするかと聞くこれもいらないと言う。

「実は、、、」と女は言いバッグから封筒を取り出し俺の前に数枚の写真を並べた。「悪いと思ったけど、あなたの過去半年の行動を探偵に調べさせたの」俺は生唾を飲み込んだ。半年の間にホテルへ行った5人の女達と一緒の写真がまるで切り札のように並べてある。

「アジア人が3人、白人が2人、そのうち半分は人妻だそうね、つまりあなたは誰とでもベッドインできる恥知らずな男と言うのが分かったわ」俺は顔から血の気が引くのが自分でも分かった。「悪いけど二度とお会いする気はないわ」俺は顔を上げ静かに女を見た。

その顔になぜか、カンニングを咎めた20年前のあの女教師の顔がダブって見えた。あの女もこんな粘土細工のような硬い表情をしていて、だが妙に精神的な目をしていた。その目が俺を黙らせたのだ。

女は立ち上がった。そして「探偵は父には内緒でやとったの、だから心配しなくて大丈夫」捨て台詞を吐くと出口に向かってつかつかと歩き出した。

一週間後、俺は上司に呼ばれた。不思議な微笑をたたえて今、彼が俺の目の前に座っている。さあどんな神の采配が下るか。

大学前のバス停

大学前のバス停、心理学の授業を終えたばかりのウエインは、ベンチに座って横を向いていた。目線は信号機の柱の根本にある白いバケツに入った花束。バラやカーネンション、アネモネと言ったありきたりの花。しかし彼はそれらの花に魅せられていたのではなく、花の出所を考えていたのだ。

花が初めてそこに現れたのは三か月前。何のために信号機の柱の基部に花が置いてあるのか、誰かが事故で死んだりすると、その現場に献花と称して人々が花を添えるが、ここで人が死んだと言う話もない。メキシコ人の花売り男の忘れ物かとも思ったが、この辺にそんな男はいっさい見た事がない。

しかも花は枯れると捨て去られ、またもや新鮮な花束がバケツに入れられる。誰の仕業か、酔狂な奴もいるものだ。そこで彼は思考を断ち切り立ち上がった。バスが来たのだ。

ウエインの父親は三年前に殺された。パトカーで地域をパトロール中、暴漢に襲われ防ぎきれずにピストルで撃たれた。暴漢は黒人の若者3人だった。DV、性暴力、麻薬、盗みがはびこる危険な場所で、父親は以前彼らを逮捕した事があった。刑務所から出たばかりの彼らが逆恨みで父親を殺したのだ。パートナーは無事だった。

事故現場にはおびただしい献花、ペットボトルが供えられ、ろうそくが灯された。やはり黒人だったウエインの父親は、非常に人望のある皆に好かれる人だったのだと彼は思おうとした。

Flowers

「父さんは人気があったんだね」まだ高1だったウエインは母親にそう言った。「まあね」母は無表情にそう言った。彼女は夫の死をあまり嘆き悲しむ風でもなかった。

母親は地元の公共放送の教育番組で、生け花、つまり日本風フラワーアレンジメントの講師をしている。メリハリのある教え方とチャーミングな英語のアクセントで、もう五年も続いている。黒人特有の、良く言えば屈強悪く言えばイカツイ風貌が、ウエインからわずかにそぎ落とされたのは、日本人である母の血のなせるわざかもしれない。

その母に彼は,信号機の柱の下の花について話してみた。ソファに寝ころびスマホをいじりながらである。「それで、誰が新しい花束をバケツに入れるのか、分からない訳ね?」と母が聞いた。「うん」「でもそれを知ってどうするの?」彼はハッと顔を上げた。

返答できずに静かに頭を振っていると「あんたは、父さんの事故現場の花がいまだに忘れられないのね」当たらずとも遠からずと言った顔でウエインは母を見つめた。

「あんたもそんな女々しい事を考えるんじゃなくて、もっと未来志向の生き方をしなくちゃね、大学の専攻科目の心理学、ずーっとCプラスじゃないの。心理カウンセラーってそんな簡単になれるもんじゃないのよ、あのね、父さんはもう死んだのよ!」母は高飛車にそう言うと、むき終らないグリーンピースの山を投げ出しあちらに行ってしまった。

「父さんは死んだのよ」と言うのが母の口癖だった。それは脅迫、ダメ押し、威嚇のようにも聞こえウエインをこの上もなく滅入らせた。父の死以来、息子につらく当たる母を彼はストレスのせいだけとは思いたくなかった。

信号機の下の花に関して言えば、彼はまた誰かがそこで死ぬんじゃないかと言う、嫌な予感に苛まれていた。当事者だけにしか分からない事だが、家族を死に巻き込むような事件に会うと人は、どんな些細な出来事でも、これもまた我が身に振りかかる別の火の粉かも知れないと思い悩むのである。ウエインは優しい性格だったので、自分より他人の不幸を思いやった。

晴れているのに雨が降る、変な天気の午後だった。いつものようにベンチに座ってウエインは横を向いていた。バケツの中には新しく入れられた鮮やかな花束が、我が物顔でこちらを見ている。いつ終わるとも知れない目に見えない恐怖に彼を封じ込めた花たちは、彼をあざ笑っているかのように見える。

その時、携帯がなった。母親だった。「ちょっと気になったから言って置くけど、、」わずかにせき込みながら母は言った。「私の占いが当たっていれば、近いうちその電信柱の近くで人が死ぬわね」占い?母は人に頼まれ手相や星座で運勢を見るのを趣味にしていた。

