プリンセスは朝の窓からいきなり飛び込んできた

プリンセスは朝の窓からいきなり飛び込んできた。ばたばたと羽をばたつかせルイスの肩に止まった。

ルイスはいつものルーティンで歯磨きと洗面を終え、ポーチの窓辺に立っていた。彼のアパートは二階にあり、窓のすぐそばに大きなポプラの木がある。その窓から朝の匂いを嗅ぐのが彼は好きだった。

そこへプリンセスがやって来たのだ。

プリンセスはルイスが飼っていた青いインコで、二か月ほど前にとつぜん姿をくらました。閉めたつもりのポーチの窓が少し開いていたらしい。

まるで恋人のように愛したプリンセスをプリンと呼んで、ルイスはとても幸せだった。指に止まらせキスをしたり頬を突かせたり、なのに急に居なくなった恋人プリン。そのプリンがとつぜん舞い戻って来た。

「あら、プリンセスじゃない、良く戻って来たわね!」とクラウディアが声を上げた。ここぞと言う時に必ずルイスのそばに来て彼を励ますこの嫁は、今度も力量を発揮した。

だがこのインコがプリンセスでない事は、ルイスにはすぐに分かった。頬の真ん中にあるチークパッチが黒色でプリンの色とは違った。

プリンは胸と腹の部分が淡いブルーで、頭と羽は黒と白のギザギザ縞模様、嘴は黄色。濃いブルーのチークパッチが目立つ鮮やかな鳥だった。

「これはプリンじゃないよ」ルイスは思わず言いそうになったが、ひとこと言えば千倍返しで反論する嫁なので、彼は無理に黙り込んだ。

彼女は近くのメキシコ料理店でウエイトレスをして、かなりのチップを稼ぐ働き者だった。

ルイスはピューマの顔をアニメ化した紋章をフロントガラスの右下に貼り付け、一日八時間だけ働くローカルタクシー『クーガー』の運転手。

「あんたは一国一城の主なんだから、何も引けを取る事はないのよ。自分の車で動き自分の采配で客を乗せ、高評価を貰ってるんだから堂々としてなさい」

ある日、客がルイスの車にとても高価なカメラを置き忘れた。ルイスは困り果て「本部に連絡しよう」と言った時の、クラウの反応がこれだった。

「その客に電話しなさいよ、電話番号は分かってるんでしょ」「なんど電話しても出ないんだよ」「それじゃ本部が電話してもどうせ出ないんじゃない、ほっときなさい、じきに向こうからかかって来るわよ」ルイスは妻の言う通りにした。そしたらほんとに向こうからかかって来た。

なくした携帯をやっと見つけたそうだ。

こんな風にスペイン語で交わす夫婦の会話はルイスを和ませ、クラウは常に指揮を取る事になる。ルイスはいつまでたっても英語がうまくならない。

二人は幸せだった。プリンセスが帰って来るまでは。いや偽のプリンセスが帰って来るまでは。

迷い鳥をすっかりプリンだと思い込んだ嫁は、「良かったわね」と何度もルイスに言った。「あんた、ホントにふさぎ込んでいたものね」そう言ってルイスの頬を何度も撫でた。

ルイスはプリンにしゃべる事を教えた。プリンは賢く、それらの言葉をすぐに覚えた。『オラ』(こんにちは)『アディオス』(さよなら)『ムーチョ』(たくさん)などなど。英語ではなくスペイン語で教えた。自国語だから。

偽プリンにも言葉を教えようとやって見たが、この鳥はプイと横を向いてしまう。

プリンが使っていた白い鳥かごは、ポーチの隅でいつもプリンを待っていた。ルイスが奇麗に洗ってプリンの帰りを待っていたのだ。今は偽プリンが陣取っている。

彼はこの狭いガラス張りのポーチに、ウンべラーダ、ブーゲンビリア、ドラセナなどの観葉植物を置いた。それが良く育ち今では小ジャングルのようになった。そこで枝から枝へ飛び交う可愛いプリンを見るのが彼は好きだった。これはもう一つの大きな鳥かご、プリンはその事が分かっているようだった。

だが偽プリンはかごから出しても動かない。

「ねえ、プリン、ちっとも喋らないわね。前はうるさいくらだったのに」ある日の午後、早番の仕事を終えた嫁が帰ってルイスのそばに来た。ルイスは非番の日で、鳥かごの偽プリンと鏡で遊んでいた。

時々赤銅色の自分の顔も見てみる。また顔に肉がついたようだ。背も低く彼は自分の外見が好きではなかった。

そこへ帰って来たクラウ。ルイスはギョッとして嫁を見た。

女優のように奇麗な顔の下に、プクプクの肉体を持つコケティッシュで悩殺的なこの女と、なぜ結婚できたのかいまだにわからない彼は、常に挑戦的に構える。

偽プリンが迷い込んで以来、すっかり本物のプリンだと思い込んだクラウ、実は違うよなんて口が裂けても言えなかった。

言えば「なんで隠していた!」と食って掛かるだろう。隠していた訳ではなく、彼女が勝手にそう思い込んだだけ、が、そんな事を言っても大人しくなるような女ではない。

人の三倍はおしゃべりなクラウと人の三倍はだんまりなルイス、まるでひまわりとミツバチ、そんな二人の関係はとてもうまく行き、楽しい日々を送っていたのに。

ある晩クラウが仕事を終え夜遅く帰って来た。店であまったブリートを沢山持ち帰った。彼女がチーズのカケラを偽プリンの嘴に持って行くと、この鳥はプイと横を向いた。

「おかしいわね、昔はチーズ大好きだったのに」とクラウが眉をひそめた。美しい眉だった。ルイスはこの時ばかりと声を上げた。

「これはプリンじゃないよ!!!」「どうして!」「頬の模様が違う。プリンは青色だった。これは黒だ!」焦ったのでついどもってしまった。彼は軽いどもりの性癖があった。

「そんな事何でもないわ、単に色が変わったのよ、」クラウはそう言ってのけた。「でもおかしいと思わないか?言葉は話さない、チーズは食べない、違う鳥なんだよ」

「あんたね、なんで折角帰って来たプリンを他人呼ばわりするの。案外あたしがしばらく家を出て帰って来たらどこのどいつだって追い出すんじゃない!?」と、怒りまくった。

ルイスは驚いてじっとクラウを見た。実は「俺はいつか追い出されるんじゃないか」と怯えていたからだ。

クラウみたいな魅力的でセクシーな女はそんなにいない。ウエイトレスなんかやってるが、女優でもやっていけそうだ。いつか別れの日が来ると彼は何となく恐れていた。

それから数日後、ルイスがコンビニから帰って来ると、クラウがあわてふためきルイスに抱きついた。

「あんたーごめんねごめんね!プリンがまた逃げ出したのよ」ルイスは黙って嫁の顔を見た。

「鳥かごの掃除をしようと思ってカゴから出したら、ポーチの窓からさっと飛んで行ったのよ。窓が少し開いてたのね、ほんとうにごめんなさい」涙さえ浮かべている。

「いいよ、また戻ってくるさ」ルイスはそう言い、優しく嫁を抱きしめた。「こんどこそ本物のプリンが戻ってくるさ」と嫁を強く抱きしめた。

だが最後の言葉はとても小さくクラウには聞こえなかった。

「t

  

