新年あけましておめでとうございます。今年もどうぞよろしくお願い致します。
今回もまた、投稿がすっかり遅くなってしまいました。お詫び申し上げます。高齢が進むと常に身も心も倦怠感に包まれ、すべてを先延ばしにしてしまう悪い癖がつきました。ですが今年は身を引き締め、また新しい気持ちで日々暮らして行きたいと思っています。皆様もどうぞ健やかにお過ごしください。今年初めての物語を投稿します。
ベラはベラと言う自分の名をとても気に入っていた。
ベラ、ベラ,バラ、薔薇、そうだ あの豪華で華やかな薔薇の響きを思わせる名前ではないか。これは亡くなった母がつけた名だと、父が教えてくれた。
母はベラが産まれた同じベッドで、何日もぐずぐずして起きなかった。要するに産後の肥立ちが悪かったのだ。どうにか退院したが出血が止まらず、2週間後に自宅でなくなった。
その母が死期は数日後に迫っていると医者に言われた時、父の耳元に囁いたそうだ。「この子の名前はベラにして。お願いよ」父は思わず大きくうなずいた。
ベラが6才の時、近所のおばあさんがベラに話した。「ばあちゃんの妹は4才の時、火事に焼かれて死んだんよ。その頃は野焼きと言って春先になると、この辺の狭い畑や周りのノッパラ(野原)の枯草を、マッチで火を付けて燃やした。その火が最初はチョロチョロ燃えていたんが、風が出て来て大火事になってしもうた」
火の周りで二人がはしゃいでいると、そのうち火が妹の服に燃え移り、妹はあまりの熱さに、泣きながらそこら中を転げ回った。「どうして大人は助けなかったの?」ベラが聞くと「小さな子供がわめきながらあちこち飛び跳ねているから、大人は手をこまねいているだけだった。それにあたりに沢山人がいる訳じゃないからね」
老婆はながながとその話をした訳ではなく静かな横顔を見せながら、それはどこか詩的な話し方で趣味の良い言葉の羅列を思わせた。
ベラが帰る時老婆はびん詰にした甘くとろとろに煮た金柑をくれた。彼女は近所で有名な金柑の砂糖煮の名人だった。その晩ベラは、大きな赤い炎に包まれた自分が、無我夢中で火の中から逃げ出そうとする夢を見た。目が覚めた時、汗びっしょりで体がとても熱く、なのに少しのやけどもない自分の体が不思議だった。
柔らかくゆらゆらと揺らめく美しい赤い炎がベラをまた魅了したのは、彼女が小学二年生の時である。校庭で友達と遊び過ぎて薄暗くなって一人帰宅していると、ベラはある人家の庭の花畑が燃えているのを目にした。
竹垣で囲まれた小さな庭のその竹垣の根元から、ちらちら炎があがりそれがカラカラに乾いた竹に燃え移ったのだ。ベラは胸騒ぎを感じ、「このままにしていたらこの家は全焼する」と思い、その家の中にはいり「玄関の横の竹垣が燃えています」と家族に警告をした。
数日してその家の主婦がお礼を言いに来た。「あなたの娘さんのおかげで家が焼けずに済みました」と何度も頭を下げたそうだ。
母にそれを告げられた時、ベラは垣根に咲いていた見事なバラの花を思い出した。大輪の真紅のバラが、何本もの真紅のバラが、狂ったように赤い火の中で身もだえていた。生の花は燃えてはいず、ただ身もだえているだけだった。
その時バラをいじめるように怪しげに揺らめいていた赤い炎の姿は、ベラの網膜に焼き付き良くも悪くもその後の彼女の暮らしの中で思い出したように、唐突に彼女を突き動かした。
それから十年程たってベラが高校生になった時、彼女はアメリカのカリフォルニア州のマリブあたりに大きな山火事があった事を、日本のテレビのニュースで知った。火事で燃えている山の映像をアナウンサーは指示棒で示しながら「過去最最大の山火事だそうです」と無表情に伝えた。
