全盛期をとっくに過ぎた家具屋

全盛期をとっくに過ぎた家具屋、家電製品店等が並ぶ薄汚い軒先を通り抜け、ふっと小道にそれると右手に、白地に赤で“札幌ラーメン”と書かれた縦2メートル長のぼり旗がひるがえっていた。こんな大きな旗、しかもラーメン屋の旗は近頃あまり見かけない。日本の田舎の国道ぞいにたまにあるくらいだ。

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それがこんなアメリカの郊外の路地裏にあるなんて。だが店そのものはだいぶ老朽化し、正面玄関の格子戸、瓦葺きに似せた屋根もやたら古臭い。ルミは奇妙な郷愁にかられ中に入った。すると店内は、歴代のラーメン臭がしみ込んだ軽いこげ茶色で、『汚いラーメン屋はうまいラーメンを食わせる』と言うあの金言を彷彿とさせた。

入り口から見て右手の窓際の席、その最後席に座ると「いらしゃいませ」中年の固太りの女性が、少し訛りのある日本語で汚いメニュー本をポンとテーブルに置いた。

しばらく窓外に目をやっていると「何する?」とすぐに奥から先ほどの女性が出て来た。「長崎ちゃんぽん」と言うと「ラーメンよりちゃんぽん好きか?」と思わぬ事を聞き返す。ルナにすれば「ラーメン屋なのになぜちゃんぽんあるか?」と聞きたいところだ。

メニューを見ずに料理の名が言えたのは実は右側の壁の上に、短冊形のお品書きが大量にぺたぺたと貼ってあるからだ。その中で「長崎ちゃんぽん」は、ひと際大きな赤い短冊に白文字で書かれしかも「店長おすすめ」と但し書きがしてある。これはまずもって食しなければと頼んだ。

出て来たちゃんぽんは期待どおりの物だった。いつか長崎の人気店で食べたあの忘れがたき一品に勝るとも劣らない。薄いタンメン風のスープに程よく茹でた麺が広がり、その上に豚肉、小エビ、キャベツ、もやし、かまぼこ、きぬさや、きくらげなどの具材がこんもりと盛られ、そのてっぺんにとどめのうずらのゆで卵。食感もかなり良く、残ったスープを持ち帰りたいと思った程だった。

それからルミはその店に行くのが一つの心の糧となり足しげく通った。常に同じ席に陣取り窓外を眺める。少し離れた斜め前に、壁から屋根に赤いブーゲンビリアがはびこるイタリヤ料理店がある事も、その屋根に時々黒猫が惰眠をむさぼる事も今では熟知した。食べる料理はいつも長崎ちゃんぽん。

だがいつ行っても客はルミ一人だ。壁の短冊形のお品書きにはそれこそあとは野となれ山となれ風の膨大な数の献立が、出番はいつかと待っている。フカヒレスープ、北京ダックちまきももちろんある。はて?具材はどこで調達するかと首をかしげる程のレアなメニューもある。ある日の事、ルミは非常に下品で愛想のないこの店の女性と話したくなった。

「私以外のお客さんはあまり来ないんですか?」この単刀直入の問いがいたく女性を傷つけた。だが乗りかけた船だ「もう少しお客に愛想良くしたら客足も増えるはずですよ」と店を助けるつもりで言った。実はいつかちらりと見た気弱げな店主に、ルミは深い同情を寄せていた。

この下品な女が店主の女房で、小心の彼は尻に敷かれ粗い気質の女房に文句の一つも言えないのだろう。客に対する礼節の助言を聞かない女は、その無作法で来る客来る客追っ払っているのだと想像していた。意見をして女をじっと凝視していると、彼女はムッとして奥へ引っ込んだ。

所在無げに窓外に目を向け、イタリア料理店の屋根に寝そべる黒猫をルミはぼんやり見ていた。赤いブーゲンビリアが午後の日にひときわ輝き、昼寝をやめて猫もどこかへ消えた。

待てど暮らせど「ちゃんぽん」が来ない。頼んでからもう三十分は経っている。ようやく来たちゃんぽんは生気と精彩に欠けスープの生ぬるさは腹立たしい程だった。ルミは半分以上残し、すぐに会計を頼み20ドル札をテーブルに置いた。女が無表情でその札にバサリと4本指をのせ奪い去って行く。

やがて2ドルが同じ個所にばさりと置かれた。「あのーおつりが足りないのですが」ちゃんぽんは8ドルだからおつりは12ドルのはずだ。「あっそう。じゃレジのお金、調べてみるね」女は心得顔でレジスターに直行し、売上金の入った引き出しをルミの前のテーブルに置き、伝票を見ながら金を勘定しはじめた。

勘定を終えた彼女はきっぱりと「まちがいないよ」と言い引き出しをまたもとに戻した。そして表ドアの前に腕組みして外の景色など眺め始めた。レジの金と伝票の金額がぴったり合うので間違いないと言うのだ。納得のいく話ではないが金銭的な言い争いは見苦しい。気も萎えたルミはそのまま店を出た。次第に店への足も遠のいた。

だが金がかたきの世の中、たとえ10ドルでも恨みは残る。忘れようと思ってもつい足がその方角に向かう。「札幌ラーメン」ののぼり旗の前にいつか来ていた。

格子戸が開いてる。中に入ると椅子もテーブルも引き払いがらんとして、あの店主がランニングシャツにジーンズと言う格好で若いメキシコ人と床掃除をしていた。ルミを覚えていたらしく「いらっしゃいませ」と丁寧に言った。黙っていると「実は他の物件が見つかりましてね、引っ越すんですよ」「奥様は?今日は見えないんですね」

「奥様?ああ、あれは僕の奥さんの妹です、北海道に帰りました。妻が大腸ガンで入院してるので手伝いに来てたんです。ほんとに良くやってくれました」ルミが帰ろうとすると店主が引き止めた。「今ね、お客さんたちの名前と住所のリストを作っているんです。新開店したら初日に無料サービスをしようと思いましてね」出されたノートブックには2百人以上の客のリストがあった。

店を出たルミはもう一度「札幌ラーメン」ののぼり旗を見上げた。人は見かけによらない、よけいなお世話はやめよと言う事か。

招待状は来なかった。

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