朝の香りにふと目覚める。上半身を起こし窓の外を見る。するとそこには一面の麦畑が広がっていた。えんえんと続く黄金色の麦畑。そこに一本瘦せ枯れた柿の木が立っている。葉の落ちた黒い木に、真っ赤に熟した柿が6個ぶら下がり、木のてっぺんにカラスが一匹止まっている。
とても懐かしい風景だ。ずっと昔に見たような既視感のある景色。デジャヴだ。私はベッドを出て窓辺に寄った。
ドアをノックする音がして振り向くと、白髪を奇麗に結った老婦人が入って来た。「よく眠れましたか?」と聞く。私は初めて自分がゆうべ他人のベッドに寝た事を知った。彼女は言った。「あなたは昨夜、公園のブランコに一人で座っていたのよ。あそこは昔殺人事件があって、切り刻んだ死体を池のあちこちに捨てたと言うあぶない場所でね」
彼女は顔をしかめて「そんな場所にあなたを一人にしておくのは心配で。あなたはこの辺の人ではないと思ったので、主人と二人でうちへ連れて来たのよ」
私は礼を言い「それにしてもこの麦畑は壮大ですね、金色の穂先が垂れて見事な景色です」私は言った。「麦畑?」夫人は怪訝そうな顔をして、「そこは駐車場ですよ。最近できたばかりの」私はぼんやりと彼女の顔を見た。
ホテルに戻ると夫は思った通りの姿をして私を迎えた。ベッドに座って窓を向き、不機嫌な背中を見せている。そのままの姿勢で押し殺したような声を出した。
「君はどれだけ僕を心配させれば気がすむんだ。日本の秋が見たいと言うからアメリカからわざわざやって来たのに、君は一人であちこちうろついて。もう見ず知らずの他人から、『奥さんを預かっています』と言われるのは金輪際いやだ、それがどれ程屈辱的な事か君は分かっているのか!」
「だから私は記憶を取り戻そうと、、、」「記憶を取り戻そうと日本のあちこちをほっつきまわるのか⁉」「私の記憶喪失は、セラピーで受けた電気ショック療法が原因だと言うのは,あのお医者様の誤診で、息子を亡くしたトラウマで記憶を失くしたと私は思っているの」夫が激しく話を遮った。
「またそれだ‼トラウマを治すために日本で過ごせばそれが精神療法になり、記憶が戻るかも知れない、君はそう言う。だから僕は何度も日本に君を連れて来る。君が何度もせがむから‼」
だが君はここに来ればただ一人で外をほっつきまわるだけだ、それが治療になるのか」「でもとても心が安らぐの」何度も繰り返した不毛の会話がまた始まる。「ばかばかしい!」彼がプイと横を向く。
あの日激寒の早朝、夫は嫌がる息子をサーフィンのレッスンと称して海に投げ込んだ。サーフィンが7才の息子ダレルの人間形成に最適だと思い込んだ夫は、彼に執拗に練習を強要した。ダレルが嫌がっているにも関わらずにだ。
「無理に押し付けたらますます嫌いになるわよ、事故でも起きたらどうするの」「大丈夫、俺がそばにいるから」夫は聞く耳を持たなかった。だがダレルは嫌いになる必要などなかったのだ。
大波が押し寄せて震えるダレルが波に乗ろうとボードの上で身構えた時、彼はそのまま波にのまれてしまった。夫は彼を助けようとすぐさま自分のボードを投げ出し海に飛び込んだ。だが海中で彼を抱く事はできなかった。遺体を探すための救出は3日かかった。
それから数ヶ月して私は記憶をなくした。事故以前の事が何も思い出せない。いや、事故の数日前後の事はかろうじて覚えている。
ただ一つ覚えている強烈なシーンは大波にのまれる直前に、砂浜に座っていた私を直視したダレルの恐怖にゆがんだ顔だ。
彼は笑っているようにも見え私は手を振った。それが彼の顔を見た最後の最後の瞬間だった。その顔が頭から離れない。彼はすぐにやって来る死を感知して、私に助けを求めたのだろうか、あるいはさよならが言いたかったのか。
その事は夫にも話したのだが、彼はもはや聞こうともしない。