それが当たると言うので、生け花講師をやめて占い師にでもなればと言う、おせっかいな人もいた。父の事故現場で異常なほど多かった献花について言えば、「私の知名度が半分は加担しているわね」と、母は言ったものだ。

だがウエインは占いについてはかなり懐疑的である。人の未来がすでに決まっているなんて馬鹿げている。今まではそう思っていた。

その一週間後、したたかに酔っぱらった若い男が夜更けに、車もろとも信号機に突っ込み命を落とした。即死だった。ウエインは母の占いが当たった事に茫然となった。そしてふと、母は父の死も予想していたのだろうと疑った。

数年前、友人と二人でフランスを旅した時の話だ。

数年前、友人と二人フランスを旅した時の話だ。広大なぶどう畑の横の田舎道を長時間ドライブしていた。未舗装の道で真ん中に生えた草が棒のように先に伸びている。遠景に頭の良い小学生が描いた水彩画のような村が見え、オレンジ色のひなびた教会の尖塔が光って見えた。興味ある風景だったが、私達は黙りこくったままドライブを続けた。二人とも長いドライブでひどく疲れていた。

graoe pupa

やっと予約のホテル、いやモーテルを見つけた時は夜になっていた。倒れ込む感じでフロントカウンターに手を突きチェックインを済ませた。ロビーの隅に埃を被った大きな造花が花瓶に入れてある。閑散とした受付、ガラス皿のキャンディーを一つつまむと、フロント係にじろりと睨まれそれでまた疲れが増した。

バタンキューとベッドに倒れそのまま眠った。しばらくすると私は一人雲の上を歩いていた。雲はまだら雲で個々の間にすき間があり、気をつけなければ下に落ちてしまう。おっかなびっくりで歩いていると、ある俳優の臨死体験の話を思い出した。

「スキー場で事故に会い意識不明で病院に運ばれました。もちろんベッドに寝かされていると言う感覚はなく、雲の上を歩いているんですよ。たった一人で。とても寒くガタガタ震えていると、僕の名を呼ぶ声がするのでハッと目が覚めました。それが医者だったと言う訳です」

彼は言った。「時が経って霊能者にその話をすると、“一人だったから良かったんです。これが何人も歩いていたら、あなたは死んでいるんですよ”と言われました。不思議な体験でした」昔

聞いた俳優の話を、私はフランスのある田舎宿で見た夢の中で思い出しているのである。

やがて私は体の右半分に青白い光を感じて目を覚ました。起きようとするが体が鉛のように重い。光のもとは隣のビルの窓だった。カーテンを閉めずに寝てしまい、向こうも薄いレースのカーテンだけ、それで窓から漏れる青白い光が分かるのだ。

ぬめぬめと黒く光る石畳の狭い路地を挟んで隣接するそのビルは、古いアパートだった。私は半身だけ起こし背中とヘッドボードの間に枕を置き背もたれにして、顔だけ横に向け隣の窓を見た。その窓と私の窓は同じ高さ、同じ広さなので何もかも丸見えである。

不思議な光景だった。部屋全体が青白い光に満ち満ちてその光の出所が分からない。コンピュータの明かりかとも思ったが、光は部屋中に充満しているのだからやはり何か違う。

やがて窓のすぐそばに、背中を丸め何かをじっと見ている白髪の老婆の横向きの上半身が見えた。顔もやはり青白い光に照らされ、蓬髪の頭と異様に膨らんだガウンとあいまって実に気色の悪い光景だった。

私は窓のそばまで近寄った。その時老婆がこちらを見ようとした。同時に私はカーテンを閉めた。友人はぐっすり眠っている。

あくる朝二人とも正午近くに起きた。今日はゆっくり街歩きでもしようと言う事になった。

セーヌ川、凱旋門、どれも旅行雑誌の写真を切り抜き貼り付けたような、情緒に乏しい景観。一度写真で見た観光名所の実物を見るのは、ある種の虚無感を誘うものだ。ルーブル美術館前の観覧者の長蛇の列を見た時は、彼らも『モナリザの微笑』を見る頃には微笑どころか怒りの顔に変わっているだろうと、思った事だ。

と言うのも気もそぞろだった。昨夜の青白い光が気になって仕方がなかった。今朝ホテルの部屋を出る時、隣の窓をちらりと見たが今日は重厚なあずき色のカーテンが垂れ下がっていた。なのに青白い光が背中の上に被さっているようで、一日中気分が悪かった。

歩き疲れ林の中の瀟洒なレストランでビールとサンドイッチを頼んだ。外は薄暗くなりかけ、「これからライトアップされたエッフェル塔を見に行こう」と言う友人を断り一人でホテルに戻った。

なぜか無性に眠い。私の口にするすべての食物に、誰かが秘密裡に睡眠薬を投入したかのように、、、ホテルの部屋に着くとそのままベッドに倒れ込み眠りに落ちた。

カーテンのすき間から漏れる光でまたもや目が覚めた。ベッドを抜け出し隣の部屋を見る。思った通り青白い光が部屋中に充満し、強弱をつけ淡く強く光り続けている。まるで微小な昆虫が死に際にすべての力を振りしぼるかのように。と思う間もなく瞬時にあざやかな強い光を放つと、そのまま光そのものが立ち消えた。

光の残滓に翻弄され私はしばらく茫然としていた。

翌朝チェックアウトの時フロント係に隣のビルの老婆の事を聞いた。すると「あそこは空き室ですよ」と言う。「身寄りのないおばあさんが住んでいましたが、半年前に死にましたよ」私の質問の意図も聞かずに自分の仕事に戻った。

