残業で遅くなり家路を急ぐ

残業で遅くなり家路を急ぐツヨシは、地下鉄の新宿駅で飛び下り次の乗換駅に急いだ。駅のデジタル時計を見ると8時20分を示している。いつもより3時間は遅い帰宅だが、構内の人の数は多い。

ふと斜め向かいを見ると大きな円柱の前に、可愛い顔をした少女が立っていた。『私の書いた詩集を買って下さい』と書いたサインを首から下げている。ツヨシは「やれやれ、あんな時代遅れの事をまだやっているのか」と彼は小さく頭を振った。「あんなのは戦前の花売り娘と同じだ、可哀そうに、売れやしないよ」とため息をついた。

その時少女の足元にちょこんと座っているチワワと目があった。その目は「何だお前は、ジロジロ見るな、僕のママを馬鹿にするな」と言っていた。

その後数日間、彼は通常通りの時間に新宿で降り、少女の姿を探したが彼女はいなかった。一週間経っても現れない。「なんだもうあきらめたのか」とツヨシは鼻白んだ。

数週間後、ツヨシはあるイタリア料理店の隅にいた。目の前にはあの地下鉄の構内に立っていた少女が座っている。「どう、詩集は売れてるの?」「あんまり、、、」ぎこちなく首を傾げて少女が答えた。

「そうだよ、このクソ忙しい世の中で素人の書いた詩集を買うなんて、そんな奇特な人間はいないよ。もし金が欲しいのならバイトでもした方が手っ取り早い」少女が上目づかいに彼を見た。

ついに円柱の前に立っていた少女に声をかけたのだ。「その詩集幾ら?」聞くと「幾らでも」と言う。「そんなんじゃ誰も買わないよ、きちんと意思表示しないと、絶対売れないから!」少し高飛車に言うと「100円です」と言う。

10冊ほど売れずにあった物を全冊買い取り、彼は少女を誘って近くのイタリアンレストランに入ったのだった。少女のひた向きな姿勢と表情にツヨシは初めて見た時から魅かれていたのだった。

「中学しか出てないからどこも雇ってくれないんです。今は派遣社員でティッシュを配っています。その仕事がない日はジムの受付やって、それから」「もういいよ」ツヨシがさえぎった。「僕はなにも君の保護司じゃないんだから」と言ったものの、そんな気持ちがツヨシの中に芽生えていたのは事実だった。

運ばれてきた白ワインに手を伸ばし一口飲むと、突然頭の中で何かがはじけ、目の前の少女が掻き消え別の女が現れた。それは彼の妻のゆりえだった。瞬時に時間がフラッシュバックしたのだ。

妻と詩集売りの少女がツヨシの頭の中で錯綜し、思い出と遊んでいたツヨシは、ゆりえの姿も掻き消え一瞬茫然とした。ワインを二杯注文しなかったのは、その時だけは現実が見えていたのだ。

20年前、ゆりえも地下鉄の駅で詩集を売っていた。横浜の国立大学を卒業しある製薬会社の新入社員としてツヨシは、希望に燃えていた。いや希望に燃えたくても入った会社はブラック企業で、彼はすぐに離職を考えるようになった。つまらない日々が続いた。世間に対する自分の無知を嘆いた。

そして知り合ったゆりえ。とても若く見えたが実際には18才と言うのでツヨシは驚いた。

ゆりえは母子家庭で育ち、母親は横浜の日吉町の小さなクラブでホステスをしていた。生活のため嫌々ながら選んだ職業だった。ブラウスとスカートと言う地味な服装で出勤するので「もっとましなドレスを着て来い」とマネージャーから注意された事もあったとゆりえが笑った。

そんな経緯があるツヨシの過去、今は心にゆとりが出来、駅の構内にたたずむ詩集売りの少女にゆりえの面影を追ったとしても不思議ではない。それは若い日に描いた彼のロマンへの郷愁だった。

「その詩集いくら?」ある晩意を決した彼は、円柱のそばの少女に近寄り聞いた。近くで見ると化粧の濃い奇麗な子だった。「いくらでも」少女はにやりと笑い答えた。「君幾つ?」「年に興味があるんですかー?」場違いのイントネーションで彼女が聞き返した。

それには答えず「一冊買うよ、100円でいい?」「はい」「サンキュウ」ツヨシがクルリと背中を向け立ち去ろうとすると、少女が低い声で言った。「パパ活もやってますけど」

「やれやれ、俺ももう『パパ活』の年か」とため息をつき、電車の座席に座り詩集を開いて見ると、やたらイラストの多い小冊子だった。それも絵文字だらけ、所々に携帯で撮った彼女の写真があるが、すべてはパソコンで印刷したけばけばしい代物で、有難味は少しもなかった。

詩らしきものがあるとすれば、「白い少女、空を飛んで行く、私は追いかける」と書いてあるだけ。これでは何の事やらさっぱり分からない。しかも最後に自分が利用するマッチングアプリの名前が書いてある。ツヨシは興ざめし詩集をゴミ箱に投げ捨てた。「アプリだけじゃうまい出会いがないんだな」彼はそう思った。

ゆりえの詩集は違った。自筆でひたむきに書いたものだった。決してうまい詩ではないが、暖かいものが感じられた。中でもツヨシの好きな詩は「私には田舎がない。都会で産まれ都会で育ち、緑あふれる田舎がない」その後に田舎で自然に囲まれ生活する憧れの描写がつづき、「今度産まれる時は田舎の子に生まれたい」と書いていた。ツヨシの故郷は四国の香川、その田舎である。

「ただいまー」玄関を開けると「おかえりーパパー!」3才になったばかり長男の翔太が走って来た。「おかえりなさい」後ろから妻のゆりえが手を拭きながら笑顔で迎えた。夕食の準備をしているのだ。その顔を見てツヨシは思った

「あいつ、この頃また美しくなったな」

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