なだらかな丘陵を燃やす赤い火は、まるで爆発した活火山のてっぺんから流れ出した真っ赤な溶岩のように見え、何日も続いた。テレビのアナウンサーはその映像を棒で指しながら「まだ燃えてます」と無表情に伝えた。それはいかにも対岸の火事であると言う風だった。
「僕の父は消防士だった」一緒にテレビを見ていた父が唐突に言った。無口な彼はいつも出し抜けに、思いや考えを言い放つ。いかにも今までずっと考えていたと言う風に。「知ってる、父さんが昔言ったわ。火事に巻き込まれて亡くなったのよね」
ベラの父親はアメリカの高校を卒業するとすぐに、東京に住むベラの家を訪ねて来た。うどん屋を営むベラの祖父のもとで修業をするために。「僕の父さんはうどんが好物で、良くリトル東京の店に連れて行ってくれた。とてもおいしくて二人で良く行ったよ」
その店のオーナーがベラの祖父を紹介してくれた。「父のいないアメリカは僕にとって、つまらないものだった。彼はサーフィンの名手でもあったし、海にも良く彼と行ったよ。沢山の思い出がある父の死は僕の人生を変えた」
日本人と白人の混血だったベラの父親は、いつも日本とアメリカの狭間で宙ぶらりんの人生観に苦悩したと言った。そのためかどちらの人種でもないような、どこかミステリアスな性癖を持つようになった。彼は英語と日本語のバイリンガルでもあった。
彼はけじめを付けたかった。中途半端な暮らしから抜け出したかった。だから日本に移住するのに何の迷いもなかったと彼は言った。そこでまだ若いベラの母親に出会ったのだ。
父はベラが高校三年の夏に、彼女を連れてアメリカに旅行した。そこで昔、父が両親と暮らしたアパートの近くのホテルに滞在する事にした。
「娘の君に一度僕の産まれた国をみてほしいという気持ちはいつもあった」と父はホテルに着いたその日に言った。ベラは群青色の海の見えるベランダに父と二人立ち、以前テレビで見た通りの半島のような、陸地から海に突き出したマリブの島影を見つけ凝視した。
父がめずらしくベラの肩に手を置いた。彼はいつも胸の中で静かに燃えているベラへの愛を、表に出す事はほとんどなかった。抱きしめると言う事もほとんどなく、アメリカ人が日常茶飯事口にする家族間での“I LOVE YOU‘’と言う言葉も使わない。
「ほんとの事を言えば、僕の父さんは火事に焼かれて死んだんじゃない。自殺をしたんだ、胸を拳銃でぶち抜いてね」ベラは思わず父を見上げた。父は続けた。
「カリフォルニアの山火事は必ずと言っていい程、毎年繰り返される。そこでは何人も死者が出て、家を焼かれてホームレスになる人もいる。彼はとても責任感の強い消防士でね、ある年の火事の終わりに、「燃えなくてもいい家が燃え死ななくてもいい死者が出るのは、消防士としての自分の責任だと言ってね、死にたいと言い出した」
『そんなバカな事を思ってはいけない。あなた以外の消防士は他に何人もいる。みんなの力を合わせたけどそれが及ばなかっただけだ』周りの人間たちはそう言ったけど。父は聞かなかった。毎年続く山火事の被害に彼はうつ病を患ってもいた。バランティアの消防士でもあった彼は、自分の力が足りなかったとより強く我が身を責めたのかも知れない。
ベラはあふれる涙をどうする事もできなかった。その時だった。群青色の海に浮かぶ島影に、いつかテレビで見たあの流れ出る溶岩のような赤い炎を見たのは。涙の中でゆらゆらと揺れるその幻影に、ベラは祖父がむかし消しえなかった無念の火と、今、父の胸に燃える静かなベラへの愛の火を重ねて見ていた。
ベラの肩の上に置いた父の手のひらのぬくもりは、次第に熱くなりそれは彼女の心の中に静かに浸透して行くようだった。