ある住宅街の歩道を歩いていたら一本の大きなユーカリの木が目についた。ふと木の根元を見ると小さなドアのようなものがある。
画用紙で作った古い逆さU字のドアで茶色く塗られ、黒い鍵穴もある。何となく童話の挿絵に出てくるような可愛いドア、その上に青い小さな窓が二つ、セロテープで貼ってある。ドアのそばに本物の小さなレモンが添えてあった。
数日して同じ家の前を通ると、木の根元の小さなドアはそのままで、その後ろのポーチの本物のドアの前で、白髪の老婦人が椅子に座ってこちらを見ていた。優しく笑みを浮かべていたので、そばへ寄り話しかけて見た。
「あの木の根元の画用紙のドアと窓、とても可愛いですね」と言うと、彼女は急に暗い顔になり「あれは私の孫が作ったの、オリビアがね、でも彼女はもう死んでしまったの」とふいと横を向いた。
「死んでしまった?どうして?」思わず聞いた。「トラックに轢かれて死んだの。オリビアはあの日向かいの家に遊びに行って、家から外に出て来たから“オリビアー”って大声で呼んだら私に向って走って来たのよ、そしたら向こうから来たトラックに」と道路の右側を指さし涙声になった。
気まずくなり立ち去ろうとすると、「彼女はね童話を読むのが好きで特に『不思議の国のアリス』は良く読んでいた」と話し始めた。「オリビアは空想癖の強い子でね、とても頭の良い子だった」
「木の根のドアを指さして、“グランマ、このドアを開けてはダメよ、これは『不思議の国のアリス』のウサギ穴なの。ドアを開けたら穴に落ちてしまう”って言うのよ」婦人は愛らしい孫の事を思い出したのか涙を流し始めた。
『不思議の国のアリス』など読んだ事もなかった。だが老婦人の話は、オリビアと言う少女の人物像を鮮明に浮き彫りにし興味を持った。その晩『不思議の国のアリス』をネット検索し物語の全文を読んだ。ウサギ穴の意味が知りたかったのだ。
それから一週間程して同じ家の前を通ると、今度は恰幅の良い老紳士がポーチの椅子に座っている。私に向って手を上げた。そばに寄り「奥様はお元気ですか?」と聞く。
「ああ、たぶんあなたの事だ。この前言ってましたよ、通りがかりの人と話をしたって」と言う。「奥様は素敵な方ですね」「見かけだけはね、妻はひどい認知症で実は困っているんです」
「お孫さんが事故で亡くなられたとか、、、」と言うと彼は頭を振り振り「またそんなありもしない事を」とため息をついた。「孫なんかもともといません、死んだのは向かいの家の子供です」とすぐ前の家を指さした。
「もう、現実と空想がごっちゃになっているんです、孫なんかいないし、あの漫画見たいなドアを作ったのも妻なんです」とユーカリの根元を指さした。「そんなふうには全然見えませんでしたが」と言うと彼は頭を抱えうつむいてしまった。「だから困っているんです」と顔を上げ私を見た。
「認知症なのは主人の方ですよ」一週間後同じ場所で婦人が私に言った。「それに糖尿病を併発して、お医者様に運動するように言われてるのにビールばっかり飲んで、もう老い先短いのに」彼女は出来の悪い子供の愚痴を言うように顔をしかめた。
散歩は私の大好物だ。空を見たり木々を見たりして歩くと、気持ちがウキウキしてくる。だが同じ道をいつも歩きはしない。飽きて来るからだ。だがこの老夫婦の家の前はついつい歩いてしまう。
家の前のユーカリの枝には向かいの子供のために作ったと言う、ご主人の手製のブランコが下がり私はそれにも優しさを感じた。
彼等は非常に親しみ深かった。ポーチにはいつも婦人か主人のどちらかがいて、歩く私に手を振ったり近寄ったりした。長年の友人をもてなす感じで私と話をしたがった。だが彼らが話す事と言えばパートナーの悪口ばかりだ。
それでも嫌な気がしなかったのは、彼らが持つ上品でエレガントな雰囲気が好きだったから。それも二人が黙っていればの話だが。
パートナーを蔑む彼らの口調は次第にエスカレートして行った。夫が「妻は少女趣味で大人になり切れず」と言えば、妻は「主人はろくな仕事も持たず私の稼ぎで生活して来た」と言う。
「実はね、主人には別の家庭があるの、子供もいて奥さんもいるんだけど、奥さんには他の旦那さんがいるから、しかたなくここにいるのよ」ある日婦人が声をひそめて語った。「私が知らないとでも思って、死ぬ前に必ずばらして赤恥かかせてやるわ」と言うその顔は、いつかテレビで見たシンデレラの継母の怒り顔にそっくりだった。
「妻に生命保険をかけているんだ」と彼女の夫が言う。「1億ドルのね、殺すのも面倒だから何とか事故で死ねば良いと思っている。こっちにとばっちりが来たらもともこもないからね。だがいつまでも死なないならその時は!」と立ち上がり、ユーカリの枝にかかったブランコを思い切り引っ張り宙に放った。
誰かが両手を私の頭の中に差し込み、脳みそを掻きだすような異様な感触があった。私の体は天井を向いたまま、頭からベッドにずるずると埋もれて行く。そこは暗い穴で、私は羽の様に上下左右に宙を舞いながら奈落の底に落ちて行った。
翌朝、昨夜の悪夢からまだ覚めやらず外に出ると、おびただしい蝶の大群が宙を舞っていた。ある蝶達は木の幹に止まりそこだけ蝶の羽で埋めつくされている。蝶の大きさはまちまちで色はオレンジ色、羽のまわりが黒いまだらになっている。何となく不安な色だ。
これはいつか人づてに聞いたオオカバマダラと言う渡り蝶だとすぐに分かった。だが数年前にある豪雨のためほとんど死滅したのだ。そして今この時、忘れていた幻の蝶の大群襲来。私は妙な胸騒ぎを感じた。
走るようにしてあの老夫婦の家に急いだ。すると彼らの庭にも蝶の大群が飛び交っていた、ユーカリの枝にも幹にもびっしりと止まっている。その中でポーチの椅子に座っている老夫婦は、笑いながら幸せそうにビールを飲んでいた。声を上げ笑っている。
ユーカリのブランコに乗った少女もまた、笑いながら空高くブランコを漕いでいた。彼女は何となく妖精のような顔をしていた。