「僕、またあの女の人を見たよ」パープルカラーのパーカーが良く似合うエリックが言った。「あら、私もよ」ミアがすぐに反応した。ランチタイムのカフェテリア。4,5人の子供達の間に小さなざわめきが起こった。
「でも今まで隠れていたのにどうしてまた出て来たんだろう?」ツナサンドが大好きなポールが今日も同じサンドを頬張りながら言った。「隠れてるのが退屈なんじゃない」テーブルの端に座っていたエミリーがぼそりと言った。「そうかもね」これはミア。「僕は昨日、近くの林の中で見かけたな」
エリックがそう言うと彼らは急にお喋りをやめ中庭に走って行き、ウオールボールを始めた。これがこの頃の彼らのお気に入りの遊びだ。
あの女の人と言うだけでこんなに小学2年生の子供たちを興奮させる「女の人」とはいったい何者なのか。だが気が変わりやすい彼らの興味が瞬時に「女の人」からウオーターボールに変わるのはめずらしい事ではない。
子供達の間でそんな自分の噂話がされている事など知らないティナ。ティナはドッグウッドの白い花が舞い散る初夏の林の中を歩いていた。高い梢を飛び交う小鳥のさえずりを聞きながら、風が運ぶ花びらに頬を撫でられているととても優しい気持ちになる。
ブロンドの長い髪を風になびかせ歩くティナに、春色のシフォンのロングドレスがとても似合っている。春の息吹きに包まれ彼女は、わずかに酔いしれたような気になっていた。
「マミー、ルナ、少し疲れちゃった」振り向くとルナが立ったままティナをじっと見ている。
まだ2才の子供を長い間歩かせていた事にティナはやっと気づいたかのように、ルナを抱き上げた。「ごめんね、あなたの事をすっかり忘れていたわ」彼女は娘の頬にキスをした。そのキスで微笑みを思い出したルナは少し顔を上げあたりを見回した。
その頬にもう一度キスをしながら、「私のママはもうあの廃墟についてるだろうか?」ティナは心細く思った。廃墟とは林の中にある小さな小屋だ。この山の持ち主が何十年も前に(彼がまだ木こりだった頃)山で使う道具を保管して置いた小屋である。今はもう用済みの小屋。そんな小屋など周りの住人は誰も知らないすっかり忘れ去られた廃屋だ。
ティナとルナはそこに2週間以上も隠れている。彼らをこわがらせる恐ろしい男から逃れるために。そこを隠れ家に指定したのはティナの母親ハンナだった。「しばらくここに隠れていて。その間に私がもっと安全な場所を探すから」2週間分の食料と下着を詰めたバッグをティナに押し付けながら、母は可哀そうな娘と孫を小屋の中に押し込めると急ぎ足で去って行った。
それからティナは母がくれた大きな毛布を小屋の中に置きルナと一緒にくるまった。小屋の中には錆びついた大きな林業用の道具が押し込まれとても窮屈だ。
「そんなに私が憎いのなら私を殺して!今すぐ、さっ、早く!」夫のルークと会った最後の夜、平手で何度もティナの美しい顔を殴りながら彼は追いかけて来た。ベッドの上まで逃げて来た時、上に覆いかぶさって来たルークに「さあー早く首を絞めて!」見開いた絶望の目で彼を睨んだ。
するとルークは振り上げた手のこぶしでベッドを叩き悔しそうに自分の顔をおおった。いつもそうだった。彼は決してとどめを刺す事はない。それがルークの僅かな愛の名残りだと思うティナは、だからまだ彼のそばを離れない。
「彼の心にはデイモンが巣くっているのよ。それが時々出て来て悪さをするのよ。だから彼は決して変わらない」ハンナは一度そう言うと二人を別れさせようと躍起になった。いつ飛び出してくるかも知れない悪魔を飼う男と暮らすなんて危険すぎる。ティナもそうかも知れないと思う。
「君みたいにIQの低い女は僕はやり切れない」ルークは一度そう言い自分の髪をかきむしった。ルークは家の近くの高校でラテン語を教えて、学校では穏やかに生徒や同僚と人間関係を築くから家庭内の暴力など誰も知らない。
だが空を見たり花を見たりして優しい気持ちでいれば、必ずいつか幸せになると信じているようなティナを説得するのは並たいていの事ではない。林の中をつまらなそうに歩いていたルナがしゃがみ込み、野菊を摘み始めた。ティナもそれを手伝った。
ハイウエイの車の渋滞に巻き込まれたハンナはイライラしていた。林の中のティナに会うためにドライブしてるのだが、約束の時間に30分も遅れている。気まぐれなティナの事だから待つのが嫌で何をし出すか分からない。
「ルークはとても危険な男だ。ティナとルナの居場所をすぐに嗅ぎつけ襲いに来るに違いない。だからホテルや知人の家などもってのほか、二人を見つけられなければそれだけ彼の心のデーモンが暴れ出し、すぐに彼は気が狂ったようになる」ハンナは気が気ではなくサイドミラーからチラッと車の渋滞を見た。
「とにかくティナをどこか外国に住まわせよう」ハンナはそう思っている。スイスに彼女の姉がいる、そこにしばらく移住させようか、だがそれもせいぜい出来て3か月、いやルークの事だからそんな居場所などすぐに探り当てる、いやスイスまで追いかけて行くかも知れない。今度捕まえられたらそれこそ一巻の終わりだ」思いつめたハンナがハンドルに置いた両手をバンバンと数回叩いた。後ろの車がクラクションを鳴らした。
「マミー、アイスクリームが食べたい」ティナが作った野菊の冠を頭に乗せたルナが母を見上げた。「オーケイ」ティナは優しくルナを見つめ抱き上げ、明るい日差しが差し込む表通りを見た。車の往来が常より多い。そこにはルナの知らない世界がある。もちろんティナの知らない世界でもある。
林の中を行ったり来たりする頼りなげなティナとルナの姿は、表通りから見れば森の精の親子のように見えたかも知れない。
ティナはルナを抱いたまま小さな崖を降り沿道に出た。その時少し離れた場所でスクールバスが止まり、4,5人の子供が降りてティナとルナの方を見た。学校で一緒にランチを食べていた子供達だ。ルナが彼らに手を振った。彼らも手を振り返した。