ある日夫が言った事がある。「記憶喪失の女を抱くと言うのは、実にやりきれないものだ。物の分からない幼い少女を愛しているような、不思議な気持ちになる。とても非現実的だ」
私は時々白人の筈である夫が、いつのまにか日本人にすり替わっていると思う事がある。ベッドの中に関しての事なら、彼と私は二人あお向けに並び、古い筏にはりつけられ海をさまよう漂流者のようだ。あるいは犯罪者。
家庭の中に一人記憶喪失者がいると、家族は茫漠とした暗い落とし穴の中で暮らす事になる。乾きながらもがきながら生きる事になる。2,3人のお医者に診てもらったが、ある医者は『あなたの記憶喪失は一生治らないかも知れない』と言った。私と夫はこの暗い穴の中から死ぬまで這い上がれないのか。
ある時パッとひらめく閃光のように断片的に記憶がよみがえる事がある。例えば幼い頃に見た田園風景だ。両親が離婚した後、母の姉夫婦に引き取られた私は、そこで多くの人の出入りや四季のひなびた田舎の風景を目にした。それらの思い出はまるでアルバムを開くように、鮮明によみがえる。
子供のいない伯母夫婦はとても私を可愛がってくれた。だから思い出も楽しく幸せなものばかりだ。だが今はこの思い出が私を苦しめる。私は死ぬまで過去と暮らして行かなければならない。
「少し外に出て見ようか?」何事もなかったように夫が、化粧台の前に座っていた私を振り向いた。ホテルの部屋から外を見ると、そこにはまぎれもない現実風景が広がっている。プールのざわめきも賑やかだ。フラッシュバックした現実に肩をたたかれ私は「そうね」と答える。
エレベーターに乗り地上に降りて行く。夫が私の背に手を添える。それからいつものように私の髪にそっとキスをする。プール脇の野外バーに座り私の好きなカクテルを注文する。私は目を閉じ、これから始まる死ぬ程退屈な現実に身を任せる。
朝の香りにふと目覚める。上半身を起こし窓の外を見る。するとそこには一面の麦畑が広がっていた。えんえんと続く黄金色の麦畑。そこに一本瘦せ枯れた柿の木が立っている。葉の落ちた黒い木に、真っ赤に熟した柿が6個ぶら下がり、木のてっぺんにカラスが一匹止まっている。
とても懐かしい風景だ。ずっと昔に見たような既視感のある景色。デジャヴだ。私はベッドを出て窓辺に寄った。
ドアをノックする音がして振り向くと、白髪を奇麗に結った老婦人が入って来た。「よく眠れましたか?」と聞く。私は初めて自分がゆうべ他人のベッドに寝た事を知った。彼女は言った。「あなたは昨夜、公園のブランコに一人で座っていたのよ。あそこは昔殺人事件があって、切り刻んだ死体を池のあちこちに捨てたと言うあぶない場所でね」
彼女は顔をしかめて「そんな場所にあなたを一人にしておくのは心配で。あなたはこの辺の人ではないと思ったので、主人と二人でうちへ連れて来たのよ」
私は礼を言い「それにしてもこの麦畑は壮大ですね、金色の穂先が垂れて見事な景色です」私は言った。「麦畑?」夫人は怪訝そうな顔をして、「そこは駐車場ですよ。最近できたばかりの」私はぼんやりと彼女の顔を見た。
ホテルに戻ると夫は思った通りの姿をして私を迎えた。ベッドに座って窓を向き、不機嫌な背中を見せている。そのままの姿勢で押し殺したような声を出した。
「君はどれだけ僕を心配させれば気がすむんだ。日本の秋が見たいと言うからアメリカからわざわざやって来たのに、君は一人であちこちうろついて。もう見ず知らずの他人から、『奥さんを預かっています』と言われるのは金輪際いやだ、それがどれ程屈辱的な事か君は分かっているのか!」
「だから私は記憶を取り戻そうと、、、」「記憶を取り戻そうと日本のあちこちをほっつきまわるのか⁉」「私の記憶喪失は、セラピーで受けた電気ショック療法が原因だと言うのは,あのお医者様の誤診で、息子を亡くしたトラウマで記憶を失くしたと私は思っているの」夫が激しく話を遮った。