次の目的地に向かう車の中で、私はやっと青白い光の正体を解明できたと思った。あれはいまだ浮遊する老婆の魂だったのだ、肉体は朽ちても魂は落ち着かずさ迷っていた、だが私と言う遠来の客を迎えやっと成仏したのだ。

ま、こじつけに近いが、、、

それにしても友人は、見て来たエッフェル塔のライトアップの話を一言も口にしない。何かあったのか。塔がオレンジ色ではなく、青白い光でライトアップされていたとは、決して言ってほしくはないが。

私は目が見えない

私は目が見えない。全盲である。幼児期に緑内障にかかりその進行に気づかずにいたためと両親は言った。つまり進行過程で治療をしていれば、めくらにはならなかったと言う事だ。その事はすまなく思っていると彼らは言った。

だが私は普通の女性と結婚し普通に幸せな暮らしをしている。世界のすべての情報や知識は妻が教えてくれる。点字?そんなものには見向きもしない。それでなくとも近頃私は、目が見えるようになったのである。

別に網膜や水晶体に異変が起きたという訳ではない。医学的な事ではなく、私の心の目が私を手助けするようになったのである。心の目とは、足萎えの人間がある日突然立ち上がり歩き出す、あの悲愴な祈願の奇跡の実現のようなものである。めくらがめあきを羨むのは当然ではないか。

今のところ夜更けの暗い海にただよう一艘のボート、そのあるかなしかの現象を目を凝らして見るような頼りないものだが、いつかはさらに鮮明になるだろう。

外出時、私は妻の腕に手をかけ妻の誘導で街中を歩く。車の騒音、人のざわめき、犬の鳴き声、そんな物が妻の腕の温かみで楽しいものに変わる。ところで妻に言わせると私は、なかなかの美青年、いや美中年だと言う事だ。しかもベッドの中ではテクニシャンと彼女は言う。夫婦仲がうまく行かない訳がない。

先日両親がミシシッピーから遊びに来た。めったにない事なので驚いた。近所の教会で園児の世話をしている妻がたまたま留守だったので、私がアパートの敷地内を案内した。いい所を見せようと長い杖を振り回し、慣れた素振りで歩きまわった。そして見事にプールに落ちてしまった。心の目も邪心が入ると効力をなくす。

「ポールがもう引退したいって言うんだよ」その晩母が言った。ミートローフ、マッシュポテト、芽キャベツのソテー、妻の手料理が空気を和ませていたのだが、、、「あんな過激な仕事で体調をすっかり崩してね、もう体はガタガタらしい」父が言った。

ポールは一つ年下39才の私の弟である。映画のスタントマンでドライバーの役回り、つまりカースタント。立て続けの横転、エンドレスのカーチェイス、他の車との激戦、激突、それらは妻と見る映画の激しい音声と彼女の解説で、私にも分かってはいた。

「それでね、しばらく私たちと住むようにと言ったんだよ。何も心配せずゆっくり静養するようにとね」父が言った。「あの子も私たちの面倒をよく見てくれた、そのお返しに家は彼に譲ってもいいと思っているの」母が言った。

ここで私は猛然と腹が立った。「あなた達は昔から彼にばかり目をかけ、僕の事はのけ者にする」押し殺した声で言った。彼らは何も言わない。認めたと言う事だ。「今日僕がプールに落ちた時あなた達は何も言わなかった、落ちるよと一言と言えばすむ事じゃないか!」

2505849 - swimimng pool and apartment houses

少年の頃こんな経験は幾つもある。家の階段、街の段差、良く転びひどい目にあった。ひどい怪我をしなかった、いや死ななかったのは不幸中の幸い、いや奇跡である。

「あなた達は僕が死ねばいいと思ってるんでしょ、障害者の子を持つのは大変ですからね」「それは言いすぎよ」妻がたしなめた。だがこれは単なる場の繕いである。彼女はいつも私の味方だ。

弟との関係は昔から希薄である。この家にもめったに来ない。仲が悪いと言うのではない、異常な彼の寡黙さが二人の会話を無くしたとも言えるだろう。だが穿った言い方をすれば、彼は私にある種の罪悪感を感じているのではないか。五体満足に生まれた自分が兄よりも数倍人生を謳歌していると言う、、、

それは事実である。だが私には妻がいる。相思相愛の。めくらでなければこんな素晴らしい女性には出会わなかっただろう。弟に恋人が出来たと言う話は一度も聞かない。ある種の自虐趣味さえ持つ彼、女とはあまり縁がないのかも知れない。

故郷に帰った両親から電話があり、弟に家を譲るという話は保留にすると言って来た。彼もそれを望んでいる。私は拍子抜けがして“家など彼にくれてやる”と捨て台詞を吐いた。

窓の外で凄まじい勢いでヒョウが降る春の夜だった。寝室の隅で押し殺した妻の泣き声がした。その陰鬱な声がヒョウの音に混じって何か凄絶なドラマを醸し出しているようだった。「どうした?」無造作に聞いてみた。数分後の恐ろしい沈黙の後、彼女が言った。

「私は一度ポールとあやまちを犯した事があるの」この告白には驚がくとなった。

「あなたと結婚してすぐの頃、彼が訪ねてきた事があったわね。二、三日滞在した最後の夜、リビングのソファで本を読んでいた私に、、、」その先は聞かずとも良い。妻の異常な優しさ、弟の異常な寡黙さ、これで納得が行く。