季節はずれのポインセティア 復活

『季節はずれのポインセティア 復活!』

と言う文字を、YouTubeで見た時、和也は思わず目をしばたたき二度見した。

『季節はずれのポインセティア』それは彼がまだ高校生の頃、YouTubeで初めて見た短編ドラマだった。

その頃はまだユーチュウバーと言う職業も真新しく彼らは、商品紹介、自宅紹介、たまに仲間同士のふざけ合いなどを見せたりしてお茶を濁していた。

つまり職業の立ち位置がはっきりせず、ユーチュウバー達の戸惑いがまだ見えた頃だ。そこで見た短編ドラマの動画。和也はとても鮮烈な印象を受けた。

映画は稚拙で、尻切れトンボ風の終わり方が観る者を落胆させるような演出で、だがそれが斬新だと和也は気に入った。抒情詩のようなドラマだと思った。

小雨振るある午後、見知らぬ町の古い喫茶店にふらりと主人公の若者が入る。するとそこに同じ年頃の少女がいていきなり目が合う。

ドライフラワーが入った籐のザルが数個天井からぶら下がり、テーブルの上の小さなアンティックランプ、店の隅の古いオルガン。舞台装置はまあまあだなと和也は思ったりした。

そんな喫茶店で見知らぬ若者同士が、目が合っただけで恋に落ちるのである。

セリフがとても少ないドラマでかすかに聞こえるクラッシック音楽。時々字幕が出て画面の説明をしている。

壁の古ぼけた棚に干からびたようなポインセティアが飾られ、若者はそれを指さし「君は季節外れのポインセティアのようだね」と言う。

時は6月、梅雨の時期なのにクリスマスの飾りが置いてある。枯れてしなびて、なのにそれはまるで明るいスポットライトを浴びたかのように、輝いて見える。若者はその事を言いたかったのだ。

女の子は意味が分からず、じっと若者を見つめるが、瞬時にして出た言葉の意味を説明するには、彼もまた若すぎた。

全体にグレーがかった画面なのに、その植物の葉の部分だけが真っ赤に染まっていた。それが想い出となり、和也は後にその映像を長い間ひきずる事になってしまった。

映画の脚本家になりたいと言う膨大な夢を抱いていた和也は、大学の芸術学科で演劇学を学び、そこで書いた脚本が文化祭などで採用されると、皆に称賛された。それがポテンシャルとなり彼はまた夢を膨らませた。脚本家になると言う夢を。

その事を田舎の父に話すと「映画とかテレビの世界は、常に怒号が飛び交う世界だと聞いているぞ。お前みたいなおとなしい性格で大丈夫か?」と心配した。

「出世するには運が左右する」と言うどこかで聞いた言葉をかたくなに信じていた和也は、父の注意を無視した。

だが大学を卒業し世間に出るとすぐに、威圧的な自分の夢に押しつぶされた。人間関係を構築する能力が極端に欠如していた彼は、何をどうして良いか途方にくれた。

これぞと思う脚本をコンクールに応募するが、すべてなしのつぶてで返事すらない。たまに映画制作会社まで持ち込むと、もろに嫌な顔をされ「他をあたってくれ」と突き放される。

和也はその帰り道必ず嘔吐した。軽度のパーソナリティ障害だった和也は、なぜ吐くのか解らずにいた。

夢を現実にするための努力は、自分なりにしたつもりだったがすべては机上の空論、絵に描いた餅、甘い夢だったのだ。

「季節はずれのポインセティア、復活か」和也は思わずつぶやいた。懐かしい言葉をパソコンの上に見つけ、昔見た短編ドラマと同じ作者の続編かとときめいたのである。

だがよく見るとそれはある花かき栽培者の動画で、“大量に売れ残ったクリスマス用のポインセティアが今頃売れ出した“と言うものだった。

その頃、父が危篤だと言う母の電話があった。四国の実家とは10年以上も疎遠である。

大都会の中で脚本書きのための、ありふれた日常から無理に作り出す生活の機微、情緒的でその癖人目を引く男女の風景、そんなものを模索し続けた彼は素朴な田舎の暮らしから遠ざかってしまっていた。

実家に帰ると父はまだ生きていた。「何度も死の瀬戸際まで行ったけど、お前に会うまではと頑張ったんだよ」母親は父の寝室の前で、和也の背中に手を添えそう言った。

「とてもとても会いたがっていたんだよ」母は涙を浮かべた。

ベッドの縁に立ち「父さん」と呼んで見た。すると父は閉じた目をぱっと見開き、和也が握った手をとても強く握り返した。

バイト暮らしの彼に時おり仕送りをし、庭のバラがきれいに咲いた、ツバメが今年も巣を作ったなどと添え書きをした父の優しさ。それが今ならはっきり分かる。

だが言葉を交わすには遅すぎた。父の魂はすでに宙をさまよい、ベッドの上の体は亡骸だったのだから。

葬式を済ませどうにもやりきれない思いで町に出て見た。だが十年ぶりに見る田舎町の風景は、物悲しい感興を呼び起こし、故郷を忘れ大都会で尊大な夢に振り回された和也を、あざ笑うようだった。

喫茶店に入って見た。薄暗い店で客はいなかった。彼は窓際に座りカウンターと向き合う席に座り、飲み物を頼んだ。テーブルの上にキリンのぬいぐるみが置いてある。

「やはり田舎の店はどこかあか抜けないな、昔と変わらない」と彼はそんな不遜な事を思い、テーブルに肘をつき店を眺めまわした。

しばらくすると若い男女が入って来た。ドアを開け女の方が「あらーポインセティアだ、すごい枯れてる」と声を上げた。「ホントだ、もう六月だよ、季節はずれもいいとこだね」男が小さく笑った。

和也は思わず彼らの見る壁の方を振り向いて見た。するとそこには干からび黒ずんだクリスマスの植物が、棚の上からじっと彼を見ていた。

和也がいつも夢想した思い出のポインセティアが、じっと彼を見ていた。

タカシは公園のベンチに座っていた

タカシは公園のベンチに座っていた。

右足のかかとを左足の腿に置いて、両腕は大きく広げ背もたれの上に乗せ、両手はだらりと下げている。それであたりを睥睨している。要するにふんぞり返っている訳だ。ふんぞり返るような理由がある訳でもないのに、いやむしろ謙虚になるべき時なのに。

今日は日曜日、デパートの地下街で『全国駅弁大会』と言うのをやっていたので覗いて見た。やっぱり駅弁と言うのは人気があり客でごった返している。

あれこれ迷いけっきょく北海道産の海鮮ちらしに決め、ついでに用も足しとこうと思いトイレに入った。すると便座の上に大判サイズの茶封筒がのっている。忘れ物だなと思い開けて見ると、なんと200万円が入っていた。

帯封の10000円札が100枚、それが二束。タカシは妙な虚脱感を感じ封筒を抱え公園に向かった。公園で買った駅弁を食おうと思ったのである。

タカシが座っているベンチのすぐ前に白い大理石の三段式噴水があり、絶えず水が上から下へ流れている。シャワシャワシャワと小気味よい音を立て。それが受け皿となる真下の池へと続いている。

「夏江は今頃どうしているだろうか?」と彼は考えた。妻の夏江は三日前に実家に帰ったまま帰って来ない。あいつの実家帰りは日常茶飯事で、絶縁状を突き付けての一発弾丸の里帰りと言うのはまずないから、タカシも対岸の火事と見なしている。

ただ妻の父親からは50万円借金をしている。先ほどから気になってしかたがない茶封筒を、チラ見した。ドジな探偵が置き忘れた不倫調査の証拠写真が入った袋と言う感じで、封筒は忌まわしげにそこにあった。

