玄関を出てまっすぐ正面を見ると、庭の隅にザボンの木が立っていた。その枝葉の濃い柑橘系の木は古い木柵で囲まれ、何度も粗雑に上塗りした白いペンキの色が物悲しかった。木柵には簡素な南京錠が下がっていたが施錠はされていなかった。
そのザボンの木に一本だけ左に張り出した枝があり、そこにはいつも大きな薄黄色の実が一つぶら下がっていた。たった一つのザボンが我が物顔でぶら下がっていた。熟して木から落下する事もなく、、、、。少なくともオリビアにはそう見えた。
ある時オリビアが玄関の前に立って、白い柵の中のザボンをじっと見ていたら、祖母が横に来て言った。「あのザボンの木はあなたのひいおじいさんが、若い頃に日本から持って来たものよ。大きな旅行鞄の隅に苗木を入れてね。根の部分を湿った土で包んでそれを布でくるんでね。船で10日以上もかかった旅だから時々水を上げたりして大変だったのよ」
その古い古い革製の四角い旅行カバンは、今でも他の古い雑多な物と一緒に、屋根裏部屋の隅にある。
オリビアはとうとう学校に行くのをやめた。他の生徒とうまく行かないからだ。7年生になったばかりだから毎日が楽しい筈なのに。友達とおしゃべりをしていると自分だけ浮いてしまう。別にイジメられる訳ではないが、気を使って仲間に入れてもらっても彼女は面白くない。
母親がホームスクールを始めたのにはそんな理由があった。オリビアの母親はとても聡明な女性で、学校でやる教科書の勉強をあまり信用していなかった。
産まれて二か月のオリビアを抱き、庭に咲く花や木の葉を触らせたのも小さな指で自然を感じ取ってほしいと思ったからだ。水道から流れる水を触らせると、オリビアは驚き目を大きく見開いた。さまざまな思い出が母を強気にさせていた。
「ママ、これから私、屋根裏部屋をベッドルームにするわ」ある日断固としてオリビアが言った。ホームスクールを初めてすぐの頃だ。時々屋根裏部屋に忍び込む癖のあった彼女は、ある夜見たのだった、こうこうと輝く月の光に照らされ枝に下がり、金色に震える月のようなザボンの実を。
その実はかすかに金色の燐光を放ちとても魅惑的で、それは確かにもう一つの美しい月のようだった。
屋根裏部屋は散らかっていた。ペンキの剥げた古い木馬、シェードの割れたステンドグラスのランプ、段ボールに入った沢山の古いバービードール達、もちろんひいおじいさんの帯のついた革製の旅行カバンも。
一度オリビアはこのカバンを開けて見た事があった。カバンは簡単に開き、中にはセピア色の写真や領収証、何かの切符の半券などの紙切れがぎっしりと詰まっていた。オリビアは肩越しにひいおじいさんに見られているような気がして、カバンをそっとベッドの下に隠した。
「ベッドルームにするのなら部屋は片付けなさいよ」母親にそう言われたがオリビアは聞かなかった。その方が漂流物に混じって海の上を漂っている冒険者ような気がして面白かったからだ。仕方ないわねと、母親は頭を左右に振っただけだった。祖母は自分の息子の嫁のやる事に決して口出ししなかった。
屋根裏部屋の天井には幅1メートル程の長方形の天窓があり、それがベッドのすぐ上にあり、そこからは昼間美しい青空が見えた。下の部分が直角に曲がりその縦30センチほどの狭い部分は、庭を見る覗き窓のようになっていた。覗き窓からは庭のザボンが良く見える。月夜の晩は本当にはっきりと見える。
「日本のグレープフルーツってあんな感じかな」オリビアは密かに思った。
「ザボンの木のある柵の中には絶対入ってはだめよ。地面は厚い藻でおおわれてその下は沼になっているから、勝手に入ってしまうとぬかるみに足を取られて上がれなくなるよ」数年前に祖母が言った言葉をオリビアは覚えている。その時は「芝生と思ったのは藻だったんだ」と思ったのだが。
3年前に父が旅行に出かけた。まだ戻ってこない。「あの子もひいおじいさんのように放浪癖があるんだよ」あきらめたように祖母が母に言うと母はため息をつきうつ向いた。オリビアは心配そうに母を見たが母は何も言わなかった。
バックパックを背負って玄関の所でオリビアを抱きしめた父の匂いと「See You」と言って振り向いた彼の最後の顔は、忘れようとしても忘れられない。
祖母、母、オリビア、女三人の静かな、思いつめたような暮らしは、何の変哲もなく穏やかに過ぎているように見えたのだが。この頃からオリビアに異変が起きた。彼女は「あのザボンの木のザボンはいつ食べられるの?」と母と祖母に聞くのだった。
「食べたいの?」「うん」とうなずくオリビア。「あんなもの酸っぱくて食べれやしないよ」「はちみつをかければ大丈夫だよ」オリビアが明るい顔をした。「熟れるまでもう少し待ちなさい」母が言下に言った。
オリビアは次第に痩せて行った。母親は心配し医者に診せた。彼は「どこも悪くはありませんよ」と言った。「ただ、、、、」「ただ?」口ごもる医者に母は聞いた。「最近娘さんは食欲はありますか?」と聞いた。「体に異常はないが、どうも精神的なものが関係しているようです」医者は真顔で言った。
「そう言えば以前はよく食べていましたが、今は『ザボンが食べたい』と言い出して、、、」「ザボンを?」母は今までの出来事をすべて話した。ホームスクールを始めた事、屋根裏部屋を寝室に変えた事、ザボンの実に興味を示している事などなど。
医者は含み笑いをしながら聞いていたがやがて言った。「お嬢さんはザボンに恋しているようですね」
「ザボンを食べたいなら食べてもいいよ」ある日祖母が唐突に言った。「ホント?」オリビアは目を輝かせた。ザボンを自分で取りたいと言うオリビアを祖母は自由にさせた。
月夜の夜、オリビアはこっそり寝室を抜け出し白い柵の中に入って行った。藻の下は沼だと聞いていたが少し柔らかい土なだけだった。寝室に戻り注意深くザボンを机の上に置くと、皮をむき出した。とても固い皮なのでナイフを使った。
皮のわたのような白い部分がとても多く、なんと出て来た中身は普通のミカンの中身と同じ大きさだった。だがすっぱくて食べれない。
オリビアは諦めて覗き窓に寄り庭のザボンの木を見てみた。美しい月のようなザボンはやはり張り出した枝にぶら下がり、そこにあった。
オリビアはびっくりして目をパチパチと何度もまばたきしもう一度枝を見ると、そこにザボンはなかった。見えたザボンは、思い出の中で彼女の網膜に焼きついた確かにそれは残像であるのには違いなかった。