美しい妻の顔がぼんやり見えるようになっていた私の心の目が、シャッターを押しても像を結ばないポンコツカメラのようになった。先にも言ったように金銭がらみの愛憎、猜疑にまみれた警戒心、そんな世俗の醜さに関わると心の目はそっぽを向いてしまうのである。

コンコンとドアをノックする音が聞こえた。

コンコンとドアをノックする音が聞こえた。ルイスはローブをはおり玄関ドアを開けた。銀髪の立派な紳士が、アパートの狭い芝生の庭に生えた一本のヤシの木を見上げていた。ドアを叩いた後で木を見上げたのか、木を見上げながらドアを叩いたのか、それは誰にも分からない。

Under coconut tree on the white background

「娘がここにいるだろう」と言い、ローブからはみ出たルイスの黒い胸毛をちらっと見て、有無を言わせず中に入りベッドルームへ直行する。ベッドの上に、腰のまわりをシーツで隠し、大きな白い乳房をむき出しにしたステファニーが座っていた。両乳房の間に小さな蝶のタツーがある。

「何だその恰好は!」父親が声を荒げた。「くっしょーん!」娘が大きなくしゃみをした。「ほら、風邪ひくぞ。服を着なさい!」きつく叱った。彼女はうろうろとベッドから降り服を着始めた。

紳士はルイスの右腕をむんずとつかみリビングへ引っ張って行く。「どういう事だ、娘とはもう会わないと言っただろう!あの子はまだ16なんだぞ!」「僕には19と言いましたよ」「じゃほんとの事を言ったんだ」「えっ!」

「とにかく、二人で会うのはもう許さない。あの子はIQ180の天才なんだぞ、頭が良すぎて君が男か女かも分かっていなんだ、つまり自分が何をやっているかわかっていない」この不思議な見解にルイスが二の句を告げずにいると、紳士は娘の手を取ってさっさと出て行った。

玄関ドアのそばに立ちルイスは、二人の乗ったBMWがアパートの前から南に向かう長い坂をのぼって行くのを見ていた。坂の上は超高級住宅街で、彼らはそこで豪壮な屋敷に住んでいるとステファニーが言った事がある。

家に着くと運転席で急に柔和な態度になった父親が「さあ、部屋で休みなさい」娘は言われた通り家の中に入った。父親はその後ろ姿と彼女が入る家を漠然と眺めていた。家は豪壮などではなく、どこにでもある普通の青い庶民の家。しかも金銭的な不安をしっかり前に押し出した哀しい家だった。

ルイスはベッドにあお向けになった。ステファニーと寝た後はいつもこんな感じだ。物足りないと言うか何か人形を抱いたような感じ。でも可愛い顔と飛び切りのプロポーションでやって来られると、来る者は拒まずと言う気になる。だがそろそろ潮時かなと彼は頬をぴしゃりと叩いた。性行為の最中にやたらくしゃみをされるのも閉口だ。

美容整形外科医のリック、つまりステファニーの父親は近頃不運続きである。半年ほど前、わし鼻を可愛い鼻にとやって来た患者の鼻骨を削りすぎ、平べったく黒ずんだ長方形のコアラの鼻にしてしまった。再修正をすると今度は息が出来ないと言う。なだめすかし再々手術をすると、鼻の穴が一つになってしまった。

患者は告訴すると息まき先日弁護士がやって来た。整形手術の失敗で医者を告訴し、勝訴したと言う患者の話はあまり聞かないが、戦々恐々となるのはやむをえない。それでなくても患者は秒速の速さで減っている。

その上20年めの結婚記念日を迎えたばかりの妻が、ゴルフのコーチと同棲を始めた。離婚を要請しないからほとぼりが冷めたら戻ってくるつもりだろうが、そんな事はさせない!離婚もしない!宙ぶらりんの状態で死ぬまで苦しめてやる!彼は歯ぎしりをした。

社交的でないしかも気弱な不運続きの人間は、その狭間でたいてい惨憺たる孤独に陥る。猜疑心が強くなり苦境を逸脱しようと慌てもがく。風呂に投げ入れられた子猫のように。自分の不幸を誰かの陰謀とさえ思うようになったリックは、次第に憔悴しすっかり会話のなくなった娘をぼんやり眺めた。ポーチのブランコ椅子に座ったステファニーもまた、空をぼんやり眺めている。

生まれたてのステファニーは、やせて表情の乏しい泣かない赤ん坊だった。父親に抱かれても遠い目をしてじっと彼を見るだけ。彼女を取り上げた医者は「大丈夫、栄養をしっかり上げる事です。それで元気な赤ちゃんになります。鉄欠乏性貧血が続くと脳の発達が遅れると言う事も考えられますが、栄養を考えご両親が明るく接して行けば、大丈夫、立派に育ちます」と鷹揚な笑みを見せた。

そして19年後、娘は生気のないビスクドール人形のような女になった。

どうすればいいんだ、妻も患者も俺を捨てて行く。もはや娘だけがたよりなのにあいつもこの頃俺に冷たい。疑心暗鬼の権化と化したリックが眠れぬ夜に悶々と寝返りを打っていると、ガラージで車の出て行く音がした。はっとリックは頭をもたげた。「ステファニーのやつ、またあの男の所に行くつもりだな。そうはさせるものか」

