「海はひろいな~おおきーな~」ユウキが大きな声で童謡を歌い始めた。「月はのぼるし~」「やめてよ!恥ずかしい!」リサがさえぎった。「みんな見てるじゃないの!」「歌ぐらい歌わせろよ!折角のクルージングじゃないか!」
二人の前には茫々と広がる紺碧の海、白い雲、青い空が無限の彼方まで広がり、胸のすくような風景がある。ユウキが思わず童心に帰り下手な歌を披露したのも納得だ。
リサは両手を船べりの手すりに置いたままあたりを見回した。デッキに出ている乗客は多い。しかも長くコロナ禍と言う檻に閉じ込められた人達、久々に海上で浴びる太陽の光、潮の匂いは格別のモノがある。
だが彼らは大きなマスクをかけ目だけ出し表情が見えない。喜びは半減しているのが分かる。
ユウキとリサもまた、4泊5日のクルージング旅行に出発したばかり。ロスアンゼルスを出発しカタリナ島、サンフランシスコと寄港し、帰りはサンタバーバラに立ち寄りロスに戻って来る。
馴染みのある地名ばかりだが、船で行くのはまた違う醍醐味がある。それに一緒に旅行する事などめったにない。しかもこれはリサの母親からの結婚25周年記念日のプレゼントだ。
「君の母さんには感謝してるよ、それで費用は幾らだったんだ?」勇気が何気に聞く。「一人5万って言ってたわ」「5万ドル⁉」「バカね、5万円よ」「安いなー」とユウキがのけぞった。「えらそーうに、自分じゃ払いたくないくせに」リサが横目でユウキを睨んだ。
高校二年の娘を一人残して来た。神経質なリサは一日3回以上は電話している。だが本人は「友達が来てくれるから大丈夫」とむしろ自由を満喫している。
二人はその後ランチのためにメインダイニングに入って行った。ビュッフェ式だから皿を持って好きな料理を取り好きな場所で食べる。リサはしばらくあたりを睥睨しながら咀嚼していたが、「あーあ、もったいない」と声を上げて嘆いた。
「どうした?」ユウキがリサを見た。「見てよ、みんなあんなに食べ残して」他のテーブルを顎でしゃくった。「あんなに無駄にする食べ物を、腹を空かし痩せこけている北朝鮮やアフガニスタンの子供たちに分けて上げたいわ」「どうやって?子供たちがあのドアの向こうで待ってるわけじゃないよ」
「例えばの話よ」「君は例えばの話が多すぎるんだよ」そこでリサが反論しようとにじり寄ると「もういいよ、こんな事で議論してもしょうがない。俺、コンピュータルームに行って来る」と去って行った。「あ、ずるい、逃げるのね」リサがユウキの背中に罵声を浴びせた。
こんな口喧嘩は日常茶飯事で、ユウキはうんざりしていた。リサは無類の勝気さで人に言い負かされるのが大嫌いな性格。それが年を取るごとに激しさを増す。以前、会社の同僚に話すと「奥さん幾つ?」「50」すると友人は「更年期障害じゃないか?」しれっと言った。
更年期障害になるとまずホットラッシュが起こり、頭痛、不安、イライラ感、抑うつ感などの症状に見舞われ、果ては激しい妄想に取りつかれ、夫が会社に行くだけでヤキモチを焼く。自分も何か世間が驚かせる様な事をやらなければと焦り始めるそうだ。
クルージング3日目はサンフランシスコに寄港した。「ぴあ39に行ってランチにしようか?」ユウキが言うと「そうね、あたしクラムチャウダーが食べたい」リサがめずらしく笑顔を見せた。「俺はカニをたらふく食べるぞ」ユウキも腹を突き出しふざけて見せた。
昨日はカタリナ島に行ったがリサは終日ブスリとしていた。何が気に食わないのか解っているようで解っていない夫は、面白くない。
ピアに行きシーフードレストランに入り、ユウキが蒸した蟹を注文するとリサが「やっぱり私も蟹にするわ」ときた。彼は嫌な予感がしたが、まずは運ばれてきた蟹をむさぼる。リサを見ると彼女はカニのさばき方が分からず四苦八苦していた。
