ある日の夕暮れ、歩き疲れた旅人がスペインの古い町にたどり着いた。すると地べたにゴザを敷いた露天商が何やら口上を述べている。
「さあさあ、寄って行きなよ見て行きな、ナポレオンのしゃれこうべがあるよ」と大声を上げている。旅人は疲れ果て、今すぐにでも地べたにしゃがみ込みたい程だったので、露天商の真ん前にあぐらをかき彼をじっと見つめた。
「ナポレオンのしゃれこうべにしてはやけに小さいじゃないか」旅人が言うと露天商は「これはナポレオンの子供の時のしゃれこうべでしてさー」と高をくくった。旅人は「ああそうか」とうなずいた。長旅の果てに疲労困憊し思考が鈍っていた旅人はあっさりとその話を信じた‘
これは有名なコントであちこちの小話集に出てくる。最近ではある有名な日本の作家が、モロッコかどこかでナポレオンの頭蓋骨を売っていたと言ったそうで、こんな時代になってもまだ懲りずにそんな事を言っているのかとおかしくなった。
普通にナポレオンと言うとナポレオン1世の事、だがナポレオンには2世3世4世といる。なかでもナポレオン2世は病弱で若死したと言うから、案外その人の頭では?と疑う事も出来る。この話はあやふやな時代設定で人を煙に巻く、意味不明なコントだ。
さてどこの馬の骨とも知れない人間の頭蓋骨など買う気になれない旅人は、立ち上がり前方に見える古いレンガ造りの壁を見た。壁は上部がアーチ形に曲がった赤黒い門で、その向こうに薄青の湾が広がっている。
旅人は門をくぐり抜け左右を見た。するとちょっと小奇麗な石畳の海岸通りに出る。湾岸は腰の高さまでのレンガ塀で仕切られ、曲がりくねった半円を描き入り江を守っている。旅人はその仕切りに腰かけると海ではなく、反対側の裏寂れた町並みを眺めた。カフェや居酒屋、ホテル、土産物屋が雑然と並んでいる。
彼はふとカフェの店先の小さな丸いテーブルに目を止めた。薄いピンクのテーブルクロスが可愛い小さなテーブル。そこに不思議な女が座っている。不思議と言うのはこんな場所にふさわしくない様子をしていると言う意味。
気品があるがどこか下品にも見え、頭が良さそうだが馬鹿にも見え、椅子に座った様子がとてつもなく郷愁をそそる。『昔どこかであった懐かしい女』と誰にでも思わせるそんな女である。旅人はいったん視線を湾の方に向けたがまた女に戻した。
すると女も旅人をゆっくりと見た。彼が微笑むと女も微笑む。旅人はゆっくりと彼女に近づき「この席は空いているのか?」と聞く。すると女がこくんと首を縦に振る。彼は彼女の前に座った。それからの二人の距離は急速に近まる。
「フランスのボルドーから来たんだ。君は?」男が聞く。ひとしきり話をしたが、喉がカラカラに乾いていた男が「何か飲む?何が良い?」と聞くと女が「シャドネー」と答えた。男はカフェの中に入り赤いシェリー酒が入った小さなグラスを二つ持って来た。
「シェリー酒しかないそうだ」「そうよ、この町は何もない小さな港町。この退屈な町で私は生まれ育った」女はそう言うと頬杖をつき湾を眺めた。「何もない町、俺もそれが理由でボルドーを出て来た」「ボルドーで何をしてたの?」「バーテンダー。親父がバーを経営している、そこの雇われ従業員だ」
「君は何をしてるの?」男が一番聞きたかった事を聞いた。「絵のモデルよ」女が無表情に言った。「夫は画家なんだけど、絵が売れないから絵画教室を開いているの、そこで私はモデルをやっているわ」
男が生真面目な顔で女をじっと見た。「あなたは?結婚してるの?」と女が聞く。「いや、だが婚約者は居る」「婚約者がいるのに一人で旅行?」『働き過ぎよ、少し休暇をとったら』と旅行を勧めたのは婚約者だった。だが男はその事は口にしなかった。
「今日は絵のモデルは休みなの?」男が聞くと「毎日やる訳じゃないから」と女は薄笑い、カフェから数軒先の雑貨屋を指さした。
「あの店先に太った女性が立ってこちらを見てるでしょ、あれは私の母親なの」と店先の女性に手を振った。「母は父が家出をしてからずっと一人で私を育ててくれた。今でこそ母の気前と度胸の良さで店も繁盛してるけど、始めた頃は大変でまだ小さかった私は、店に行くと邪魔だから家に帰れと怒られたわ」
「家と言っても店の二階だけどね」女は寂しい顔をした。その時男は故郷の婚約者をふっと思い出した。彼が5才の時彼の家はレストラン経営で羽振りが良かった。婚約者の家は家族経営の小さなブドウ園を開き、まだ小さかった婚約者は、家が忙しいと良く彼の家に遊びに来ていた。
年月を経るといつのまにかずっと離れず、自分のそばにいるその女性が愛しくなり婚約した。小さな田舎町で学校の同級生同士が結婚する、そんな感じだ。実際二人は古い町の古い時代を肩を寄せ合い生きて来た。
シェリー酒を飲み干した女が「あ、母が呼んでいるわ、もう行かなきゃ」と立ち上がった。見るとさっきの女性がこちらに手を振っている。「シェリーをごちそうさま。婚約者によろしくね」女はさっさと母親のいる雑貨屋に急いだ。
男がその後ろ姿に目を向けていると突然、飛んできた白いカモメが彼のそばに止まった。つんつんと嘴でレンガを突いている。あたりはすでに薄暗くまさに夕日が水平線に沈むところだった。その真っ赤な夕日は水平線の上にちょこんと止まっているようだった。
それが彼にはさっき見たナポレオンの頭蓋骨の形に見えた。彼は苦笑いをし「赤い夕陽の頭蓋骨か」とつぶやいた。
次の朝、彼はこの不思議な体験をした旅を終え、優しい婚約者のいる故郷の田舎町に帰って行った。