さっとローブをはおり車に乗り込み後をつけて行く。娘は思った通りルイスのアパートに入った。リックはせわしくドアを叩き出て来たルイスに悲愴な声で言った。

「頼む、俺も泊めてくれ!」

その日は朝から気分がすぐれず

その日は朝から気分がすぐれずベッドの中でグズグズしていた。セリオにミルクをかけた朝食を済ませ、悄然と会社へ行っただろう新婚の夫を思いやり、ベッドの中から窓の外の高いドングリの木を見ていた。夫とはこの頃うまくいかない。

午後になって散歩に出かけた。アメリカにしてはめずらしい鬱蒼とした竹林の横の細道を、もくもくと歩いた。右手に小川のせせらぎが見える。

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やがて急に視界が開け一面に芝生の生えた公園が見えた。公園?いや桃源郷と言った方がいいかもしれない。どこか別世界のような雰囲気が高い木立に流れ、可愛い草花がまるで妖精のように、あちこちで飛び跳ねている。誘われ中に踏み入ると、中世期の酒場女の衣装を着た若い女が、巨大な老木の前に腰に両手をあて立っている。

「何しているの?」と聞いてみた。奇麗に化粧した顔を振り向け「今ね、この木の精にお願い事してるの」と言う。「この木は望みをかなえてくれる木なの」

それは奇妙な木で樹齢百年は超えただろう互いに入り組んだ枝のあちこちから、無数の気根が垂れ地面に達しそれがまた別の幹になっている。それらの細い幹は人体骨格模型を水飴のように縦にのばしたようで、不気味な白濁色をしている。

「何のお願い事?」と聞いた。「ブラッドリー クーパーとうまくいきますようにって」「ブラッドリー クーパー!」「今ね、ロケの合間を抜け出して来たの。ブラッドとの共演で、中世期の騎士の彼が場末の酒場に迷い込み、私に恋すると言う映画をクランクインしたばかりなの。私生活でもそうなる見たい」ペティコートでふくらませたワインレッドのドレスで、くるりと一回転して夢のような微笑を見せた。コルセットできつく締めた胸下から腰への線が、どこか人工的に細く薄幸と言う印象を受けたが、彼女が幸せならそれでいい。

しばらく行くと、古い鉄製のベンチに座った老夫婦を見かけた。二人は穏やかな日差しの中で、優しい笑みを浮かべ語らっている。二人の前にはキラキラとさざ波を漂わせる広い池がある。まるで光る小さな海のように。ここで私は。朝から鬱積していたつまらない気分が晴れて行くのが分かった。「素敵な午後ですね」そばに行き声をかけた。「ほんとにそう」老妻の方が私を見上げた。

「今日は孫の命日なんです」池を見つめたまま夫が言った。「孫は三年前にあのあたりで溺れ死んじゃったんだよ」と人差し指で池の斜め右方を指さした「三年前の今日ですよね」妻が念を押すように言った。「うん」と彼がうなずく。「まだ二才になったばかりだったのに」と顔をしかめた。

「でも孫は、私達が毎年この日に来る事を知っていて、池から飛び出して挨拶してくれるんですよ。ねえあなた」と言う間もなく「あっ、今飛び上がったぞ!」と夫が立ち上がり、池の水面を震える指でさした。「あらまー、ハーイスコット、ここよここよ、グランマとグランパはここよー」妻も立ち上がり金切り声を上げる。

だがそこに男の子は見えない.カモの親子が優雅に泳いでいるだけだ。極限の悲しみが幻影を生んだのだろうが、悲しみもあれだけ昇華されればそれはそれで幸せなのだ。

美しく手入れされた大きな花畑のまわりを一周して行くと、赤い眼鏡橋に行きあたった。園の外で見た小川のせせらぎが、園内に流れ込んでいるのだ。見ると橋の上で若い二人の男がもみあっている。一人が別の男の体に抱きつき橋の欄干を背にして、相手の動きを止めようとしている。「止めるな、今度こそ俺は死ぬんだ!」するともう一人が「だめだ!この川は意外と深いんだ、ほんとに溺れて死ぬぞ。君はちっとも泳げないじゃないか!」

「バカヤロー!いい子ぶって偽善者づらするな。お前なんか兄貴だなんてちっとも思っちゃいない、ペッ、ペッ」弟と思われる男が兄の顔につばを吐きかけた。すると兄が首にかけた名札を弟の顔の前にかざす。弟がおとなしくなり兄に抱きついた。

薄暗くなった夕暮れの道を急ぎ足で帰った。夫はすでに帰宅していた。「今日ね、誰もがみんな幸せそうな素敵な公園を見つけたの、竹林の近くにね」パディオでビールを飲んでいた彼に言うと「ああ、あれは精神病院の庭だよ」と、テーブルのジョッキを傾けた。「でも何の囲いもなく、誰でも自由に入れるのよ」

「囲いなんていらないんだ。今どき誰だってキチガイとまとも人間の間を行ったり来たりして、何食わぬ顔で生きているんだ」やがて夫が口のまわりのビールの泡を舌で舐めとり、じっと私を見て言った。「俺も以前、あすこに世話になった事がある」

ざんげの値打ちもない

『ざんげの値打ちもない』と言う歌が昔あったが、ざっくばらんに言って今の私の心境は、それである。薄っぺらな同情心とあわれみの心で一匹の子猫を不幸にしてしまった。

三週間ほど前の早朝、斜め向かいのコンドの塀の上に黒い子猫を見つけた。まぶしい朝の陽ざしにつややかな毛並みを見せ、無心に毛づくろいをしている。黒い猫だが胸と腹は白色、だが顔は真っ黒でいわゆるハチワレ猫ではない。黒い小さな頭をピコピコと動かし白い胸をつつくその姿は、なにやら黒い大きなヒヨコのようでもあり愛らしい。