「ねえ、これどうやるの」と無惨な半処理のカニをユウキの目の前に突き出す。しかたなく手伝うとその間にユウキのカニはすっかりさめてしまった。
「アシカを見に行こうか?」食後ユウキが言った。「アシカ?」「この先に板の上に満載のアシカを見るとこがあるんだよ。アシカが芸をするそうなんだ。行って見ようか」無言でいたリサが激しく片手を振った。
「ダメダメ、あたしアシカとかアザラシとか、あんなぬめぬめした哺乳類なんて気持ち悪くてダメ」と言った所で「そうか、ダメか」とテーブルにバンと両手をつき彼は立ち上がり店を出て行った。
ユウキは何事も我慢強い性格だが、一度爆発すると【ナマケモノ】になってしまう。不気味な笑みを浮かべ一生を木の上で過ごすあの【ナマケモノ】である。表情を変えず緩慢な動作で人を煙に巻くあの【ナマケモノ】この殻を被ると彼は顔まで【ナマケモノ】似てくる。
リサがレストランの精算をすませクルーザーに向かうと、ユウキが桟橋の手すりに寄りかかり見知らぬ女と話している。白人の女だ。女性は後姿だけしか見えないので、リサはピアの反対側を歩きながらチラリと女を見た。美人だ。二人はマスクを外していた。
ユウキはある外資系のコンサルティング企業に勤務し、リサが来る前の5年を単身赴任で過ごした。だから英語はかなり流暢、そこで身に着けた社交術で近頃はとみにスマートな身のこなしをする。彼は背も高くイケメンの部類に入る。それがまたリサは気に食わない。
彼女はふてくされてバーで一杯やるとカジノに向った。カジノと言えばスロットマシーン、これしか知らない彼女は20ドル札をコインに変えレバーを引き始めた。が、最初の20ドルはあっという間になくなった。
その後もむきになりレバーを引きまくる。景気を付けるためにそばに来たミニスカートのウエイトレスにビールを頼む。カクテルを頼む。またビールを頼む。やがて彼女は自分が朦朧として来た事に気づき、すんでのところで自室に戻った。
部屋に戻るとバルコニーに続くドアが半開きになり、白い麻のカーテンが大きく翻っている。「おや、この構図は?どこかで見た事がある」とリサは即座に思った。いつか見たテレビドラマのシーンだ。
クルージング旅行に来た新婚夫婦のミステリードラマ。突風が吹きまくる暗い夜の海に、誤ってバルコニーから落ちた夫を遺産相続のために見殺しにする冷酷な妻、バルコニーの手すりに両手をかけ夫を見下ろす。
「助けてくれー!俺は泳げないんだー」手足をばたつかせもがき、浮き沈みを繰り返す夫の必死の形相を、女は歯牙にもかけず冷酷な笑みを浮かべ見つめている。
その女とそっくりの表情をリサはたった今自分の顔に貼り付けている。バルコニーの下には黒い海に吞み込まれたユウキが助けを求めている。リサはゆっくりと振り向き船室を眺めまわした。そこにユウキの姿はなかった。
その夜から二人は口を聞かなくなった。常に別々の行動を取り夜はベッドの右、左に出来るだけ離れて背中を向け合い寝る。残りの寄港地には下船せず、いや下船したのかしないのか相手の事は分からない、口を聞かないし別行動を取るのだから。
だがこれが功を奏してか、二人はそれぞれ自由に豪華客船の旅を満喫した。リサは心ゆくまでジャクジに浸かり、すっかりご無沙汰しているボーリングを楽しみ、ユウキはコンピュータルームに入りびたり。彼は【ナマケモノ】の殻をつけたままリサを横目で見て、リサはリサでユウキはすでに死んだ者とみなしている。
帰途につき豪華客船の旅と言う重荷を肩から下ろした二人、ユウキはオンライン勤務に戻りたまにはオフィスにも出かけ、リサは持ち前の几帳面さでばっちり家事をこなす。時々起こすヒステリーは可愛い娘が潤滑油となり、彼らはまたもとの幸せな、いや馴染みの暮らしに戻った。