「この袋から金を抜き出し使っても足はつかないのだろうか、帯封には確か銀行の名前が書いてあったな」

が、良く調べもしなかったが、これが人を驚かすためのダミー札と言う事もある訳だ、、世の中には結構ひま人がいて、そんな事して楽しむ輩がいると言うからな」

そんな事を思いながら彼は封筒を引き寄せ手だけ入れて札束をパラパラと親指でめくって見た。確かに上から下まで10000円札のそれはずっしりとした金の束だった。

目の前の白い噴水は相変わらずシャワシャワと水を流し、それがあたりを穏やかな雰囲気にしている。

楕円形の芝生の上の噴水を囲み、等間隔で合計6基のベンチが置いてある。その一つにホームレスらしき男性が背中を見せ惰眠をむさぼっている。

「そう言えば富豪の女が失恋した腹いせに、たまたまそばにいたホームレスの男に、気まぐれで大金を恵んでやると言うフランスの映画があったな。ベンチに寝ていた男の上にポンと金束を投げてやるのだ。男は勘違いして女の後をつける、それで女が怒り狂うと言う映画だった」

「たとえあのホームレスが女でも」向こうのベンチで寝ている男の背中を見て「俺は絶対そんな事はしないな」とタカシは冷静に考えた。そしてさっとそばの封筒を触って見る。

彼はすっかり海鮮ちらしを食うのを忘れている。

噴水をはさんだ反対側の歩道の脇に、大きな桜の木が植わっている。そよ風にヒラヒラと花びらを舞わせて。さわやかで美しい風景だった。

「しかし、一本立ちの桜と言うのもなんかいいもんだな」と彼は思った。「満開の桜並木の花見と言うが、そこで人間がどんちゃん騒ぎをしていると、折角の花の情趣が損なわれる」そんな殊勝な事を思うタカシだった。

小学校の時、サクラと言う女の子がいた事をふと彼は思い出した。漫才師の名前みたいだと皆にからかわれていたが、彼はそんな事はしなかった。好きだったからだ。苗字が朝倉で「あさくらさくら」と語呂の良い名だった

ある時サクラが学校の文具店の前で困っていた。聞くと、算数で使うコンパスを買うための金を家に忘れて来たと言った。彼はたまたまポケットにあった500円札を貸してやった。彼女はとても喜んだ。

「ありがとう、お金は明日必ず返すから」サクラが言う。

そして次の日サクラは、手のひらにしっかりと握りしめた500円札をタカシに渡し、ニコッとした。それから二人は遠くから見て目が合うと互いに微笑するようになった。

正面左端のベンチで黒いストローラをそばに置いた老婦人が、居眠りをしている。「危ないな」とタカシは思った。近頃はストローラごと子供を誘拐する奴がいるから、と眉をしかめまた横の茶封筒をチラ見した。

結婚して10年経っても彼はまだ子供に恵まれなかった。夏江が実家に帰ってばかりいるからだ。と彼は本気でそう思っている。あいつは俺を馬鹿にしている。

パワハラの多い医療関係の仕事につき、愚痴を言いながらも絶対離職しない夫を妻は軽蔑していた。だが離婚と言う話はあまりしない。「あいつもいい加減な女だ」

「だがあいつは親に甘やかされて実家に帰ってばかりいるが、料理だけは真面目にやるよな。理由を聞いたら単に料理が好きなだけと言った」

「あいつは案外、根は家庭的な女かも知れない。俺が甲斐性がないから面白くないんだろ、俺ももう少ししっかりしなきゃな」こんな事を思うのは初めての事なのに、彼はその事に気づいていない。

「だが、この金は一体どう言う経由で便器の上にのっていたんだろう?」先ほどからの疑問に彼はまた思いめぐらせた。「便器の上に忘れた、いや置いた奴は本当の金の持ち主だったんだろうか?いやそいつはこれを別の場所で拾い、ネコババしようと思ったが面倒臭くなって、便器の上に置いたのかも知れない。と言う事はもう一人前の拾い主がいてもおかしくないと言う事だ」

「だいたい、便器の上に置くと言うのがいかにもと言う感じだ、持ってってくれ、邪魔だからと言わんばかりだ。第一今どき200万円なんて、はした金じゃないか、そんなもんネコババして人生ボウに振ったりしちゃ元も子もない。隠しカメラと言うのもあるからな」彼はうんざりと茶封筒を睨んだ。

やがて彼は立ち上がりちらしずしの入ったショッピングバックに茶封筒を入れると、そのまま噴水の横を通り桜の木の下で立ち止まった。桜の花を見上げ「アサクラサクラ」とつぶやいて見た。何となく懐かしい思いが湧いた。

居眠りしていたおばあさんも目を覚ましストーローラの中の赤ん坊をあやしている。

タカシは安心したようにショッピングバッグを提げ交番に向った。弁当は家で食べるつもりだ。

玄関を出てまっすぐ正面を見る

玄関を出てまっすぐ正面を見ると、庭の隅にザボンの木が立っていた。その枝葉の濃い柑橘系の木は古い木柵で囲まれ、何度も粗雑に上塗りした白いペンキの色が物悲しかった。木柵には簡素な南京錠が下がっていたが施錠はされていなかった。

そのザボンの木に一本だけ左に張り出した枝があり、そこにはいつも大きな薄黄色の実が一つぶら下がっていた。たった一つのザボンが我が物顔でぶら下がっていた。熟して木から落下する事もなく、、、、。少なくともオリビアにはそう見えた。

ある時オリビアが玄関の前に立って、白い柵の中のザボンをじっと見ていたら、祖母が横に来て言った。「あのザボンの木はあなたのひいおじいさんが、若い頃に日本から持って来たものよ。大きな旅行鞄の隅に苗木を入れてね。根の部分を湿った土で包んでそれを布でくるんでね。船で10日以上もかかった旅だから時々水を上げたりして大変だったのよ」

その古い古い革製の四角い旅行カバンは、今でも他の古い雑多な物と一緒に、屋根裏部屋の隅にある。

オリビアはとうとう学校に行くのをやめた。他の生徒とうまく行かないからだ。7年生になったばかりだから毎日が楽しい筈なのに。友達とおしゃべりをしていると自分だけ浮いてしまう。別にイジメられる訳ではないが、気を使って仲間に入れてもらっても彼女は面白くない。

母親がホームスクールを始めたのにはそんな理由があった。オリビアの母親はとても聡明な女性で、学校でやる教科書の勉強をあまり信用していなかった。

産まれて二か月のオリビアを抱き、庭に咲く花や木の葉を触らせたのも小さな指で自然を感じ取ってほしいと思ったからだ。水道から流れる水を触らせると、オリビアは驚き目を大きく見開いた。さまざまな思い出が母を強気にさせていた。

「ママ、これから私、屋根裏部屋をベッドルームにするわ」ある日断固としてオリビアが言った。ホームスクールを初めてすぐの頃だ。時々屋根裏部屋に忍び込む癖のあった彼女は、ある夜見たのだった、こうこうと輝く月の光に照らされ枝に下がり、金色に震える月のようなザボンの実を。

その実はかすかに金色の燐光を放ちとても魅惑的で、それは確かにもう一つの美しい月のようだった。

屋根裏部屋は散らかっていた。ペンキの剥げた古い木馬、シェードの割れたステンドグラスのランプ、段ボールに入った沢山の古いバービードール達、もちろんひいおじいさんの帯のついた革製の旅行カバンも。

一度オリビアはこのカバンを開けて見た事があった。カバンは簡単に開き、中にはセピア色の写真や領収証、何かの切符の半券などの紙切れがぎっしりと詰まっていた。オリビアは肩越しにひいおじいさんに見られているような気がして、カバンをそっとベッドの下に隠した。

「ベッドルームにするのなら部屋は片付けなさいよ」母親にそう言われたがオリビアは聞かなかった。その方が漂流物に混じって海の上を漂っている冒険者ような気がして面白かったからだ。仕方ないわねと、母親は頭を左右に振っただけだった。祖母は自分の息子の嫁のやる事に決して口出ししなかった。

