林の中の細い下り坂

林の中の細い下り坂を降りる。伸びすぎた羊歯や熊笹が両脇の崖からせり出し、メイの裸の腕を引っ掻く。坂を下り切ると沼があり、いちめん背高い茶色い穂をつけたガマの畑が見える。メイは沼のそばの草の上に虫取り網をポンと放り投げ座り込んだ。

彼女はイライラしていた。夏休みの宿題の昆虫採集がなかなかうまく行かない。「出来るだけめずらしい虫を、少なくとも10匹は集めなさい」と先生は言った。だがめずらしい虫など集まらない。昆虫図鑑を見てみると珍しい虫はすべて外国に住んでいる。

菓子折りの空き箱で作った採集箱には黒いアゲハ蝶、蝉のヒグラシ、それから茶色いカブトムシが虫ピンで止めてあるだけだ。あと七匹捕まえなければならない。しかも新学期まであと5日しかない。どうしよう、メイは焦った。負けず嫌いの彼女は、どうせならクラス一番の採集をやりたい。

ふと正面を見ると穏やかな清流が流れ、平たい大きな石の上にカナさんが居る。この辺りで有名な気の狂った女の人だ。「カナさんはずーっと昔結婚して子供が出来たけど、赤ちゃんは死んで産まれたの。だから旦那さんに実家に戻されたのよ」そんな事を言った友達がいた。

「キチガイなのに病院に入らなくていいの?」メイが聞くと「お姉さんがいるから、彼女が世話をしてるのよ」と友達は言った。「でもお姉さんも少しおかしいけどね」と彼女は付け加えた。

カナさんには道で時々会う事もあったがいつもぶつぶつ一人言を言ってるだけで、大人しい人だった。いま目の前にいるカナさんは、しわくちゃの花柄ワンピースを着て、平たい大きな石の上にしゃがみ込みザルに入れた米を洗っている。

ザルの目が粗いらしく米は容赦なくザルからこぼれ落ちている。するとカナさんが急に泣き出した。それは聞いた事もないような恐ろしい泣き声で、暗い穴の底から絞り出すような哀しい響きに聞こえた。

メイは恐くなり草の上から立ち上がろうとしたが、腰が抜けたようになり立てない。するとカナさんが右手をぱっと川の中に入れ、また同じ速さで手を引き上げた。そして立ち上がるとメイの方に歩いて来る。どうやら帰るらしい。

メイのそばを通る時、右手の手のひらをぱっと開いて見せた。そこにはオレンジ色の小さな可愛いサワガニが、観念したようにじっと動かずにいた。「食べれるよ」彼女はそう言うと、メイがたった今降りて来た細い坂の方に歩き出した。

しばらく彼女の後姿を見送っているとカナさんはぱっとメイを振り返り、大きな赤い舌を出して見せた。それはとても‘大きな👅でメイはびっくりした。

メイはとても嫌な気持ちになり裸足で川に入った。大きな平たい石のそばの水の少ない場所に、サワガニがぞろぞろと横歩きをしていた。そのそばでつやつやと滑らかな黒い小石が、宝石のように光っている。

この清流は水源に近く上流に行くほど川幅が狭く浅くなり水も澄み、最後は洞窟になりそこの祠に神様が祭ってあると誰もが噂していた。だが誰も祠を、いや洞窟さえ見た者はいない。

人の気配を感じ見ると、木漏れ日が揺れる上流から、彼女が知っている上級生の女の子と男の子が裸足で川を歩いて来た。二人は脱いだ靴を片手に持ち大きな川石をよけるように歩き、男の子は黒い学生服を着ている。彼らは祭壇からクルリと回れ右をして、バージンロードを後戻りする新婚のカップルのように、かすかな戸惑いを見せメイを見た。

薄暗くなって家に帰ると母が、「夕食の手伝いをしてね」とキッチンから大声で言った。考えれば絵日記も一週間溜まっている。「夏休みの宿題がたまっているから、それをやらないといけない」メイが負けずに大声で答えた。すると「毎日少しずつやらないからダメなんだよ」とヒステリックに言う母の声が聞こえた。

コメントを残す