「またそれだ‼トラウマを治すために日本で過ごせばそれが精神療法になり、記憶が戻るかも知れない、君はそう言う。だから僕は何度も日本に君を連れて来る。君が何度もせがむから‼」
だが君はここに来ればただ一人で外をほっつきまわるだけだ、それが治療になるのか」「でもとても心が安らぐの」何度も繰り返した不毛の会話がまた始まる。「ばかばかしい!」彼がプイと横を向く。
あの日激寒の早朝、夫は嫌がる息子をサーフィンのレッスンと称して海に投げ込んだ。サーフィンが7才の息子ダレルの人間形成に最適だと思い込んだ夫は、彼に執拗に練習を強要した。ダレルが嫌がっているにも関わらずにだ。
「無理に押し付けたらますます嫌いになるわよ、事故でも起きたらどうするの」「大丈夫、俺がそばにいるから」夫は聞く耳を持たなかった。だがダレルは嫌いになる必要などなかったのだ。
大波が押し寄せて震えるダレルが波に乗ろうとボードの上で身構えた時、彼はそのまま波にのまれてしまった。夫は彼を助けようとすぐさま自分のボードを投げ出し海に飛び込んだ。だが海中で彼を抱く事はできなかった。遺体を探すための救出は3日かかった。
それから数ヶ月して私は記憶をなくした。事故以前の事が何も思い出せない。いや、事故の数日前後の事はかろうじて覚えている。
ただ一つ覚えている強烈なシーンは大波にのまれる直前に、砂浜に座っていた私を直視したダレルの恐怖にゆがんだ顔だ。
彼は笑っているようにも見え私は手を振った。それが彼の顔を見た最後の最後の瞬間だった。その顔が頭から離れない。彼はすぐにやって来る死を感知して、私に助けを求めたのだろうか、あるいはさよならが言いたかったのか。
その事は夫にも話したのだが、彼はもはや聞こうともしない。
ある日夫が言った事がある。「記憶喪失の女を抱くと言うのは、実にやりきれないものだ。物の分からない幼い少女を愛しているような、不思議な気持ちになる。とても非現実的だ」
私は時々白人の筈である夫が、いつのまにか日本人にすり替わっていると思う事がある。ベッドの中に関しての事なら、彼と私は二人あお向けに並び、古い筏にはりつけられ海をさまよう漂流者のようだ。あるいは犯罪者。
家庭の中に一人記憶喪失者がいると、家族は茫漠とした暗い落とし穴の中で暮らす事になる。乾きながらもがきながら生きる事になる。2,3人のお医者に診てもらったが、ある医者は『あなたの記憶喪失は一生治らないかも知れない』と言った。私と夫はこの暗い穴の中から死ぬまで這い上がれないのか。
ある時パッとひらめく閃光のように断片的に記憶がよみがえる事がある。例えば幼い頃に見た田園風景だ。両親が離婚した後、母の姉夫婦に引き取られた私は、そこで多くの人の出入りや四季のひなびた田舎の風景を目にした。それらの思い出はまるでアルバムを開くように、鮮明によみがえる。
子供のいない伯母夫婦はとても私を可愛がってくれた。だから思い出も楽しく幸せなものばかりだ。だが今はこの思い出が私を苦しめる。私は死ぬまで過去と暮らして行かなければならない。
「少し外に出て見ようか?」何事もなかったように夫が、化粧台の前に座っていた私を振り向いた。ホテルの部屋から外を見ると、そこにはまぎれもない現実風景が広がっている。プールのざわめきも賑やかだ。フラッシュバックした現実に肩をたたかれ私は「そうね」と答える。
エレベーターに乗り地上に降りて行く。夫が私の背に手を添える。それからいつものように私の髪にそっとキスをする。プール脇の野外バーに座り私の好きなカクテルを注文する。私は目を閉じ、これから始まる死ぬ程退屈な現実に身を任せる。