暗くなるとコートヤードの芝生の上に降りて来て、じっとこちらを見ている。ふと見ると私の飼い猫も塀の上で、じっとあちらを見ている。身じろぎもせず二匹は見つめ合っている。外灯に照らされ見つめ合う猫達は一触即発の感あるいは望郷のイメージがあった。

猫の飼い主との立ち話で、名前はベラ、生後五か月の子猫、娘さんが友人から貰って来たと分かった。だが先住猫との折り合いが悪くベラは仲間はずれされ、ポーチで終日一人で過ごすと言う。もちろんポーチで寝る。

私の猫の名はララ、ララとベラ、何やら因縁のようなものを感じ私は二匹を引き合わせ、遊ばせる事にした。これが不幸のはじまりだった。

cat sitting on window sill

胸に白い毛を持つベラは夜目にもそれとはっきり分かる。暗くなって芝生の上に正座をしているベラの名を呼び手を上げると、一目散で走って来るようになった。初めて部屋に来た日には、いぶかし気に見るララの鼻を鼻でつつきすまして猫挨拶、あっけにとられるララにもう一発猫キス。心得たものである。

その後キッチンの隅にあったララの餌をむさぼり始めぺろりと平らげた。よせばいいのに私はもう一缶開けてやった。それもまたたく間に食べ終わった。猫じゃらしなどで遊んでやると、それは嬉しそうに身をひねって飛び上がる。つかの間の幸せに踊り狂った。解き放たれた籠の鳥のようにこの家での時間を謳歌した。

ララはそれをじっと部屋の隅で見ている。威嚇しないのだから彼女もベラが気に入ったのだろう。私はそれから毎晩ベラを部屋に入れるようになった。

ベラの飼い主に猫を招き入れる許可は取っていたのだが、聞くと家族の誰もがベラに構いはしないのだそうだ。猫の玩具も買わないし猫用のベッドもない。ベラは板張りの床に一人丸くなって寝る。もう誰かに上げたいと言う。ではなぜベラを貰って来たのか、それはやはり家庭の事情と言うものだろう。

その可哀そうな猫をもらい受け出来ない私にもまた家庭の事情がある。あまり深入りは出来ないと彼女をそれとなく避けるようにした。

それを察知したのかベラはしつこく私につきまとうようになった。私の猫は早朝ポーチとリビングを出入りする習慣がある。ためにポーチに続くスライドドアは、10センチほど開け放しにしている。そこから突然ベラが入り込むのである。そして餌のあるキャビネットのドアを前足で叩く。楽しみな朝のコーヒーを入れる私の足元で。

外出先から帰ると、玄関ドアの近くでネコ正座をして私を待ち構え、あるいはムササビのごとく頭上を舞飛び足元に降り立ち、煮るなり焼くなり好きにしてくれと思いつめた顔をする。すきを狙いジップと部屋に入る。私の足に激しくスリスリして餌をねだり、猫じゃらしの前に正座をして私をにらみ遊べと脅迫する。

夜になればキャッツタワーの上で見張り番をしている我が猫の誘導で、リビングに入って来る。いつの間にか彼らは共謀者となり果てていた。ベラは突然私の足に飛びつき爪を立て血だらけにし、絆創膏をはる私の足指をがぶりと噛む。それが彼女の粗削りな愛情表現だとしても、私は次第に疲れイラついて来た。

ついに心を鬼にしてベラの姿を見れば執拗に追い払った。

それから一週間ほどしたある朝、私はポーチの上に一匹のスズメの死骸を発見した。ベラの仕業だと直感した。私の猫もスズメを捕る事は捕るが、それをポーチに置き去りにはしない。必ずリビングまでくわえて来て私の前にポトリと落とす。つまりそれはベラの私へのギフトなのだ。また仲良くしようねと黒い小さな顔が言っているようだった。

これには少なからず動揺した。もとはと言えばいい加減な同情心でべラを部屋に招き入れ、用が済めば追っ払う。身勝手もはなはだしい卑怯なやり方。いつだったかベラが椅子に座った私の膝に飛び乗りニーディングを始めた時、爪の痛さにはねのけた事もあった。

後悔の念に突き動かされ、もう一度よりを戻そうとベラの再訪を待った。

だが待てど暮らせど彼女はやって来ない。飼い主に聞くと、この頃なぜかびっこを引いている。獣医に連れて行き治ったら動物愛護センターに連れて行くと言う。安堵と後ろめたさの混じった複雑な気持ちで、それからはベラのポーチを日ごと眺めるようになった。だがベラはポーチで毛づくろいさえ、もうしない。私の部屋で過ごした幸せの時間を彼女はどう処理するのだろう。

だが冷静になると、この小事件はすべて私の妄想、空想、迷妄の上に成り立った事なのかも知れないと思うようにした。あんがい彼女も餌目当てで頻繁に来たのかも知れないし、ポーチのスズメの死骸だってベラの手柄と言う証拠はどこにもない訳だから。

私の猫は友を失っても何ら変化はない。

別れた夫がまた戻っているのよ

「また別れた夫が戻って来てるの」女友達が私のすぐ横で言った。「今度はどれくらい居るの?」私が聞く。「わからないわ、気まぐれだから」「今でも暴力を振るうの?」「前よりは良くなったけど、髪を引っ張って床を引きずり回すのは今も変わらない」「野球バットでぶったりはもうしないでしょ?」「まあね、でもあの人急に豹変するから怖いの」と友達が言ったところで左斜め前のブースのアボカドが目に入った。

