HBOで不思議な映画を見た。タイトルは『LAMB』LAMBとは子羊の事だ。
アイスランドの人里離れた山間部に住む羊飼いの夫婦が、ある日羊の出産に立ち会う。分娩に手こずり妻は胎子を両手で引っ張り出しこの世に出すが、生まれた赤子は羊の頭を持ち人間の体をした半獣人だった。不吉なシーンで始まるこの映画は、極端にセリフの少ないシーンで想像力、妄想力を働かせ見る映画。
夫婦はたった一人の娘を失くしていた事もあり、このメスの子羊を『神からの授かりもの』と勝手に思い込み自分たちの子供として育て始める。死んだ娘の名前と同じアダと言う名を子羊につける。アダに人間用のセーターやズボンをはかせ、手をつなぎ草原を散歩する。
妻のマリアは花の髪飾りを作りアダの頭にのせキスをする。子羊もそれに答える。アダは言葉は話せないが、やがて「フン、フン」と両親の話に相づちを打つ事が出来るようにまでなる。次第に人間の子供に変貌して行く我が子を取り戻そうと、母羊は執拗に悲愴な鳴き声を上げ夫婦にまとわりつく。その煩わしさにマリアはとうとうライフルで母羊を撃ち殺してしまう。このあたりから不穏な空気が物語のあちこちに流れ始める。
羊から人間との合いの子が生まれた最初のシーンで、これはマリアの夫イングバルと母羊の混血だろうかと、ヤバイ妄想を持つ人がいると思う。私もそんな俗悪な考えがちらっと頭に浮かんだ。だがこれは単なる奇跡なのだよと、映画は静かに語り続ける。
それを立証するかのように、切り立った山肌、荒涼とした牧草原、隣人のいない世界が背景に映し出される。こんな場所だから奇跡が起きても不思議はないんだよとダメ押しをするのだ。
ところで、人間と他の動物との異種配合は可能なのだろうか。調べて見ると答えはNOである。では猿やチンパンジーは?不可能ではないかも知れないが、道義的、倫理的な観点からその実験を生物学者は深く追求しないのだそうだ。
当たり前の事だ。仮に万が一合いの子が生まれて来たとしても、人間あるいは猿、どちらの世界で生きさせるかと言う、神への冒涜に近いゆゆしい事態に陥る。
それはともかく映画の中の羊飼いの夫婦は、金銭問題にだらしない弟(イングバルの弟)が転がり込んで来て、三人でテレビを見たり昔のビデオを見たり、つかの間人間社会の楽しみに浸る。
子羊は何の事やら分らず一人仲間外れにされる。鏡を見て自分が両親や叔父と違う姿形をした異種の動物だと理解し始める。そんな羊を両親は無理にダンスに誘うが羊は無表情だ。
だが無表情な動物でも喜怒哀楽の感情はある。私達がペットとして飼う犬や猫、ペットとしての時間が長ければ長い程、飼い主との心の交流が深くなる。
そんなペットを、飽きたから捨てるなどとは絶対やってはいけない事である。
やがてイングバルの弟がマリアに言い寄ろうとすると彼女はそれを突き放す。すると弟は「アダの母親を君が銃で殺した事をアダは知っているのか」と脅す。するとマリアは「アダは神からのギフトだ。娘を失くした私達の新しい出発を促すための、神からのギフトだ」といいバス停まで車で送り彼を家から追放する。
実はこれ以前に非常に印象的なシーンがある。どこからともなく現れた頑健な曲がった羊角に筋肉隆々の肉体をもった半人半獣の男が、ライフルでイングバルを打ち殺しに来たのだ。その半人半獣はアダと同じ外見をしている。羊らしき顔をして人間の肉体をした裸の体には、うっすらと体毛が生えている。アダの父親なのか。彼はイングバルを殺すと、そばで泣くアダの手を取り黄昏の森の闇に消える。茫漠とした神羅万象の闇の中に消える。
この半人半獣は神話の中の牧羊神のようにも見える。牧羊神とは、山野や牧畜をつかさどる神だ。アダは普通の半獣人ではなかったのだ。神からの使いだった。
やがてイングバルの弟をバスに乗せ別れたマリアが帰宅すると、彼女は草原の上で血だらけになった夫を発見する。飼っていた牧羊犬も死んでいる。マリアは夫を胸にかき抱きとてつもなく取り乱す。そしてゆっくりと頭をめぐらしあたりの様子を窺う。ざわざわと草原の大地をそよがせながら、忍び寄るただならぬ空気。マリアは言葉を失う。
暗雲と立ち込める鼠色の雲、荒涼とした山野、無味乾燥な大草原、「いいか、これだけがお前たちの持ち物だ、馬鹿者どもが!!」神の戒めの怒鳴り声が聞こえるようだ。彼女は立ち上がり天をあおぎ泣きながら神に許しを請う。あるいは神に申し開きをする。
神や仏を馬鹿にすると必ず罰が当たる。それが真理だ。映画を観る側としてはそんな風に考えればいいのだろう。この映画をこう解釈し私はちょっと一息ついた。