屋根裏部屋の天井には幅1メートル程の長方形の天窓があり、それがベッドのすぐ上にあり、そこからは昼間美しい青空が見えた。下の部分が直角に曲がりその縦30センチほどの狭い部分は、庭を見る覗き窓のようになっていた。覗き窓からは庭のザボンが良く見える。月夜の晩は本当にはっきりと見える。

「日本のグレープフルーツってあんな感じかな」オリビアは密かに思った。

「ザボンの木のある柵の中には絶対入ってはだめよ。地面は厚い藻でおおわれてその下は沼になっているから、勝手に入ってしまうとぬかるみに足を取られて上がれなくなるよ」数年前に祖母が言った言葉をオリビアは覚えている。その時は「芝生と思ったのは藻だったんだ」と思ったのだが。

3年前に父が旅行に出かけた。まだ戻ってこない。「あの子もひいおじいさんのように放浪癖があるんだよ」あきらめたように祖母が母に言うと母はため息をつきうつ向いた。オリビアは心配そうに母を見たが母は何も言わなかった。

バックパックを背負って玄関の所でオリビアを抱きしめた父の匂いと「See You」と言って振り向いた彼の最後の顔は、忘れようとしても忘れられない。

祖母、母、オリビア、女三人の静かな、思いつめたような暮らしは、何の変哲もなく穏やかに過ぎているように見えたのだが。この頃からオリビアに異変が起きた。彼女は「あのザボンの木のザボンはいつ食べられるの?」と母と祖母に聞くのだった。

「食べたいの?」「うん」とうなずくオリビア。「あんなもの酸っぱくて食べれやしないよ」「はちみつをかければ大丈夫だよ」オリビアが明るい顔をした。「熟れるまでもう少し待ちなさい」母が言下に言った。

オリビアは次第に痩せて行った。母親は心配し医者に診せた。彼は「どこも悪くはありませんよ」と言った。「ただ、、、、」「ただ?」口ごもる医者に母は聞いた。「最近娘さんは食欲はありますか?」と聞いた。「体に異常はないが、どうも精神的なものが関係しているようです」医者は真顔で言った。

「そう言えば以前はよく食べていましたが、今は『ザボンが食べたい』と言い出して、、、」「ザボンを?」母は今までの出来事をすべて話した。ホームスクールを始めた事、屋根裏部屋を寝室に変えた事、ザボンの実に興味を示している事などなど。

医者は含み笑いをしながら聞いていたがやがて言った。「お嬢さんはザボンに恋しているようですね」

「ザボンを食べたいなら食べてもいいよ」ある日祖母が唐突に言った。「ホント?」オリビアは目を輝かせた。ザボンを自分で取りたいと言うオリビアを祖母は自由にさせた。

月夜の夜、オリビアはこっそり寝室を抜け出し白い柵の中に入って行った。藻の下は沼だと聞いていたが少し柔らかい土なだけだった。寝室に戻り注意深くザボンを机の上に置くと、皮をむき出した。とても固い皮なのでナイフを使った。

皮のわたのような白い部分がとても多く、なんと出て来た中身は普通のミカンの中身と同じ大きさだった。だがすっぱくて食べれない。

オリビアは諦めて覗き窓に寄り庭のザボンの木を見てみた。美しい月のようなザボンはやはり張り出した枝にぶら下がり、そこにあった。

オリビアはびっくりして目をパチパチと何度もまばたきしもう一度枝を見ると、そこにザボンはなかった。見えたザボンは、思い出の中で彼女の網膜に焼きついた確かにそれは残像であるのには違いなかった。

季節は初夏、時は午後

季節は初夏、時は午後。

メイは口笛でも吹きたいような最高の気分で通りを歩いていた。すると10メートルばかり先に一本の枝ぶりの良い樹木が見えた。

メイが近くまで行くと突然こんもりとした木枝の中から、沢山の黒い小鳥がいっせいに空中に飛び出した。「ヤバイ!嫌な奴が来た!みんな逃げろー」とでも言うように。それから人間が拍手をするように両の翼の先をパタパタと叩くと、空高く飛び去った。

鳥に馬鹿にされたようでメイはちょっとムッとした。黒い鳥は昔から縁起の悪い忌まわしい鳥だと嫌われている。「さもありなん、礼儀知らずの鳥たちめ」とメイはちょっと顔をしかめた。

ふと広い道路の反対側を見ると金網で囲ったぼうぼうとした敷地が見えた。近寄って見るとブドウ園だ。まだ若い苗木で根元を黒いビニールでおおってある。ブドウの苗木をしかもこんな近くで見たのは初めてだった。

見入っていると「ここに難民がやって来るそうだよ」男の声がした。見るとあご髭をのばした中年の男が、少し離れた所で金網のフェンスに手をかけこちらを見ていた。「難民?」「市長が決めたんだよ、今度の市長は人助けが好きでね」

「その難民の人たちはどこから来るんですか?」メイが聞いた。「トルコ、フランス、デンマーク、どこからでも。今は世界中に難民がひしめいているからね。ほらブドウ園の先に白い建物が並んでるだろう、あれが難民の住居になるんだよ」男は園の先にある学舎のように何列にも並列した建物を指さした。

「難民の人たちがブドウ園の世話をするのだろうか?」とメイは思ったが、口には出さなかった。

メイはまた歩き出した。やがて青い屋根に白壁、コントラストが美しい東欧的な建物が続く住宅街に出た。とてもエキゾチックな界隈で、等間隔に植えられた街路樹が美しい。青い落ち葉がヒラヒラと舞っている。

向こうから男が二人歩いて来る。近くで見る彼らは人間と言うよりマネキンのようだ。街のショーウインドに飾ってあるあのマネキン人形。二人とも美しい顔をしていて無表情、長身で手足が長い。すれ違う時恐ろしい程の静寂がメイを圧倒した。

馴染みのカフェで朝食を取るつもりだったが、そのカフェが見えない。忽然と通りから姿を消している。どうしたのか今日は、いつもと街の様子が違う。狐につままれたような気でいると「ジェージェージェー」と奇妙な鳴き声がする。

羊の大群がいる事に気づいたメイはやはり金網のフェンスで囲った羊の群れの近くまで行った。金網にかかったサインには【これらの羊たちはペンシルバニア、メリーランド、ミルウォーキー色々なアメリカの州からやって来た羊たちです。この敷地の枯草を食べる仕事を終えたら、また汽車に乗ってそれぞれの故郷に帰ります】と書いてある。奇麗な手書きだった。

だがあたりに生えた枯草はとてもまずそうで、それを食べている羊は一匹もいない。みな疲れた顔をしている。汽車で帰ると書いてあるから汽車で来たのだろう。旅疲れかも知れない。

「さて、私も帰るとするか」と歩みを速めると「まだ帰るのは早い。これからもっと面白い所に僕が連れて行くよ」後ろから抱きついて来た者がいた。気味の悪い声だった。メイはするりとその手を逃れ男を見てギョッとした。それはさっき見たマネキン人間そっくりだった。

両手を広げ唖然とした仕種をしているが顔は無表情、そして次の瞬間男は地べたに倒れ、からりと乾いた音がして男の右足の膝から先が抜けた。

出口を出る時、門にかかったサインをちらりと見ると【あなたの街のあなたの知らないあなたの未来の世界】と書いてあった。

残業で遅くなり家路を急ぐ

残業で遅くなり家路を急ぐツヨシは、地下鉄の新宿駅で飛び下り次の乗換駅に急いだ。駅のデジタル時計を見ると8時20分を示している。いつもより3時間は遅い帰宅だが、構内の人の数は多い。

