僕はロスアンゼルスのある日系不動産会社に勤務している。日系の会社としては成功している会社だ。支店もカリフォルニアに他に5件ほどあり会社名も日本人で不動産に興味のある人なら知らない人はいない程、良く知られた会社だ。
顧客の大半が日本在住あるいはアメリカ在住の日本人で、スタッフは日本語を話せる事が必須条件。それに伝統的な日本人の振る舞いや道徳、日本人魂も必要とされる。
そんなこの会社へ、最近若い男性がアトランタのアメリカの不動産会社から転勤して来た。彼は日本人と白人の混血で、どちらかと言えば白人に近い顏をしている。転勤の理由は本人の希望で、新世界への挑戦だと言う。名前をクリスと言う。
彼はフリーランスのエージェントで生まれつきの気品のようなものがあり、真摯な振る舞いで皆に好感を持たれた。
そんな彼がある日僕に話しかけて来た。「君はこの辺りの寿司レストランには詳しいですか?」「あまり詳しくはないけど」僕は本当の事を言った。ある日彼は満面に笑みをたたえながら言った。「僕の祖母が日本の浅草に住んでいて、数年前にそこに滞在したんです。そこでその近くの寿司屋に行ったのだけど、それが素晴らしい味でね」
間口がとても狭い店で薄汚れた暖簾が掛かっていた。引き戸を開けると縦に長いとても狭い店。頭に手ぬぐいを巻いた年寄りのシェフが寿司を握っていた。何となく薄暗く時代遅れの店と言う雰囲気である。
彼は一度ドアを開けたがすぐに閉めたと言った。再度開くと「らっしゃーい‼」とそのシェフが威勢のいい声で言い放った。つられてそのままカウンターに座りお任せ刺身を頼んだ。これは祖母のアドバイスだった。
シェフはその後黙りこくった。クリスはそれがなぜか分からなかった。それはクリスの日本語の話し方に起因していると僕は思った。彼は標準語を話す時、相手の目をじっと見て低い声で話す。まるで言葉を間違えないように、文法を間違えないようにと注意深くゆっくりと反芻しながら話しているようだ。
それが寿司屋のオヤジには奇妙に見えたのだろう。クリスはそれから、目の前のガラスケースの中の寿司だねをじっと見ているだけだった。
「だが寿司の味は最高だった。あんな寿司をもう一度食べたい。そんな店を知らないか?何となく薄暗く時代おくれのような小さい店、だが飛び切りうまい寿司を出す店を」その言葉がそれからはいつも僕の頭の隅にあった。
彼はほとんど会社では何もせず他のスタッフの現場調査や空き家調査について行く、でなければ突然休日を取ったりしていた。上司からは彼の素性を何も聞かされていなかったので僕たちは勝手に、縁故関係のコネクションで配属されたどこかの御曹司だろうと噂した。自由気ままに仕事をこなす彼を羨望する者もいた。
そんな日々が何日か続き社員たちの過剰な彼への興味も薄れてきた頃、僕は彼との約束を思い出した。時代遅れの老舗、だが味だけは天下一品の寿司屋を紹介すると言うあの約束だ。ネット検索、知人からの聞き込みで一軒良さそうな店を見つけた。
リトル東京のビレッジの近くにある寿司屋だった。60年近く開業している老舗で、味の評価は4つ星半だった。これで決まりだろうと僕は金曜日の夕方彼を連れて店に行った。
ここで思わぬアクシデント、店外に長蛇の列。予約の電話を二日前にしたのだが予約は取らないと店から言われた。その事を彼に言うと「予約しても連絡なしに店に現れない客がいるからね。最近は予約制をやめた店が多いそうだ」
クリスはそう言うと落胆した様子も見せずむしろ僕をいたわるような顔をした。しかたなく近辺をドライブした。やがてやみくもに運転していると小さな路地裏に迷い込んだ。古い寺があったりしてクリスはそれらを興味深く見ているようだった。
突然彼が言った。「この近くに兄が住んでいるんだ、ちょっと寄って見ようか?」と言う。「もちろん」僕は即座に答えた。彼の支持通りに運転していくと緩やかな坂を上った所で「ここに駐車して」と彼が言った。
そこは駐車場と言うより子供たちが草野球をするようなラフな場所で、あちこちに草が生えている。車を止め彼の後ろからついて行く。今度は緩やかな下り坂を彼は手慣れた風にさっさっさと降りて行く。やがて小さなトンネルの出口らしき所に出た。彼はさっさとトンネルの中に入って行く。線路のないトンネルだった。
そこに1張りの三角形テントがあった。「ヘイ、マックス!」クリスはテントの中を覗いた。そして中の人物と親し気に握手をした。「やあ、クリス」中から弱弱しい声が聞こえた。僕も握手をしようと右手を差し出すと彼は左手を出した。
帰りの車の中でクリスが言う。「マックスは右手の中指がないんだ。8才の時闇の組織に誘拐され、犯人は身代金2億ドルを要求して来た。父はこんな事は嘘っぱちだと取り合わなかった。すると彼らは中指が第二関節から切り取られたブライアンの右手の写真を郵送して来た。母は驚愕して気絶した。遅ればせながら父は犯人に金を渡した。
「マックスはその後釈放され帰って来たが二度と本来の彼に戻る事はなかった。今でも普通の暮らしを拒絶してホームレスをやめないんだ」クリスはそう言うと深いため息をついた。僕に紹介された時、顔をそむけたままの彼の兄からは荒々しい虚脱感だけが感じられた。
僕は彼の父親の名前を聞いた。それはアメリカでも有数の不動産会社のCEOの名だった。
その後僕は何度か別の寿司レストランに誘ったが彼は断った。兄を紹介した事をかなり後悔しているようだった。何か言われたのかも知れない。
クリスはそれから半年ほどしてLAの他の支店に移った。