走り寄り手に取って見ると手のひらにずしりと重さが乗り、つやつやとした皮の中身のまろやかさが分かる。隣のトマトも白く粉を吹き畑の土の匂いがする。その隣のオレンジも、たった今枝からもぎとったようなフレッシュな香り。これだ、ファーマーズマーケットの醍醐味は。太陽の下で本物の畑にいるような気がする。自然の土をふんでるような気がする

ふと背後でインド音楽のようなものが聞こえ、振り向くと眉間に赤いほくろをつけ、瞑想のポーズをした女占い師が見えた。青いサリーを着ている。目の前の金属製の小さなツリーに、幾つもの香料袋を下げ、瞑想はしているが目はぱっちりと開けている。私をじろりと見た。美魔女と言った感じ。ラベンダー、クローブ、スターアニス、ミント、きついスパイスの摩訶不思議な匂いで目が眩みそうになる。よく見ると彼女は両足がなかった。

あれっ、友達はどこへ行ったんだろう、急に静かになって姿が消えた。きっと私みたいにファーマーズマーケットのざわめきに夢中になってるんだろう。まあ、いいか。

でもこのマーケット、今日はやたら出店が多い。途中で店がとぎれてもそこを右に曲がれば、また屋台が並んでいる。同じような店が幾つも並んでいる。まるで迷路だ。

Farmers' food market stall with variety of organic vegetable.

ありとあらゆるチーズの塊を店先に出し、試食させているブースがあり人が立ち並んでいる。「ゴルゴンゾーラ」と店員が、ペティナイフの上にチーズの破片を乗せ「さあ、食え」とばかりに私の目の前に差し出す。これはカビで出来たチーズだ。その匂いに胸が悪くなり急ぎ足で通り過ぎる。ナイフで喉でも刺されたら大変だ。

それにしても、夫はもう帰っただろうか、マーケットから戻る前に家を出るようにと固く言った。昨夜ふらりとやって来て「今夜泊めてくれ」と言う。離婚して二年も経つのに、何やかやと口実をつけては泊まりに来る。その度にベッドになぎ倒され、無念の涙を流し私は彼にありとあらゆる悪態をつく。すると夫はあざが出来るほど私の顔を殴る。

この不毛の関係に陥りもがいている私の心情を知る者は誰もいない。奈落の底で助けを求める私を笑うだけだ。

しばらく行くとまた出店がとぎれ、右側の路地に不思議な光景が見えた。日本の古い江戸時代の街道が見え、両脇に旅籠屋が並んでいる。そこにうどん屋の赤い提灯が下がっていた。中に入るとうどん汁の匂いがむっとした。しばらく当たりを見回していたが、ふとここがマーケットのフードコートだと気づいた。21世紀のロスアンゼルスのフードコートだ。

左斜め前にマーケットのBGMを担当するギタリストの男がいるが、今日は顔が違う。肌にぴったりとした極彩色の絹のシャツをまとい、鼻に大きなピアスをつけている。やさぐれた感じ。大きな指で奏でる曲がやたらアレンジしたうるさいジャズだ。お馴染みのビートルズナンバーではない。いつもはチップをはずむ私だが、今日はその気になれない。絹のシャツが実は入れ墨だと分かったのは、曲が終わり彼が私を見た時だ。どこか夫に似た風貌で私はぞっとした。

このまま行けば夫と私の間に、殺し殺されかねない修羅場が来るのは解っている。それなのに縁を断ち切れない私の迷いは何なんだろう。私もまた同じような性根なのだろうか。

私はふと作家志望のホテルの管理人であるキチガイ夫からつかのま逃れ、ホテルの裏庭にある生垣迷路で過ごす妻と幼い息子の映画を思い出した。殺人鬼の夫から逃れるためあらゆる手を使うが、彼女もまた夫にナタを振り回しながら、心では断ち切れない煩悩に心地よさを感じているのかも知れない。同じ迷路に迷い込んでいる私もまた、夫の嗜虐趣味にほくそえみ、自分の自虐趣味をあおりたてる。二人の仲を翻弄しているのは実はこの私かも知れない。

あのキチガイ夫がこのファーマーズマーケットに来て、私の後をつけ回しているかも知れない、それを心待ちにしているのが私だ。

ふと入り口の近くにあった野菜売り場を思い出し、アボカドを買おうとそこまで戻った。アボカドとトマトをざく切りにしてチーズを乗せ、電子レンジに入れ数分煮るとおいしいワインのつまみが出来る。買った野菜をトートバッグに入れ駐車場に行くと、私の車に寄りかかっていた夫が体をおこし薄ら笑った。

先回りして待ち伏せしていたのだ。夫と同じ笑いが私の顔をも彩る。共犯者の笑みだ。

昨夜なぐられ痣の出来た頬を手のひらでなでながら、私は彼に向って歩き出した。

今年もハローインがあっという間に終わった

今年もハローインがあっという間に終わった。終わらないハローインなんてあるのだろうか。僕の思い出の中の、僕だけの最後のハローインをのぞいては。

6才年下の僕の弟ヘンリーは脳性小児まひの障害があった。何と言うのだろう、重度でも軽度でもなくだが普通の状態では決してない。一人では歩けないのだから。だからハローィンが来ると、僕と弟は幾つもの小さなサンドイッチバッグにお菓子をつめ、トリッカトリーにやって来る子供たちをドアの前で待った。彼等にお菓子を渡すために。