ふと斜め向かいを見ると大きな円柱の前に、可愛い顔をした少女が立っていた。『私の書いた詩集を買って下さい』と書いたサインを首から下げている。ツヨシは「やれやれ、あんな時代遅れの事をまだやっているのか」と彼は小さく頭を振った。「あんなのは戦前の花売り娘と同じだ、可哀そうに、売れやしないよ」とため息をついた。

その時少女の足元にちょこんと座っているチワワと目があった。その目は「何だお前は、ジロジロ見るな、僕のママを馬鹿にするな」と言っていた。

その後数日間、彼は通常通りの時間に新宿で降り、少女の姿を探したが彼女はいなかった。一週間経っても現れない。「なんだもうあきらめたのか」とツヨシは鼻白んだ。

数週間後、ツヨシはあるイタリア料理店の隅にいた。目の前にはあの地下鉄の構内に立っていた少女が座っている。「どう、詩集は売れてるの?」「あんまり、、、」ぎこちなく首を傾げて少女が答えた。

「そうだよ、このクソ忙しい世の中で素人の書いた詩集を買うなんて、そんな奇特な人間はいないよ。もし金が欲しいのならバイトでもした方が手っ取り早い」少女が上目づかいに彼を見た。

ついに円柱の前に立っていた少女に声をかけたのだ。「その詩集幾ら?」聞くと「幾らでも」と言う。「そんなんじゃ誰も買わないよ、きちんと意思表示しないと、絶対売れないから!」少し高飛車に言うと「100円です」と言う。

10冊ほど売れずにあった物を全冊買い取り、彼は少女を誘って近くのイタリアンレストランに入ったのだった。少女のひた向きな姿勢と表情にツヨシは初めて見た時から魅かれていたのだった。

「中学しか出てないからどこも雇ってくれないんです。今は派遣社員でティッシュを配っています。その仕事がない日はジムの受付やって、それから」「もういいよ」ツヨシがさえぎった。「僕はなにも君の保護司じゃないんだから」と言ったものの、そんな気持ちがツヨシの中に芽生えていたのは事実だった。

運ばれてきた白ワインに手を伸ばし一口飲むと、突然頭の中で何かがはじけ、目の前の少女が掻き消え別の女が現れた。それは彼の妻のゆりえだった。瞬時に時間がフラッシュバックしたのだ。

妻と詩集売りの少女がツヨシの頭の中で錯綜し、思い出と遊んでいたツヨシは、ゆりえの姿も掻き消え一瞬茫然とした。ワインを二杯注文しなかったのは、その時だけは現実が見えていたのだ。

20年前、ゆりえも地下鉄の駅で詩集を売っていた。横浜の国立大学を卒業しある製薬会社の新入社員としてツヨシは、希望に燃えていた。いや希望に燃えたくても入った会社はブラック企業で、彼はすぐに離職を考えるようになった。つまらない日々が続いた。世間に対する自分の無知を嘆いた。

そして知り合ったゆりえ。とても若く見えたが実際には18才と言うのでツヨシは驚いた。

ゆりえは母子家庭で育ち、母親は横浜の日吉町の小さなクラブでホステスをしていた。生活のため嫌々ながら選んだ職業だった。ブラウスとスカートと言う地味な服装で出勤するので「もっとましなドレスを着て来い」とマネージャーから注意された事もあったとゆりえが笑った。

そんな経緯があるツヨシの過去、今は心にゆとりが出来、駅の構内にたたずむ詩集売りの少女にゆりえの面影を追ったとしても不思議ではない。それは若い日に描いた彼のロマンへの郷愁だった。

「その詩集いくら?」ある晩意を決した彼は、円柱のそばの少女に近寄り聞いた。近くで見ると化粧の濃い奇麗な子だった。「いくらでも」少女はにやりと笑い答えた。「君幾つ?」「年に興味があるんですかー?」場違いのイントネーションで彼女が聞き返した。

それには答えず「一冊買うよ、100円でいい?」「はい」「サンキュウ」ツヨシがクルリと背中を向け立ち去ろうとすると、少女が低い声で言った。「パパ活もやってますけど」

「やれやれ、俺ももう『パパ活』の年か」とため息をつき、電車の座席に座り詩集を開いて見ると、やたらイラストの多い小冊子だった。それも絵文字だらけ、所々に携帯で撮った彼女の写真があるが、すべてはパソコンで印刷したけばけばしい代物で、有難味は少しもなかった。

詩らしきものがあるとすれば、「白い少女、空を飛んで行く、私は追いかける」と書いてあるだけ。これでは何の事やらさっぱり分からない。しかも最後に自分が利用するマッチングアプリの名前が書いてある。ツヨシは興ざめし詩集をゴミ箱に投げ捨てた。「アプリだけじゃうまい出会いがないんだな」彼はそう思った。

ゆりえの詩集は違った。自筆でひたむきに書いたものだった。決してうまい詩ではないが、暖かいものが感じられた。中でもツヨシの好きな詩は「私には田舎がない。都会で産まれ都会で育ち、緑あふれる田舎がない」その後に田舎で自然に囲まれ生活する憧れの描写がつづき、「今度産まれる時は田舎の子に生まれたい」と書いていた。ツヨシの故郷は四国の香川、その田舎である。

「ただいまー」玄関を開けると「おかえりーパパー!」3才になったばかり長男の翔太が走って来た。「おかえりなさい」後ろから妻のゆりえが手を拭きながら笑顔で迎えた。夕食の準備をしているのだ。その顔を見てツヨシは思った

「あいつ、この頃また美しくなったな」

ずっと以前日本に住んでいた頃

ずっと以前日本に住んでいた頃、よくテレビドラマを見た。それはミステリー、ラブストリー、またはドキュメンタリーだったりした。ただ私が興味を惹かれたのは、ドラマの内容そのものよりたまたま画面に写り込んだ一般の人物や風景だった。

例えば恋愛物語で恋人たちが街路を歩くシーンで、その後ろを歩いている買い物袋をさげた一般の主婦、河川敷のロケでは川岸で釣りをしている俳優ではない老人の姿などが見えると、あれこれ彼らの実生活を想像したりした。小さな町の風景の中で見る飲食店の看板なども興味深い。

考えればドラマそのものよりも、写り込んだ人物や風景の方がよりドラマチックな人生模様を織り込んでいるかも知れない訳で、しかもそれらの映像は少し遠めにかすれて見えるためよけいに食指をそそられる。

今ならば著作権侵害になりやたらモザイクがかかる所だが、その頃は悠長なものでテレビ側もこそこそ隠し立てはしなかった。むろんそんな細部にこだわる視聴者はあまりいないだろうし、私は変態だったのかも知れない。

短大生になった私は、大学が長期の休みになると帰郷しなければならない。大学は東京にあり実家は九州だ。ゴトゴトと線路を走る汽車に乗っての長旅になる。その頃は新幹線、飛行機などの乗り物がまだ一般に普及していなかった。だから東京から九州に到着するのに、優に6時間以上はかかる。

二年目の冬休みが始まる直前、あるテレビドラマを寮内の娯楽ルームで見た。それはある有名作家の小説を映画化した刑事ドラマで、私が見たのはその劇場用の映画をテレビ用に編集したものだった。1958年の映画だから私が生まれる前の作品だ。(嘘です)

『張り込み』と言う映画で、東京から九州の佐賀まで捜査員二人が強盗殺人犯を捕まえに行くと言う内容だ。犯人は東京で事件を起こし、今はすでに結婚している昔の恋人に会いに行ったと言う情報ももとに、九州の佐賀まで行き女の家の前の木賃宿で張り込むのである。

