ドラッグストアから出て来たノアは空を見上げた。疫病が蔓延しているこの街の空は、どんより曇っている。買ったばかりの錠剤を右手で握りしめ彼は自嘲げに顔をゆがめた。
何の変哲もない風邪薬がコロナウイルスに効くと報道された途端、飛ぶように売れ始めた。どこの薬局の陳列棚からもあっという間に消えた。彼もそのにわかファディズムに便乗したと言う訳だ。
横断歩道を渡り歩道を歩き始めた彼は、ふと反対側の歩道を歩く若い女に気づいた。女は腰から下がフレアになっている時代遅れの黄色いミニワンピースを着ていた。そして揺れるように跳ねるように踊りながら移動する。その度にフレアがふわふわと揺れ、まるで大きな黄色い蝶が数匹、彼女の腰のまわりを飛び跳ねているように見える。彼は思わず見とれてしまった。
女の顔は良く見えない。歩道のわきのビルはどれも閉まっていて、黒いガラスで覆われた室内は真っ暗だ。そのガラスに映る自分の姿を時々チラ見しながら女は楽しそうだ。外出禁止令が出ているので街には人影もなく行きかう車の数も微々たるもの。まるで砂漠のような街を黄色い蝶は嬉し気に飛び回っている。
やがて彼女はKFCの店の前まで行くとクルリとUターンして歩道に戻り、すぐ隣の金網で囲った古いアボカド畑の中に飛び込んで行った。突如として消えた蝶の存在にノアはパチパチと数回まばたきをした。
アパートに帰ると部屋は異様な散りかりようで、おまけに汚いベッドの上にはひねりつぶした油絵の具や絵筆、パレット、溶き油のビンなどが散乱している。描きかけのカンバスを掛けたイーゼルがベッドのそばにある。油絵を描くのは彼の趣味だが、趣味の域を出れない自分の実力に彼はジレンマを感じている訳ではない。
週二日のピアノ出張レッスン、三日のガソリンスタンドのキャッシャー、掛け持ちのこの二つの仕事をコロナ騒ぎで解雇された彼は、大家に来月の部屋代が払えない事を昨日告げた。「ま、いいさ、三か月は待ってやる」大家はフンと鼻で笑った。夢想家で情緒不安定なノアの性格を知り抜いている彼は、いつまでたっても中途半端なこの若い甥に愛想をつかしていた。
さっき見た黄色いドレスの女を描こうと、新しい画布を掛けたイーゼルのそばにしばらく立っていたノアは、急に気分が悪くなった。得体の知れない悪寒に襲われ震えが来た。ソファに腰かけ両腕を胸の前で交差し暖を取るような恰好をしたがやがて、高熱に犯されている事に気づいた。買って来た錠剤を慌てて二粒ほど口に入れ、そのままソファに倒れ込み眠りに落ちた。
明け方、空がむらさき色に変わる頃ノアは目が覚めた。気分はすっかり良くなり嘘のように熱が下がっていた。体を起こしソファに腰かけ両手で顔を数回さすった。見ると珍しくイーゼルに白い布がかかっている。はずすとそこには、灰色の空間に三匹の大きな黄色い蝶が乱舞する姿が描かれている。「誰が描いたのだろう?」ノアは不思議に思った。
