ひとみはもう一度後ろを振り向いた

ひとみはもう一度後ろを振り向いた。やはりつけてきている。勤務先のスーパーマーケットを退出してから、ずっと後をつけて来ている。「困ったな」ひとみは思った。

3才位の女の子が後をつけて来るのだ。さっきマーケットで見た女の子である。ひとみは立ち止まり女の子が自分に追いつくまで待って見た。

「どうして後をつけてくるの?」と聞いて見る。女の子は泣きそうな顔でひとみを見上げうつむいた。「ママはどこへ行ったの?」と聞くと、「ママは嫌だ」と言う。「どうして嫌なの?」と聞いて見る。「知らない」と言う。「うちはどこ?」知らないと言う。

何を聞いても「知らない」でらちが明かず、ひとみは少し速足で歩き始めた。やがて美容院の横を右に曲がると、賑やかな夕暮れの商店街に出る。そこを通り抜けると、今度は緩やかな上り坂になる。坂を上りつめた所で彼女は後ろを振り向き空を見上げた。いつものように美しい夕焼けが広がっている。

ここから見る夕焼けの景色が彼女は好きだった。夕焼け空の下に見える賑やかな商店街、その風景もまた好きだった。新鮮な野菜、あるいは魚を今日中にさばこうと売り込みに精を出す店員の声、それにまぎれる買い物客のせわしない動き、そんな景色もひとみの好きなものだった。遠い昔に同じような風景をどこかで見たような気がするから。

ふと見るとさっきの女の子が、坂の入口で手すりにつかまったままひとみを見上げている。小さな体で急ぎ足のひとみを一生懸命つけてきたのだ。そして坂の入口で力尽き、今は黒い鉄の手すりにつかまっている。

ひとみは坂を下り少女のそばまで来た。「大丈夫?」と聞いて見る。少女は「うん」とうなずきニコリとほほ笑む。さすがに「帰れ」とはもう言えず、ひとみは少女の手を握り一緒にアパートに連れ帰った。名前を聞くとマリと答えた。

その晩、寝室に布団を敷きマリを寝かせると、ひとみは自分のベッドで寝た。ひとみを急ぎ足でつけて来たので、マリは疲れたのだろう、すぐに寝てしまった。無邪気なその寝顔を見てひとみは思った。「明日はこの子を交番に連れて行かなきゃ。いつまでもこんな事をしていたら誘拐と間違われる」と彼女は思った。

その時少女がキャキャキャとくぐもった声で笑った。楽しい夢でも見ているのだろうか。ひとみは呆れた顔で目だけ動かし天井を見上げた。人の気も知らないでと言いたいところ。だが寂しい一人暮らしの部屋に突然やって来たこの訪問者に、ひとみは嫌悪感どころか愛おしい気持ちさえ湧いて来た。

次の朝、パンケーキとスクランブルエッグの朝食を食べた後、「公園に行こう」と少女が言った。「だめよ、これから交番に行かなきゃ」「こうばん?」少女が怯えた顔をした。「いやだいやだ、交番ぜったいいやだ!」足を投げ出しばたばたと床を蹴り始めた。

30分後、ひとみはマリに根負けして公園に来た。仕事が非番な事もあり、公園に行って少しマリを遊ばせそれから交番に行ってもいいなと思ったのだ。

週半ばだと言うのに公園には人が多い。幼い子供連れの母親や赤ん坊をストーローラに乗せた母親などが談笑している。ベンチには老人が座り犬を連れた人もいる。実に平和な朝の公園風景だ。見るといつのまにかマリは友達を作り一緒に滑り台で遊んでいる。

笑いながら走ったり追いかけたりしているマリは、ひとみの後をつけて来た怯えたような昨日のマリとは違う。すべての光景をジャングルジムのそばで見ていたひとみは、不思議な既視感を覚えた。この光景は30年以上も前の自分と母親の様子に似ている。つまりマリは幼い頃のひとみの姿で自分はその母親、つまり自分の母親なのだ。

ひとみの母親は彼女が10才の時交通事故で亡くなった。それから叔母に貰われた彼女は、不幸せではなかったが幸せでもなかった。そんな暮らしをそのまま甘受した彼女は、実にメリハリのないぼんやりした人間に成長した。

彼女の母親もまた実にぼんやりした女だった。父が母のそのぼーっとした意志薄弱な性格に業を煮やし、家を出て行ってからも彼女は変わらなかった。頭が弱いのではないかと親せきの者は陰口を叩いたが、誰も母に意見する者はいなかったので物事も変わらずじまいだった。

マリがひとみのそばに走って来て小さなタンポポの花を渡した。「ありがと」とひとみが言うと「どういたまして」とほほ笑んだ。「どういたしまして」のカタコト語だろう。その言葉にひとみは衝撃を受けた。

「どういたしまして」その言葉こそが母がひとみに教えてくれた唯一の言葉だった。「誰かにありがとうと言われたら『どういたしまして』って言うんだよ」母はよくそう言った。その言葉がうまく言えずに何度も練習した。「どういたまして」「どういたまして」「どういたしまして」なんども練習するひとみを母は微笑しながら見ていた。

30分ほど遊んで「さて交番に行かなきゃ」ひとみがその事を言うと、マリが「おうちに帰りたい、ママに会いたい」と言う。「おうちに帰ろう」とひとみの手をひっぱる。

聞いて見るとマリの家はこの近くらしい。この公園にも何度も母親と来たと言う。それならば話は早い、マリの家に今から行けばいい。ママは働かずいつも家にいるとマリが言うので、生活費はどうしているのだろうとひとみが思いつく間もなく「アイスクリーム食べたい」とマリが言う。

見ると公園のわきにアイスクリームバンが止まっている。マリの好きなバニラのアイスクリームコーンを買って渡すと、「ありがと」と言ったマリにひとみは「どういたまして」と言い、思わず一人笑ってしまった。

その時「あっ!ママだ」とマリが言いこちらに近寄って来る女性に走り寄った。それが娘を探しているマリの母親だと分かった時、ひとみはすぐに頭を下げて謝った。「ごめんなさい、これから交番に連れて行くつもりだったんです、ごめんなさい遅くなって」と何度もあやまった。

マリの母親は頬にかかった長い髪をかきあげるようにして「だいじょうぶよ、心配しないで。これがはじめてじゃないから。でもこの公園に探しに来ると必ずいるの、だから心配しないで」とティーンエージャーのようなはにかみ顔をした。

真っ赤な夕焼け空の下を、母と娘は手をつなぎ帰って行く。つないだ母の手をマリがぶんぶんと振ると、母親もお返しにぶんぶん振る。どこかあぶなっかしい母と娘の後姿を見送りながら、ひとみは「やれやれ」と思った。ほほえましくも楽しげでもあるが、なんだかおかしな親子だ やれやれと思っていた。

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