この映画は断片的ではあるが、今でもユーチューブで見る事が出来る。今見ると街の風景は著しく様変わりし、人々の様子も粗削り粗雑な感じがする。それだけに悪性の文化に犯されていない人間本来の素朴な感じがとても良い。

この二人が列車に乗ってなぜか東京ではなく横浜から列車に飛び乗って、佐賀に行くシーンが異様に長い。長いイントロダクションと言うので有名になった映画でもある。

真夏の事で冷房のない列車の中は暑く、満員電車の中はあまりの暑さに下着姿になった男たちが通路に座っている。吹き出す汗をハンカチで拭き拭き、わずかに開けられた窓から風をむさぼる男たち。こちらまで汗が出るようなうまい演出と演技だった。なぜ窓を全開にしないのだろう?とチラリ思った。

それから数日後汽車に乗って帰省する事になった私は、線路の上をゴトゴト走る汽車に揺られて、映画の中の主人公になった気分だった。汽車の窓からの景色を食い入るように眺めた。家々の壁に掲示された至近距離に見られる薬や眼鏡のポスターもとても牧歌的だった。それからは長い汽車旅行があまり苦にならなくなった。

ネットで色々見ていたら、アメリカにも同名の映画があった。1987年の『STAKEOUT』(張り込み)でやはり刑事もの。だがこちらは間抜けな刑事のコメディで、脱獄犯人が以前の恋人の家に雲隠れしているとの情報で、その監視を命じられた二人の刑事の話。

だがその一人が犯人の恋人に惹かれ、女の方も刑事に惚れてしまうと言うアメリカならではのコメディ作品。日本の『張り込み』とは似ても似つかないドタバタ喜劇。日本の『張り込み』は超シリアス映画で、宿で張り込む刑事たちが家から女が出てくると、それっとばかりに宿の階段を駆け下り女を尾行始める。この尾行のシーンが見ものだった。

土砂降りの中、古さびた田舎町の道路を雨足を蹴るようにして歩く女、広々とした田園風景の中を日傘をさして歩く鬱々とした女。女が殺人犯の男に会い行くシーンだ。そんなシーンがあったかどうか今となっては定かではない。だが女の張り詰めた生真面目で真摯な表情はよく覚えている。

高校時代に学校から帰りキッチンの裏戸の前を通り過ぎる時、開け放した戸から居間のテレビが見えた。そこにはなぜかいつもアメリカの古い白黒映画が映っていた。『毒薬と老嬢』『避暑地の出来事』『月夜の出来事』そんな作品が草深い田舎の居間のテレビに写され、左手にある桃畑からはかぐわしい桃の香りが流れ込んでいた。

テレビの前に座って見るよりもなぜかキッチンの裏戸から見る方が好きだった私は、THE ENDの字幕が出るまでそこに立ちつくしていた。                 

木漏れ日が美しい林の中

木漏れ日が美しい林の中に入って行くと、大きな池があった。水面に水藻が浮かび、その間を彩るように睡蓮が浮かんでいる。それはあのクロード モネの、Water Liliesの絵を軽いタッチで描いた水彩画のように、懐かしい趣きがあった。淡いピンクの花が可憐だった。

私はその頃旅人だった。夫を亡くし東海岸のある女友達の家に滞在していて、一人未来を決め兼ねていた。友達の名は夏子、無類の働き者で、怠けてぼんやりしている私の背中をポンと叩き、はっぱをかけるような女だった。「好きなだけ居ていいのよ」彼女はそう言った。

その言葉に甘えるように私はいつまでもぐずぐずとして林の中を散歩などしていたのだ。

林の中で私の目をさらに引き寄せた物は、池の前にある三角錐の家である。赤、青、黄、だいだい、原色の色で塗られたさまざまな形の板壁が、大きなパッチワークのようにつなぎ合わされ、所々に丸い船室の窓の様なものがある。奇妙な家だった。

その晩私は仕事から帰って来た夏子に、その家の話をした。すると彼女は急に生真面目な顔をし、私の前に白ワインのグラスを置いた。

「あの界隈には幽霊が出るっていう噂があるの」と言った。「池の反対側にある古い洋館見たいな建物に気づいた?」

私はすぐに池の向こう岸に建っていた、白壁に黒い屋根の大きな建物を思い出した。壁の至る所にアイビーの蔓が這い、細い蔓がまるで壁のひびのように見えた。「あそこは4世帯が入っているコンドなんだけど、建物の二階の左側に一人暮らしのおばあさんが住んでいたの。でも三年前に死んだのよ」

「そのおばあさんが近頃、二階の窓辺に立ってじーっと池を見下ろしてるって噂があるの。それも昼間よ。それを見た人が何人もいるのよ」と言いながらワインで口を湿らせた。「ほんとー幽霊は昼間でるって言うからね」私はしたり顔でつぶやいた。

私には奇妙な性癖があり、衝撃的な出来事があるとそれを現実として把握できず、それを別の世界とすり替える癖がある。別の世界とは過去あるいは未来であったりした。だから夫の死後も彼はいつも私のそばにいて、悲しいと言う感情は一切湧かない。私は老婆の幽霊を見たいと思った。

その後も私は良く林の中を散歩した。行く度に古い池は大昔からそこにあったかのように、泰然として優しく私を迎えた。老婆の幽霊を探したが彼女はひとまず現れなかった。昼寝でもしているのだろう。

夏子が話した三角錐の家についても私は付けくわえなければならない。

「あの家には建築家の旦那さんとスウェーデン人の奥さんが住んでいたのよ」夏子はそう言った。「彼がスウェーデンを旅行した時、それは美しい奥さんに一目ぼれして結婚したの。三角錐の家は、奥さんの希望だったそうよ。三角錐の三階建ての家。だから建築家の旦那さんは才能を駆使して、そんな家を建てたのよ」

「ところが、、、」人差し指をさっと立て夏子は続ける。「三年後に二人の間に生まれた天使のように可愛い女の子が、あの池に落ちて死んだのよ」「えーっ!」「でもね」驚く私の目の前にまた夏子が人差し指を立てた。

「子どもなんか二人にはいなかったのよ、妄想よ、すべては妄想」「どうしてそんな妄想を抱くの?」私の疑問に夏子は明快に答えた。

三角錐の家は妻の希望通りに間取りが組まれ、一階が居間とキッチン、二階が寝室、三階が全面ガラス張りの憩いの間、そこからは林の中の風景がパノラマ的に見えるようにと、妻はあれこれ注文をつけた

だが出来上がればとても住みにくい家で、それぞれの階から上の階まで行くには、急ならせん階段を上らなければならなく、それが妻には苦痛だった。でも彼女は夫に一切愚痴を言わず、代わりに不妊症である自分を責め続けとうとう気がおかしくなってしまった。

「彼女のご主人はとても子供をほしがっていたからね」夏子は同情的な顔をした。「それでどうなったの?今は、、、」ため息をつき彼女は続けた。「奥さんはどこかの精神療養所に入り旦那さんはせっせとお見舞いに通っていたの、しばらくはね。でも今はどうなったか誰も知らない」

「だからあの家にはもう誰も住んでいないのよ」最後の言葉がとても無常に響いた。

超モダンな家がモダンであればあるほど、数年もすると急激に衰退して見える事があるが、三角錐の家を次に見た時、明るい原色の壁がまるで雨ざらしにあったかのように色あせて見えた。それはたぶんに夏子の話が影響していたのかも知れない。

半年以上もいた夏子の家を去る時が来た。私には人に頼らず自分でなすべき事が山ほどあった。数日後、面倒見の良すぎる夏子に多大な感謝をしながら別れの話をした。すると彼女が言った。「あなた以前蛍が見たいと言っていたわね。あなたが去る前に一度、蛍を見に行きましょう」

