オーケーこれで出発できるな

「オーケイ、これで出発できるな、何も忘れ物はないな!」父のタカシが大きな声を出した。「ないよ、忘れものなんか、何度も点検したじゃないか」息子のリョウがぼそりと言った。「じゃーかーさん、行って来るよ。」父が玄関からさらに大声を上げた。「行ってらっしゃーい」母の静かな声が家の中から聞こえた。

車は国道に出てみずみずしい新緑の下を走って行く。「やっぱり若葉の下を車で走るのは気分がいいな」ハンドルを握ったまま前を向いて父が言う。リョウは軽く肩をすくめた。

二週間ほど前だった。「おい、リョウ、今度の週末、一緒にキャンプに行かないか?」父に言われて「駄目だよオレ、テントの張り方なんて知らないもん」リョウが即座に答えた。

「ところがこのキャンプ場には貸しテントがある。それも折り畳み式の傘みたいに指一本で開閉できる奴だ。渓流もあり魚釣りもできる、それを焼くグリルもそろっている。なんでもありなんだ」父が言う。リョウはしぶしぶオーケーした。

時は9月初期、国立大を受ける受験生のリョウは、2月の試験に向けてだいたい心構えは出来た。と言うより今さらじたばたしてもと言う感じだ。だからここでキャンプと言うのもありかなと、内心こころ弾む。

キャンプ場に着くと家族連れが多くかなり賑わっている。夏休みも終わったが子供連れが多い。ここは近くに温泉や動物とのふれあい牧場などもあり、キャンプ場と言うより、テーマパークあるいは観光施設のようなものだ。

「ここは至れり尽くせりのキャンプ場なんだ、テントが嫌ならキャンピングカーで寝泊まりも出来る。そばに渓流もあるから魚釣りもできるし、それを焼くグリルなんかもそろっている。どうだ今から魚釣りに行かないか?」

そこまで一息に話すとじっとタカシはリョウを見た。「魚釣りなんてやった事もないし、、、」常にネガティブの返事しか出来ないリョウはそう言おうとして、じっと父を見た。常になく熱心に話す父の顔が気になる。

心にもやもやを抱えながらリョウは父の後について行った。確かな強い足取りで歩く父の後姿を、彼は上目づかいに見ていた。渓流はテントのすぐそばにある。釣り竿も釣った魚を入れるクーラーもすべて借りられる。

「俺は下流で釣るからお前は上流にしろ」父は勝手にそう言うとさっさと自分の位置を決め釣り糸を垂らした。そこからリョウは10メートルほど離れた所で釣り始める。釣り竿のセッティングなどは父に聞いた。

やがて父が大声を上げた。「おーい 釣れたぞー」リョウが父の方を見ると、彼は宙に放り上げた竿のリールをシャカリキになって巻き戻している。釣り糸の先でねずみ色の魚が飛び跳ねている。「これはニジマスだな」

タカシがそう言うとリョウが携帯を取り出し調べ始めた。「ヤマメじゃないの?ほらすごく似てるよ」と携帯の写真を見せた。「いや、これはニジマスだ、ヤマメはもっとでかい」タカシはもう一匹釣り、道の反対側にある魚洗い場に行き手際よくさばく。それを良く焼けたグリルに乗せた。

リョウは父の一連の行動を感心したように見ていたが、「こんな事どこで覚えたの?」と聞いた。「おやじだよ、小さい頃に良く魚釣りに連れて行ってくれた。親父は百姓で俺は田舎育ちの野暮な男だ」タカシは笑いながら言った。父の両親はリョウが小さい頃に亡くなり彼は会った事がない。

グリルで焼いたニジマスはとても美味しく、食後のピクニックテーブルで父はうまそうに煙草を吸っていたが、やがて思い切ったように話し出した。「リョウ、実はかあさんと別居しようと思うんだ」「えーっ!」と、リョウはのけぞる振りをした。こんな事は普段しないリョウである。彼は父ととても打ち解けた気持ちになっていた。

美しい自然の中で父と二人で魚釣り、バーベキューをする。生まれて初めての経験だった。

魚の身を奇麗に骨からはずし平らげた父が話し始めた。「リョウ、母さんは立派な実業家だ。一人で立ち上げた美容室をりっぱに成功させ、そこにブティックを併設した。それもうまく行っている。ほんとにやり手なんだ」ここで父はビールを一飲みした。

「だが俺は一生『髪結いの亭主』で終わりたくない」「かみゆいのていしゅ?」リョウが聞く。「美容院を経営する妻に食わせてもらう出来ない男の事だ、つまり俺の事」

タカシはある中堅どころの建設会社に勤務していたが、可もなく不可もなく平社員のまま今日まで来た。しかも会社は不況で閉鎖に追い込まれている。そこに来てのこの決断なのだろう。もう住む家も買ったと言った。

「千葉県にある200万円の古民家だ」「やすーい!」リョウはまたもやのけぞって見せる。「持ち主が高齢になり施設に移るそうだ、家もきちんとしてる」「生活費はどうするの?」「そこだよ、畑を耕し野菜を作る自給自足の生活をする、それが目的なんだから」ここで父は「何か甘いもんがほしいな。おい、あすこにソフトクリーム屋がある。ちょっと買って来い」とポケットから金を出そうとした。‘

「いいよオレ、金あるから」リョウは立ち上がりアイスクリーム屋の方に歩いて行った。

途中で一度父を振り返った。父は川の方を向いていたがその後ろ姿はどこか寂し気だった。

家に帰るとリョウはすぐ母に聞いた。父の話はほんとうかと。母はとても落ち着いていた。

「ほんとよ。父さん,今度こそ本気よ。あのひと不言実行だから。父さんはいつも言ってた、俺は情けない男だ、お前にばかり働かせて、俺は出来ない男だって」

キャンプから持ち帰ったタカシとリョウの洗濯物を中庭に干しながら、母は無表情で話した。その声はとても真摯に聞こえた。少なくともリョウには。「あなたは受験する一流国立大学の合格も担任の先生から太鼓判を押されてる。父さんはその事でまた自己嫌悪に陥ってるのよ、息子にも負けたと」リョウは我知らず頭をかいた。

「だから少し発破をかけてやった、じゃ自分ですべてやって見たらって、これが最後のチャンスよって。だからしばらく好きにさせて、どのくらい出来るか少し様子を見てみましょう」それから母は美容院に出かけた、予約が入っていると言いながら。

夜になり父親の部屋をリョウがそっと覗いて見ると、彼はコンピューターの前に座りインターネットで何かを検索していた。「今はネットの時代だ、何かフリーランスの仕事も探してみるよ」と言った父の言葉を思い出した。『自立するって言うのは案外本気なんだな』とリョウは思った。

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