その日は朝から気分がすぐれず その日は朝から気分がすぐれずベッドの中でグズグズしていた。セリオにミルクをかけた朝食を済ませ、悄然と会社へ行っただろう新婚の夫を思いやり、ベッドの中から窓の外の高いドングリの木を見ていた。夫とはこの頃うまくいかない。 午後になって散歩に出かけた。アメリカにしてはめずらしい鬱蒼とした竹林の横の細道を、もくもくと歩いた。右手に小川のせせらぎが見える。 やがて急に視界が開け一面に芝生の生えた公園が見えた。公園?いや桃源郷と言った方がいいかもしれない。どこか別世界のような雰囲気が高い木立に流れ、可愛い草花がまるで妖精のように、あちこちで飛び跳ねている。誘われ中に踏み入ると、中世期の酒場女の衣装を着た若い女が、巨大な老木の前に腰に両手をあて立っている。 「何しているの?」と聞いてみた。奇麗に化粧した顔を振り向け「今ね、この木の精にお願い事してるの」と言う。「この木は望みをかなえてくれる木なの」 それは奇妙な木で樹齢百年は超えただろう互いに入り組んだ枝のあちこちから、無数の気根が垂れ地面に達しそれがまた別の幹になっている。それらの細い幹は人体骨格模型を水飴のように縦にのばしたようで、不気味な白濁色をしている。 「何のお願い事?」と聞いた。「ブラッドリー クーパーとうまくいきますようにって」「ブラッドリー クーパー!」「今ね、ロケの合間を抜け出して来たの。ブラッドとの共演で、中世期の騎士の彼が場末の酒場に迷い込み、私に恋すると言う映画をクランクインしたばかりなの。私生活でもそうなる見たい」ペティコートでふくらませたワインレッドのドレスで、くるりと一回転して夢のような微笑を見せた。コルセットできつく締めた胸下から腰への線が、どこか人工的に細く薄幸と言う印象を受けたが、彼女が幸せならそれでいい。 しばらく行くと、古い鉄製のベンチに座った老夫婦を見かけた。二人は穏やかな日差しの中で、優しい笑みを浮かべ語らっている。二人の前にはキラキラとさざ波を漂わせる広い池がある。まるで光る小さな海のように。ここで私は。朝から鬱積していたつまらない気分が晴れて行くのが分かった。「素敵な午後ですね」そばに行き声をかけた。「ほんとにそう」老妻の方が私を見上げた。 「今日は孫の命日なんです」池を見つめたまま夫が言った。「孫は三年前にあのあたりで溺れ死んじゃったんだよ」と人差し指で池の斜め右方を指さした「三年前の今日ですよね」妻が念を押すように言った。「うん」と彼がうなずく。「まだ二才になったばかりだったのに」と顔をしかめた。 「でも孫は、私達が毎年この日に来る事を知っていて、池から飛び出して挨拶してくれるんですよ。ねえあなた」と言う間もなく「あっ、今飛び上がったぞ!」と夫が立ち上がり、池の水面を震える指でさした。「あらまー、ハーイスコット、ここよここよ、グランマとグランパはここよー」妻も立ち上がり金切り声を上げる。 だがそこに男の子は見えない.カモの親子が優雅に泳いでいるだけだ。極限の悲しみが幻影を生んだのだろうが、悲しみもあれだけ昇華されればそれはそれで幸せなのだ。 美しく手入れされた大きな花畑のまわりを一周して行くと、赤い眼鏡橋に行きあたった。園の外で見た小川のせせらぎが、園内に流れ込んでいるのだ。見ると橋の上で若い二人の男がもみあっている。一人が別の男の体に抱きつき橋の欄干を背にして、相手の動きを止めようとしている。「止めるな、今度こそ俺は死ぬんだ!」するともう一人が「だめだ!この川は意外と深いんだ、ほんとに溺れて死ぬぞ。君はちっとも泳げないじゃないか!」 「バカヤロー!いい子ぶって偽善者づらするな。お前なんか兄貴だなんてちっとも思っちゃいない、ペッ、ペッ」弟と思われる男が兄の顔につばを吐きかけた。すると兄が首にかけた名札を弟の顔の前にかざす。弟がおとなしくなり兄に抱きついた。 薄暗くなった夕暮れの道を急ぎ足で帰った。夫はすでに帰宅していた。「今日ね、誰もがみんな幸せそうな素敵な公園を見つけたの、竹林の近くにね」パディオでビールを飲んでいた彼に言うと「ああ、あれは精神病院の庭だよ」と、テーブルのジョッキを傾けた。「でも何の囲いもなく、誰でも自由に入れるのよ」 「囲いなんていらないんだ。今どき誰だってキチガイとまとも人間の間を行ったり来たりして、何食わぬ顔で生きているんだ」やがて夫が口のまわりのビールの泡を舌で舐めとり、じっと私を見て言った。「俺も以前、あすこに世話になった事がある」 共有: X で共有 (新しいウィンドウで開きます) X Facebook で共有 (新しいウィンドウで開きます) Facebook いいね 読み込み中… 関連