林の中のあの池の上に蛍は飛び交うと彼女は言い、ある夕間暮れ私達は出かけて行った。

あの時見た蛍の優美な趣きは、いまでも鮮やかに思い出す事が出来る。ある蛍たちは池の水藻や睡蓮の上に、あるいは周りの草むらに羽を休め、他のものはその力強くだがはかなげな光を放ち静かな舞を舞っていた。時々まるで流れ星のように宙をよぎるあざとい蛍がいて、私達は目を奪われた。

私達は茫然と立ちつくしその有様を飽くことなく見つめていた。やがて夏子が「帰ろうか」と私を促した。心残りな私は去りかけにもう一度振り向いた。その時、私は見た。

池の淵に白いドレスの女性と白いスーツの男性がゆらゆらと寄り添い立っているのを。男は女の背中に手を回し女は男の肩に頭をもたせ、悲し気にわびし気にだが幸せそうに立っていた。そのかすかな幻影はいつか見た古い映画の『華麗なるギャツビー』の主人公たちを彷彿とさせた。

海はひろいな~大きいな~

「海はひろいな~おおきーな~」ユウキが大きな声で童謡を歌い始めた。「月はのぼるし~」「やめてよ!恥ずかしい!」リサがさえぎった。「みんな見てるじゃないの!」「歌ぐらい歌わせろよ!折角のクルージングじゃないか!」

二人の前には茫々と広がる紺碧の海、白い雲、青い空が無限の彼方まで広がり、胸のすくような風景がある。ユウキが思わず童心に帰り下手な歌を披露したのも納得だ。

リサは両手を船べりの手すりに置いたままあたりを見回した。デッキに出ている乗客は多い。しかも長くコロナ禍と言う檻に閉じ込められた人達、久々に海上で浴びる太陽の光、潮の匂いは格別のモノがある。

だが彼らは大きなマスクをかけ目だけ出し表情が見えない。喜びは半減しているのが分かる。

ユウキとリサもまた、4泊5日のクルージング旅行に出発したばかり。ロスアンゼルスを出発しカタリナ島、サンフランシスコと寄港し、帰りはサンタバーバラに立ち寄りロスに戻って来る。

馴染みのある地名ばかりだが、船で行くのはまた違う醍醐味がある。それに一緒に旅行する事などめったにない。しかもこれはリサの母親からの結婚25周年記念日のプレゼントだ。

「君の母さんには感謝してるよ、それで費用は幾らだったんだ?」勇気が何気に聞く。「一人5万って言ってたわ」「5万ドル⁉」「バカね、5万円よ」「安いなー」とユウキがのけぞった。「えらそーうに、自分じゃ払いたくないくせに」リサが横目でユウキを睨んだ。

高校二年の娘を一人残して来た。神経質なリサは一日3回以上は電話している。だが本人は「友達が来てくれるから大丈夫」とむしろ自由を満喫している。

二人はその後ランチのためにメインダイニングに入って行った。ビュッフェ式だから皿を持って好きな料理を取り好きな場所で食べる。リサはしばらくあたりを睥睨しながら咀嚼していたが、「あーあ、もったいない」と声を上げて嘆いた。

「どうした?」ユウキがリサを見た。「見てよ、みんなあんなに食べ残して」他のテーブルを顎でしゃくった。「あんなに無駄にする食べ物を、腹を空かし痩せこけている北朝鮮やアフガニスタンの子供たちに分けて上げたいわ」「どうやって?子供たちがあのドアの向こうで待ってるわけじゃないよ」

「例えばの話よ」「君は例えばの話が多すぎるんだよ」そこでリサが反論しようとにじり寄ると「もういいよ、こんな事で議論してもしょうがない。俺、コンピュータルームに行って来る」と去って行った。「あ、ずるい、逃げるのね」リサがユウキの背中に罵声を浴びせた。

こんな口喧嘩は日常茶飯事で、ユウキはうんざりしていた。リサは無類の勝気さで人に言い負かされるのが大嫌いな性格。それが年を取るごとに激しさを増す。以前、会社の同僚に話すと「奥さん幾つ?」「50」すると友人は「更年期障害じゃないか?」しれっと言った。

更年期障害になるとまずホットラッシュが起こり、頭痛、不安、イライラ感、抑うつ感などの症状に見舞われ、果ては激しい妄想に取りつかれ、夫が会社に行くだけでヤキモチを焼く。自分も何か世間が驚かせる様な事をやらなければと焦り始めるそうだ。

クルージング3日目はサンフランシスコに寄港した。「ぴあ39に行ってランチにしようか?」ユウキが言うと「そうね、あたしクラムチャウダーが食べたい」リサがめずらしく笑顔を見せた。「俺はカニをたらふく食べるぞ」ユウキも腹を突き出しふざけて見せた。

昨日はカタリナ島に行ったがリサは終日ブスリとしていた。何が気に食わないのか解っているようで解っていない夫は、面白くない。

ピアに行きシーフードレストランに入り、ユウキが蒸した蟹を注文するとリサが「やっぱり私も蟹にするわ」ときた。彼は嫌な予感がしたが、まずは運ばれてきた蟹をむさぼる。リサを見ると彼女はカニのさばき方が分からず四苦八苦していた。

「ねえ、これどうやるの」と無惨な半処理のカニをユウキの目の前に突き出す。しかたなく手伝うとその間にユウキのカニはすっかりさめてしまった。

「アシカを見に行こうか?」食後ユウキが言った。「アシカ?」「この先に板の上に満載のアシカを見るとこがあるんだよ。アシカが芸をするそうなんだ。行って見ようか」無言でいたリサが激しく片手を振った。

「ダメダメ、あたしアシカとかアザラシとか、あんなぬめぬめした哺乳類なんて気持ち悪くてダメ」と言った所で「そうか、ダメか」とテーブルにバンと両手をつき彼は立ち上がり店を出て行った。

ユウキは何事も我慢強い性格だが、一度爆発すると【ナマケモノ】になってしまう。不気味な笑みを浮かべ一生を木の上で過ごすあの【ナマケモノ】である。表情を変えず緩慢な動作で人を煙に巻くあの【ナマケモノ】この殻を被ると彼は顔まで【ナマケモノ】似てくる。

リサがレストランの精算をすませクルーザーに向かうと、ユウキが桟橋の手すりに寄りかかり見知らぬ女と話している。白人の女だ。女性は後姿だけしか見えないので、リサはピアの反対側を歩きながらチラリと女を見た。美人だ。二人はマスクを外していた。

ユウキはある外資系のコンサルティング企業に勤務し、リサが来る前の5年を単身赴任で過ごした。だから英語はかなり流暢、そこで身に着けた社交術で近頃はとみにスマートな身のこなしをする。彼は背も高くイケメンの部類に入る。それがまたリサは気に食わない。

彼女はふてくされてバーで一杯やるとカジノに向った。カジノと言えばスロットマシーン、これしか知らない彼女は20ドル札をコインに変えレバーを引き始めた。が、最初の20ドルはあっという間になくなった。

その後もむきになりレバーを引きまくる。景気を付けるためにそばに来たミニスカートのウエイトレスにビールを頼む。カクテルを頼む。またビールを頼む。やがて彼女は自分が朦朧として来た事に気づき、すんでのところで自室に戻った。

部屋に戻るとバルコニーに続くドアが半開きになり、白い麻のカーテンが大きく翻っている。「おや、この構図は?どこかで見た事がある」とリサは即座に思った。いつか見たテレビドラマのシーンだ。

