これはコロナウイルス パンデミック以前の話である。

これはコロナウイルス パンデミック以前の話である、

「ハニー、これな~に~?」女があまったるい声を出した。見ると、中が空洞の四角いコンクリート製の箱のような物が、地面に転がっている。転がっていると言う描写がぴたりと当てはまる、それは見捨てられた武骨な物体だった。箱の一面が縦長の古い鉄柵でおおわれ、その黒ずんだ赤さび色は、どろどろとした人間の古い血のようだ。

「これは200年前のアメリカの刑務所だよ、昔はこういうものが町のあちこちに転がっていたんだ」右手に絡めた女の腕を邪険に振りほどき男が言った。「刑務所?」「そうだよ、お前みたいな女を入れて置く汚い箱だよ」と言いかけた言葉を飲み込み、男はクルリとあたりを見回した。

ghost town

寂れきった場末のうらぶれた公園と言った感じで、それでも無法地帯と言ういっぱしの雰囲気だけは漂っている。入口にあった[GHOST TOWN]と言うひなびた手書きの看板を見て、女が車を降りさっさと中へ入ったのだ。ユニバーサルスタジオを見ての帰りで、男はハイウエイの出口を間違え見知らぬ町に入り込み、そこで見つけたもう一つのアトラクションだった。

だがこれはもともとあった集落が廃墟化したものではなく、人の手に寄る幽霊村だ。それがもはや廃れ切り、料金所もなくそれらしきスタッフもいない。正真正銘、無人のゴーストタウンである。寂寥感がはんぱない。

「でもこれは人が入れるほどの大きさじゃないわ」女はまだコンクリートの箱にこだわり、両手を広げ箱の大きさを測る振りをした。なるほど箱は一辺が1メートルにも満たない。

「罪人は一度入れば座ったまま死ぬまで立てない。だから狭くてもいいんだ。しかも通りすがりの人間に唾を吐きかけられバナナの皮を投げつけられ糞尿をぶちまかれたりしながら生きて行かなきゃならなかった」男は女を侮蔑するように口から出まかせの言葉を投げつけた。

「あら、いやだ~」女が大げさな声を出し男を見上げた。その前歯の間にはさまった食物のカスを男は見逃さなかった。彼はさっさと背後のサルーンに向かって歩き出す。開拓時代の男たちが通った酒場だ。その隣に理髪店、雑貨や、銀行までが長い木製の庇の下に軒を並べている。いかにもそれらしい古色蒼然とした色と造りで、現実を逃避するには格好の場所だった、

半分外れかけてるスイングドアを押して中に入った。見上げると天井にびっしりと一ドル札が張り付いている。「わーすごいお金ー、あれ、何とか貰えないかしらね、旅行資金の足しになるわよね」キラキラと目を輝かせ本気の声で女が言ったので、男はもうこれまでとさじを投げた。

10日間の計画で来たアメリカでの新婚旅行で、いちいち露呈する女の下劣でがさつな行動に男はもうがまんがならなかった。まず一番我慢がならない事は、食い物を口に入れたまま喋る、レストランで大声で話す、出先の観光地で意味もなく奇声、悲鳴をあげる、土産と称して下らない安物を山ほど買う。旅の恥はかき捨てにもほどがあった。

1年もつきあったのにどうして見抜けなかったのだろう?猫をかぶっていたんだなと、もはやすっかり結婚する気のなくなった男は、これからどうやって離婚の話に持っていくかと思い悩み始めてもいる。明日は日本に帰る日である。

女はだが別の観点から男に業を煮やしていた。「何よ、アメリカに来る前にあれほど旅行雑誌を読み漁っていたのに、何にも分かっちゃいないじゃないの。ドライブ時に道はやたら間違えるしナビゲーションの使い方も知らない。物の順序や手続きの仕方が実にのろい。

ホテルのボーイやレストランのウエイターに、チップを払わないのにはびっくりしたわ、ドケチなんだ。ドアを開けたら私をさておきさっさと先に行く。21世紀のこの時代に、レディファーストも分かっちゃいない」

未来の夫は低能だと思い始めた女は、一時も早くこの能無しと手を切りたいと願い始めた。男に見せた蓮っ葉な行動言動はすべて演技だとまでは言わなくとも、嫌われても構わないと言う気持ちが強く働いたからだ。

ふと立ち寄ったこの奇妙なゴーストタウンを去る間際に、男と女は薄汚れたコンクリートの箱をもう一度一べつした。二人は箱に入ったそれぞれの哀れなパートナーを思い描き、ざまあみろと言った顔で車に乗った。相手に対するこんな邪険な考えも、ただ旅慣れないための疲労とストレスのせいだと彼らは気づきもしない。

さて二人は今、飛行機と言ういわば箱の中にいる。これから日本に帰るのだと何となく神妙になっている。もう互いにあら捜しはしない。傷つけ合う事もやめた。どうあがいても所詮は旅行者である。異郷の地で異邦人に囲まれその異邦人に成りすまそうとして彼らは失敗し、今はつき物が落ちたようにサッパリとした顔をしている。

飛行機が日本に近づくにつれ、時差が狭まるにつれ、なじみの世界に近くなるにつれ、彼らは幸せさえ感じ始めた。「母さんたち、空港に迎えに来てるかしらね」女が男を見て言った。「もちろんだよ」彼が座席の手すりに置いた女の手に自分の手を重ね、優しく微笑んだ。

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