7才の時から3年間、毎月購読していた少女漫画雑誌があった。いつの時だったか「次号からソフトクリームや恐竜が本の中から飛び出してくるビックリページが始まります」と予告があり、可愛い少女が口を開け驚いている写真が添えてあった。無知、無学と言うのは時に人を幸せにする働きもあり、私は本物のアイスクリームが食べられるとワクワクしながら次号を待っていた。
だがそれは単なる折り込みで、ページを開けると織り畳まれていた紙のアイスクリームが、本の中央に立ち上がると言う仕掛けだった。落胆したのは言うまでもない。その時初めて世の中のカラクリと言うものを少し勉強した。
私のベッドルームにサイズ1号ほどの絵が掛かっている。フランスかどこかの裏通りのカフェを描いた油絵、その写真画である。樽テーブルが3台、大きな鉢植えの観葉植物が隅に数個置かれ人の姿はなく、そこに表通りからの明るい日差しが差し込んでいる。年がら年じゅう見ていたら、私はいつしかその店の客になっていた。
長い事テーブルで待っていたが誰も注文を取りに来ない。しびれを切らし右手にあったガラスの引き戸を開けると、マホガニーのカウンターがあり右端に客らしき男が一人座っていた。黒と白のストライプシャツにハンチングを被った、ぞっとするほどハンサムな男だった。「注文はここでするんですか?」と聞くと、男は「俺はたった今、人を殺して来たんだ。気やすく話かけるな」と凄みを利かせる。
恐れ入り私はフロントドアから外に出た。店の周りは小さな籐のテーブルと椅子で埋め尽くされ、客がひしめいている。いわゆるパリのテラス式カフェと言うものだろう。
小物屋、ブティック、銀行などが並んだ背後の街景色はセピア調の色合いで、1960年代の写真を見るようだ。しばらく歩くと無数のハトが地べたを歩いている大広場に出た。中央に馬に乗って雄姿ポーズを取った騎士の銅像があるが、どこもかしこも鳩の糞だらけ。見てはいけない物を見てしまった哀しみで目をそらすと、近くのベンチで少女たち3人がアイスクリームを食べている。
白い丸襟のついた黒いワンピース、皆とても可愛い。「あなたはだーれ?」と一人が聞く。「さあ、自分が誰なのか分からないの、それにとてもお腹が空いてお金もないし」正直に言うと彼らは顔を見合わせた。「私たちの寮に来ない?食べ物なら沢山あるわ」と一人が言う「それはいい考え!」もう一人が言った。
なんとなく修道女を思わせる少女たちは、ナーシングホームの看護師達だった。街並みを抜け30分ほど歩くと、広大なぶどう畑が見えて来た。その真ん中を突き抜けるモミの並木道を歩く間、少女たちはぺちゃくちゃと喋り続けた。一時間以上は歩いただろう。
ガラス窓に囲まれた広い食堂で、彼らは蒸した鶏のもも肉、インゲンのソテーを振る舞ってくれた。どれも薄味で好みではなかったが、バターつきのバゲットは美味だった。食堂の大きな窓ガラスから見る庭景色はすでに秋模様。すっかり紅葉したマロニエの葉がヒラヒラ舞い落ちている。
満たされないお腹を抱えながら、私はホームを後にした。車で広場まで送ると言われたが断わった。見知らぬフランスの片田舎を一人歩き回るのも悪くはない。短い間なら。
ベッドルームで写真画を凝視していた時、不安げな私の魂が絵の精霊に誘い込まれ、今は一人異国の町を歩いている。これも言わば世のカラクリだ。ノスタルジーあふれる絵で巧妙に私をだまし誘い込み、故郷に帰るすべも分らない天涯孤独の女にしてしまった。
大昔に『家なき子と言うフランスの本があった。犬や猿と暮らす旅芸人に売り飛ばされ彼らと放浪する少年レミ、レミの寄る辺ない寂しい魂は、私の心のすみにもある。私は中年の家なき子だ。
大きな川の岸沿いに土産物屋がずらりと並んでいる。絵画や古本、雑多な小物等を売っている。少しはずれた所に駄菓子屋があり、チョコやヌガーの量り売りがされ、レクレアやモンブランもある。すっかり空き腹になった私は,喉から手を出しモンブランをわしづかみにしそうになったが、思い止まった。
すると目の前にピンク色の紙幣を握った手がニュッと出て来た「お腹が空いているんだね、顔色で分るよ。可哀そうに疲れた顔して」通行人が金を恵んでくれた。
見るとさっきカフェであった、ストライプシャッにハンチングを被った男だった。この人殺しに再会し驚き慌てていると、「心配しなくていいよ、僕は人なんか殺してはいない。かけだしの役者でね、やっと貰った初めてのセリフが『俺はたった今人を殺して来た』と言うわけ。ばかばかしい話さ」そう言うと彼は飄々と去って行った。貰った紙幣でモンブランを買うと,すごいお釣りが来た。
露店の土産物屋を過ぎて少し行った所に、品の良い白髪の老人が地面に座り物乞いをしている。そばにグリーンのチョッキを着たトイプードルがいて、私を見てピョンピョンと飛び上がる。その度に耳も飛び跳ねとても可愛らしい。空き缶に金を入れると私にお手をした。感動しさらに投げ銭を追加した。
投げ銭と言うが、これは私がしがない駆け出しの俳優から恵んで貰った投げ銭でもある。老人が優しい笑みを浮かべた。
日が暮れかけ夕日が川を染め始めると、離れた場所の眼鏡橋が急に浮かび上がり、アーチ橋と川に映ったその部分が円形になり、それが真っ赤な夕日のように見えた。不思議な事もあるものだとじっと見ていたら、強烈な寂寥感に襲われ次に鬱鬱として体中から力が抜けていくようだった。
ふらふらと歩きたどり着いたベンチで横になっていると、誰かが毛布を掛けてくれた。とてもいい匂いのする毛布で薄目を開け見てみると先ほどの老人だった。彼は私の顔の横にモンブランを一つ置き、抱いたトイプードルの頭を撫でながら去って行った。
その晩はとても良く眠れ翌朝目覚めると、次第に思考がはっきりして来た。「私はもはやこの絵の世界から抜け出し、自分の寝室に戻らなければならない。そして私の私だけのベッドで心ゆくまで眠りたい」そうひたすら渇望した。
割りに軽い足取りであのテラス式のカフェまで歩いた。私はここで絵から掴み取られた魂を奪い取り、自分の胸に押し戻し自分のベッドルームに戻るのだ。その格別の方法は分からないがこれからじっくり考える。私はカウンター席に座りエスプレッソを頼んだ。