クルージング旅行に来た新婚夫婦のミステリードラマ。突風が吹きまくる暗い夜の海に、誤ってバルコニーから落ちた夫を遺産相続のために見殺しにする冷酷な妻、バルコニーの手すりに両手をかけ夫を見下ろす。

「助けてくれー!俺は泳げないんだー」手足をばたつかせもがき、浮き沈みを繰り返す夫の必死の形相を、女は歯牙にもかけず冷酷な笑みを浮かべ見つめている。

その女とそっくりの表情をリサはたった今自分の顔に貼り付けている。バルコニーの下には黒い海に吞み込まれたユウキが助けを求めている。リサはゆっくりと振り向き船室を眺めまわした。そこにユウキの姿はなかった。

その夜から二人は口を聞かなくなった。常に別々の行動を取り夜はベッドの右、左に出来るだけ離れて背中を向け合い寝る。残りの寄港地には下船せず、いや下船したのかしないのか相手の事は分からない、口を聞かないし別行動を取るのだから。

だがこれが功を奏してか、二人はそれぞれ自由に豪華客船の旅を満喫した。リサは心ゆくまでジャクジに浸かり、すっかりご無沙汰しているボーリングを楽しみ、ユウキはコンピュータルームに入りびたり。彼は【ナマケモノ】の殻をつけたままリサを横目で見て、リサはリサでユウキはすでに死んだ者とみなしている。

帰途につき豪華客船の旅と言う重荷を肩から下ろした二人、ユウキはオンライン勤務に戻りたまにはオフィスにも出かけ、リサは持ち前の几帳面さでばっちり家事をこなす。時々起こすヒステリーは可愛い娘が潤滑油となり、彼らはまたもとの幸せな、いや馴染みの暮らしに戻った。

住宅街をぶらりぶらりと散歩する

住宅街をぶらりぶらりと散歩するのが好きだ。自由に一人で歩きまわる。その醍醐味は?それは庭の造りを楽しむ事にある。家の構えもさることながら、それぞれの家の庭にはその家の所有者の思い、願い、いや人生観さえ込められている。

熱帯風の植物をあしらったトロピカル風の庭、竹藪のそばの池に鯉を泳がせた日本風の庭。レンガで囲んだ狭い場所の家庭菜園を楽しむ庭、さまざまな庭を見るのは楽しい。

そんな散歩を楽しむ私はある日、とても簡素で無趣味な庭に出くわした。単なる枯れた芝生で被われた荒れた庭である。カリフォルニアでは庭に水をやらないと、芝生はすぐに枯れてしまう。この庭は芝生の3分の1は枯れ、入口近くの塀のまわりに植えたバラの木も瘦せ枯れている。

そんな庭の中央にさび色の鉄製の立て看板が立っている。背低い看板で色自体が枯れた黄色い芝の色に溶け込み目立ちにくい。近寄って見ると(OLIVER HAIR SALON)その下に電話番号が書いてある。

要するに美容室なのだ。荒れた庭を持つこんな一般の家で美容室を開いていいものか、と一瞬思った。だが興味を持ち電話番号を書き留めようと腰をかがめて看板を見た時だった。

玄関ドアの左右にある窓の一つ、左側の大きな開き窓が勢いよく開き、一人の女性が笑顔を見せた。とても美しい女性だ。しかし化粧の仕方がうまいのか人工的な美しさだった。だから笑顔も作り物めいていた。

看板を見ていたので私を客だと思い待ちきれず窓を開けたのだろう。それでいっぺんに興覚めした。よっぽど客の来ない店なのだろう。

それから一週間ほどしてHAIR SALON OLIVERに電話して3日後に予約を取った。謎めいた美容室に興味しんしんだった。事実パーマをかける必要があった。

改めてオリバーヘアサロンを真正面から見ると、かなり瀟洒で可愛い小さな家だった。美しい水色の壁の正面に真っ白いドア、ドアの上部に金色のリングが下がっている。ドアベルなのだろう。以前ここに来た時は荒れた庭ばかりが目立ち殺風景だと思った。第一印象はあてにならない。あの奇麗な女性がまた見れる、ドアの前で妙に胸が高鳴った。

だがドアを開けるとそこにいたのは男性だった。着古したジーンズにカッコよく袖を曲げたからし色のシャツ、どこにでもいる普通の男だ。ジーンズの両足部分に引き裂いたような穴が開いている。シャンプーをしてロッドを巻いてもらっているうちに、互いに打ち解けた。

「この前窓から女の人が見えたんですけど、彼女は今日はお休みなんですか?」「ああ、あれは僕ですよ。あなたの事覚えてます」と言いニコリと笑った。その笑い方は嫌なものではなかった。

饒舌な彼と話しているうちに打ち解け、女装は趣味で気が向く時だけやると彼が言う。「でも僕はゲイじゃないですよ。ホントのゲイは女装はしないんです。センスと才能のあるホントのゲイは無理して女っぽく見せたりしない、エルトン ジョン見たいにね」

「あなたはどんな才能があるの?」思わず聞くと、彼が持っていたロッドを床に落としてしまい、「女装が趣味だと言ったでしょ」と口を濁した。そして、普段はダウンタウンにある父親の美容室を手伝っているのだが、コロナのせいでそこでの予約が激減したので、急遽この借家も美容室としてオープンしたのだと言った。

レズ、ゲイ、バイセクシャル、トランスジェンダと一口に言ってもその相違が分からないし皆同じようにも聞こえる。【トランスジェンダー男性】と言うのは、男性の性自認を持ちながら出生時に女性と割り当てられた人だと言う。トランスジェンダー女性はその反対。

でもレズ、ゲイとどう違うのだろう。接客用の黒い大きな椅子、壁の一面だけ大きな一枚ガラスで被われたオリバーの簡素な居間はとても快適だった。清潔に整頓されわざとらしくない一般向けの憩いの場と言う感じ。白い大きな火のない暖炉が洒落た風に居座っている。

一匹の黒い猫が静かに現れ私をじっと見た。胸元と腹の部分が真っ白の良く見る黒猫だ。洒落た首輪をつけている。「猫がいるのね、可愛い猫ね」と言うと「ええ猫は可愛いです、僕の気持を良く分かってくれます」

それから数ヶ月して散歩の途中、そろそろ次の予約を取ろうとオリバーの店の傍まで行くと彼がいた。庭の隅に置いた大きな移動式ラックに、何枚もの女物のブラウス、ドレスを掛け忙しくしていた。下の棚にも女物の靴が並んでいる。どれにも値札が下がっている。

「ハローオリバー」挨拶すると「ハロー」とても無邪気な笑顔を返した。「ガラージセール?」聞くと「ええ、もう女装はやめたんです」苦笑いをして「ダウンタウンの父の店がまた忙しくなったのでここの店はもう閉めます。父の店では女装はしませんから」

「あなたの女装をもう一度見たいと思ったのに」残念がると意外と生真面目な顔をした。「実はね、ある晩深夜に目が覚めてトイレに行く途中で鏡を見たら、自分の顔が女に見えたんです。女装を長く続けていると、次第に自分のジェンダーアイディンティティーが混乱して来るんです」と言う。

その後も私は彼の家の前を散歩する事があるが、行く度に人の気配がしない。庭にあった店の看板もない。ダウンタウンの父の店で忙しくしているのだろう。

それからしばらくして、ある国の動物園のホモセクシャルのペンギンカップルが、与えられた卵を二匹で孵化させたと言う動画を見た。自然界の生物の間では同性愛は決して珍しいことではなく、キリンのオス同士のカップルは実に9割にも達するそうだ。

しかも自然界では誰がゲイで誰がレズとか、周りは一切我関せずで噂にもならない。つがいのカップルは大らかに同性愛を楽しんでいると言う。人間も見習わなければならない。