Kids in Halloween costumes

車椅子に乗った弟はそんな時いつも上気した顔を見せた。それは彼が楽しみにしている年に一度のお祭りだった。子供たちの喜ぶ顔が彼を幸せにそして興奮させた。子供達のふざけたコスチュームが彼を面白がらせた。

僕と父と弟は、祖母が残した古い大きな家に住んでいた。物心がついた頃にはもう母はいなかった。父に聞くと「母さんは遠くの州で暮らしている」と言った。だがそれ以上聞くと、彼は後ろ向きになって右手を強く振った。それが「母さんの話はもうしない!」と言う彼の断固たるサインだった。母と言う言葉はいつしか禁句になった。

父はガラージを開け放して自動車の修理を仕事にしていた。ボンネットにはいつも支え棒がされそこに頭を突っ込んで、何か探し物でもするように長い間パーツをいじっていた。太った体をときどき起こして、なぜか宙をじっと見ていた後ろ姿は今でも覚えている。その手は決して落ちる事のない黒い車の油で、いつも汚れていた。

今でこそこの辺りは住宅が立ち並んでいるが、10年前にはまだあちこちにトウモロコシ畑が広がっていた。僕の家の前に一本の広い舗装道路が左右にのびて、その向こうはトウモロコシ畑。学校が終わると僕は車椅子を押して、ヘンリーとトウモロコシ畑にそって散歩をした。

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ガラージの前まで来るとヘンリーは、手首の曲がった奇妙なこぶしを突き上げ「ダーッド!」と大声で呼んだ。すると父もエンジン コンパートメントから体を起こし「ヘーイ」と笑いながら手を上げた

そんな暮らしが何年か続き、僕のいや僕とヘンリーの最後のハローィンがやって来た。

僕はもう7年生になっていた。弟は1年生。父は近くの公立校にある障害者向けのクラスを探し出し、そこにヘンリーを通わせた。スクールバスへの送り迎えは父がして「車椅子も乗せてくれるから都合が良い」と喜んでいた。

ヘンリーは幸せだった。知的障害はないのだから、今まで頭の中だけでめぐらせ膨らみすぎた外の世界への希望が、一気に爆発したようなものだ。だが外見だけは彼はいつもの彼だった。

そしてその年の10月31日、午後になってヘンリーが急に湖に行きたいと言い出した。家の近くに州一番の湖があった。以前にも何度か二人で行ったが、湖のある雑木林の道から水際までの砂利道がひどいので、車椅子で行くのは一苦労だった。だがヘンリーが行きたいと言うのだ。

水際までどうにかたどり着きしばらく二人で湖を見ていた。湖の周りの紅葉もほとんど色あせ、白茶けた裸木も見えた。「ねえ、アダム」弟が珍しく僕の名前を呼んだ。「母さん、もう絶対帰って来ないのかな?」と聞く。唐突の質問だったので僕は慌てた。「か、帰って来るよ、いつか必ず」「ほんとにそう思う?」「もちろん」「そうだと良いけど」

「母さんの写真が一枚もないのはどうしてだろう?」と聞く。僕は父から「母さんが家を出る時、家族の写真を全部燃やした」と聞いていたがそんな事は言えなかった。嫌な沈黙が二人の間に続き、僕は振り切るように小石を湖面に投げ水きりをした。だが何度やってもうまくいかなかった。

Autumn Trees Lake Side on Wye Island in Baltimore, Maryland

その晩ヘンリーがトリッカトリーに行きたいと言い出した。父に聞くと「車椅子でトリッカトリーに行っちゃいかんと言う法律はないだろう」と言う。衣装の用意はなかったので僕たちは、父の昔の服でおどけた振りをしようと思った。弟が僕と二人で行きたいと言ったので父は来なかった。「どうせそんな遠くに行くわけじゃなし」と父は言った。だがそれは間違っていた。

ヘンリーにお菓子をくれる大人たちは誰もが優しく、「よく来たね、偉いね」とお菓子の量をはずんでくれた。彼は嬉しそうだった。

最後の家に来た時、ヘンリーは急に車椅子から立ち上がり、ドアまで歩き出した。驚いたが彼の好きにさせようと思った。その時突然ドアが開き、10人ばかりの子供たちがいっせいに弟の前に飛び出して来た。「わーっ」と騒ぎ立てた。みな意地悪気なコスチュームを着て(僕にはそう見えた)顔に変な絵の具を塗りたくった子もいた。

トリッカトリーを終えて同じ家に集まり、自分たちの戦利品を床に広げ自慢し合っていたのだ。そこへヘンリーがやって来たのだ。

パニックに陥ったヘンリーは回れ右をしてそのまま道路に向かって走り出した。左足だけつま先立ち腰を左右に振る、障害者特有の走り方だ。だぶだぶの父の背広を着たヘンリーは、カラスに追われるかかしのようにそれはぶざまで哀れな姿だった。そしてとうとう道路までたどり着いた時、地べたに思いきりつんのめった。そしてたまたまそこにあった黄色い消火栓に頭をもろに打ち付けたのだ。にぶい音がして彼はそのまま動かなくなった。

その10日後に彼は病院で亡くなった。

あれから十年、僕は見よう見まねで父の仕事を覚え後を継いだ。父はすっかり無口になり驚くほど老けてしまった。父がしたように僕は時々、支え棒をしたボンネットの下から体をおこし、前の道をじっと見つめる。するとそこに、車椅子に乗った小さな弟が僕に手を振ってくれる。