じっとしているだけで汗がにじみ出る

じっとしているだけで汗がにじみ出る熱い真夏の午後だった。開け放した背後の窓からやかましいセミの声が聞こえ、それが暑さに拍車をかけていた。俺は教室の最後列の席で頭の後ろに両手を組み顔をそらせ、他の生徒を睥睨していた。

バカなやつらだ、こんな簡単な問題に四苦八苦している。たかが漢字のテストじゃないか。全問解答をすでにすませた俺は全問正解の自信に身をまかせていた。

やがて俺はふと目の隅に、後ろの窓のそばに寄りかかっている担任の姿をとらえた。40半ばでまだ結婚できない女をやっている女教師だ。

この時どういう心の動きがあったのか俺には分からない。魔がさしたとでも言うか、、、机の中からこっそりと国語のノートを取り出しぱらりとめくった。

この時背後で、女教師がわずかに体をずらすのが分かった。“さあ先生、僕はカンニングをしていますよ、そこから見えますか?”かすかに憐れみを込めて心の中で吐いた。

数日後、休み時間に友人と談笑していると、案のじょう教師が俺を呼んだ。「風間君、ちょっと」黒板の隣にある自分用のデスクに座って手招いた。待ってましたとばかりに俺は彼女のそばに近寄った。机の上にはこの前の漢字のテスト用紙が置いてあった。100点満点だった。

「このテストの時、あなたはカンニングをしたでしょ」彼女は言った。俺は何の動揺もなく教師をじっと見た。「どれとどれをしたのか言いなさい」と用紙を俺の前に指先で押しつけた。俺はすぐさま「これと、これと、これ」迷うことなく適当に三つばかりの熟語を指し示した。

すると彼女は「よろしい、正直に言ったから大目に見ます。ほんとは0点にしようと思ったけど、カンニングした漢字だけ差し引きます」教師はわずかに思いやりを込めた微笑でうなずいた。

「カンニングなんかやってません、たんにノートを広げただけです。100点は僕の実力です」ほんとの事を言っても良かったのだが、小学4年の俺には、その後の長いやりとりを思うと気が萎えた。それよりも俺が示したカンニングの漢字をあっさり信じた教師の方が不思議だった。

それでもこの小事件はその後、時々俺の歴史の中で時おり浮かび上がる事があった。まるでとぐろを巻いた蛇がふっと頭だけもたげるように、、、

Wall street sign in New York

あれから20年、俺は今ではニューヨーク証券取引所に上場する日本企業、そこに勤務するエリートサラリーマンだ。ここまで上り詰め出来たのは、もちろん俺のたゆまぬ努力と優秀な頭脳が物を言ったのだが、運の良さと言うのもあった。俺はどういう訳か人に好かれる、愛嬌を振りまく訳でもないのに、男女を問わず人から持ち上げられる、それを俺は神の采配と呼ぶ。

ウオール街で働くエリートビジネスマンには、仕立ての良い濃紺のスーツ、有名ブランドのネクタイ、清潔な短髪などで身を固め、退職後のジム通いで筋トレしスリムなボディを保ち、口角上げた口元で真っ白い歯を見せ、話す、笑うと言う常識的なマニュアルがあるそうだ。俺はそんな猿真似はしない。そんなものは生粋のアメリカ人に任せ、俺は俺の流儀でやる。つまり神の采配に任せるのだ。

俺は今マンハッタンの高級レストランで女を待っている。女はすでに30分も遅れている。「娘がどうも君を気に入って一度会いたいと言うんだ、会ってやってくれないか」数日前にやり手の上司にそう言われた。

会社の祝賀パーティで見たその女は、振るいつきたくなる程の美人ではないが、それなりに品があり目元が涼やかな物静かな女だった。上司の娘だ、会って損はない。恋愛に興味はないが俺も30半ばだそろそろ身を固めても、と思った所で女が入り口に姿を現した。

俺の目の前に座った女はパーティで見た女とは似ても似つかない不細工な女だった。一体どういう事かと目を疑ったが、つまり女はいっさい化粧をしていないのだ。ワインを勧めるといらないと頭を振る、食事にするかと聞くこれもいらないと言う。

「実は、、、」と女は言いバッグから封筒を取り出し俺の前に数枚の写真を並べた。「悪いと思ったけど、あなたの過去半年の行動を探偵に調べさせたの」俺は生唾を飲み込んだ。半年の間にホテルへ行った5人の女達と一緒の写真がまるで切り札のように並べてある。

「アジア人が3人、白人が2人、そのうち半分は人妻だそうね、つまりあなたは誰とでもベッドインできる恥知らずな男と言うのが分かったわ」俺は顔から血の気が引くのが自分でも分かった。「悪いけど二度とお会いする気はないわ」俺は顔を上げ静かに女を見た。

その顔になぜか、カンニングを咎めた20年前のあの女教師の顔がダブって見えた。あの女もこんな粘土細工のような硬い表情をしていて、だが妙に精神的な目をしていた。その目が俺を黙らせたのだ。

女は立ち上がった。そして「探偵は父には内緒でやとったの、だから心配しなくて大丈夫」捨て台詞を吐くと出口に向かってつかつかと歩き出した。

一週間後、俺は上司に呼ばれた。不思議な微笑をたたえて今、彼が俺の目の前に座っている。さあどんな神の采配が下るか。

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