「一杯やろうか」と言うダニエルの言葉は地獄に仏の響きだった。家を出てから2時間、エンドレスの夫婦喧嘩を止めるものはこれしかない。
淀んだような湖のそば、VACANCYのサインが点滅しているモーテルの前に駐車し、バーに入って行く。誰もいない。ガランとした店内のバーバック、酒瓶のラベルがすべて違う方向に向いている。
「ハローハロー!」ヒステリックな声を上げるダニエル、やさぐれた痩せた男が奥から出て来た。何度も前髪をかきあげゆっくりとバーカウンターの前に立つ。ビールを注文しナオミがパースから煙草を取り出し口にくわえると、男がライターをつけた。
人から火をつけられるのは嫌なので彼女は片手を振った。おいしそうに煙を吐くと彼が「ほんとは禁煙だけど他に客もいないから今日はいいですよ」ともったいぶって言う。
「煙草はやめたんじゃないのか?」ダニエルが言った。煙草をやめると言う約束で結婚したのだが、とてもやってられないのだ。結婚してまだ半年、すでに離婚の2文字が悪魔のささやきのようにナオミの耳をくすぐる。
首をねじって店内を見回していたナオミは、ふとどこかで見た構図だと思った。人気のないバー、酒棚のライトアップ、どこか深海的な雰囲気、クリーピーなバーテンダー、そうだシャイニングのシーンだ。だがあのバーテンダーは、黒服に蝶ネクタイの慇懃無礼な初老の男だった。クリーピーと言う意味では引けを取らないが。
ナオミが二本目の煙草に火をつけると「やめろ!」ダニエルがそれをもぎとりへし折り灰皿に投げ捨て、ビールをかけた。ナオミの平手打ちが彼の右ほほに飛んだ。
彼女は立ち上がり「私はね、あなたのそう言うところが大嫌いなの!静かなる男の振りしてあっという間にモンスターに豹変する!腰抜け!ふぬけ!臆病者!」思いきり罵倒すると彼女は、トイレに駆け込みこぶしで壁を叩きこみ上げる嗚咽をそのこぶしで押さえた。
二本目のビールをダニエルの前に置いたバーテンダーが「あなたを見てると昔の俺を見るようだ」と言った。「俺も昔はヘビースモーカーで、ワイフと喧嘩ばかりして二人とも神経をすり減らしていました」ダニエルが上目づかいに男を見て「君も飲めよ」と言う風に目の前のビールを指さした。
「ある時ホテルの屋上で飲んでたら、あいつが“こんな風にあんたと死ぬまで暮らすなんて嫌で嫌でしょうがない”と言うんです。“じゃ死ねばいいじゃないか”と言ったらほんとに柵から飛び降りようとしたんです。屋上を取り囲んだガラスの柵はそれ程高くない、飛び降りようと思えば出来る、俺はあわてました。下らない売り言葉に買い言葉でワイフが自殺しようとしている、必死で止めました」
「それでどうなった?」ダニエルがビールを一飲みして聞いた。「何とか一命を取り止めました。それから夫婦仲が一気に良くなりましたよ。あいつが言うんです、あんたがほんとは私を愛している事が分かったって」
トイレから出るとナオミはすぐ横にある非常ドアに気づき手を掛けたが、夫から逃げ出したければ何も非常ドアから出なくとも、表ドアから堂々と去ればいいと思いなおしバーに戻ろうとした。その時バーテンダーの声が聞こえた。
「夫婦喧嘩を頻繁にするカップルは、似た者同士が多いんですよ。だから相手の心理が自分のそれのように解る、それでイラつく、自分の弱みを見せられたようにね」「穿ったことを言うね、もとは心理学者か精神科医?」夫が言うのが聞こえる。
ナオミがカウンターに戻ると「さっきは悪かったな」苦笑いでダニエルが詫びた。「いいのよ、私も煙草は止めなきゃいけないんだから」自分でも不思議なくらいの素直な言葉が口から出た。バーテンダーが話を続ける。
「それから半年程してワイフが思い付きで宝くじを買ったんですよ。何とこれが5000万ドルの大当たり!」どうだ驚いたかと言う風に、バーテンダーが残ったビールを飲み干した。ナオミとダニエルの顔が一瞬こわばった。
「昔はここも湖がきれいでボートを漕ぐ客なんかがいたんです」バーテンダーが窓の外を見ながら言った。「だがコロナのおかげで湖まで濁ってしまった。いつまで続くか分かりもしないパンデミックで客なんて戻って来やしない、それでハワイに家を買いました」
「ハワイ?」ダニエルがとんまな声を出した。「このモーテルも売りに出し三か月もすれば引っ越しです」二人の前にビールを一本ずつ置きながら彼が続けた。
「言っときますが離婚なんて考えたらダメですよ、ねばるんですよ、ケンカをしながらね、そうすればいつか憎しみも消えます。二人にほんとの縁があれば別れたくても神がそうさせないんです」
「もう行こうか」ダニエルが小声で言うとナオミがうなずいた。財布を出すと「おごりです」とバーテンダーが言った。出口の方に歩き出した二人の背中に彼がもう一度声をかけた。「実は東部の妻の実家からカニを沢山送って来たんですよ、妻は今ハワイだし一人じゃ食べきれない、どうです後でもう一度来ませんか、三人でパーティやらかしましょう」
すっかり気が萎え車に戻った二人は互いの頭の中で“もう一度戻ってもいいな”と考えていた。だが口にはしなかった。