別れた夫がまた戻っているのよ

「また別れた夫が戻って来てるの」女友達が私のすぐ横で言った。「今度はどれくらい居るの?」私が聞く。「わからないわ、気まぐれだから」「今でも暴力を振るうの?」「前よりは良くなったけど、髪を引っ張って床を引きずり回すのは今も変わらない」「野球バットでぶったりはもうしないでしょ?」「まあね、でもあの人急に豹変するから怖いの」と友達が言ったところで左斜め前のブースのアボカドが目に入った。

走り寄り手に取って見ると手のひらにずしりと重さが乗り、つやつやとした皮の中身のまろやかさが分かる。隣のトマトも白く粉を吹き畑の土の匂いがする。その隣のオレンジも、たった今枝からもぎとったようなフレッシュな香り。これだ、ファーマーズマーケットの醍醐味は。太陽の下で本物の畑にいるような気がする。自然の土をふんでるような気がする

ふと背後でインド音楽のようなものが聞こえ、振り向くと眉間に赤いほくろをつけ、瞑想のポーズをした女占い師が見えた。青いサリーを着ている。目の前の金属製の小さなツリーに、幾つもの香料袋を下げ、瞑想はしているが目はぱっちりと開けている。私をじろりと見た。美魔女と言った感じ。ラベンダー、クローブ、スターアニス、ミント、きついスパイスの摩訶不思議な匂いで目が眩みそうになる。よく見ると彼女は両足がなかった。

あれっ、友達はどこへ行ったんだろう、急に静かになって姿が消えた。きっと私みたいにファーマーズマーケットのざわめきに夢中になってるんだろう。まあ、いいか。

でもこのマーケット、今日はやたら出店が多い。途中で店がとぎれてもそこを右に曲がれば、また屋台が並んでいる。同じような店が幾つも並んでいる。まるで迷路だ。

Farmers' food market stall with variety of organic vegetable.

ありとあらゆるチーズの塊を店先に出し、試食させているブースがあり人が立ち並んでいる。「ゴルゴンゾーラ」と店員が、ペティナイフの上にチーズの破片を乗せ「さあ、食え」とばかりに私の目の前に差し出す。これはカビで出来たチーズだ。その匂いに胸が悪くなり急ぎ足で通り過ぎる。ナイフで喉でも刺されたら大変だ。

それにしても、夫はもう帰っただろうか、マーケットから戻る前に家を出るようにと固く言った。昨夜ふらりとやって来て「今夜泊めてくれ」と言う。離婚して二年も経つのに、何やかやと口実をつけては泊まりに来る。その度にベッドになぎ倒され、無念の涙を流し私は彼にありとあらゆる悪態をつく。すると夫はあざが出来るほど私の顔を殴る。

この不毛の関係に陥りもがいている私の心情を知る者は誰もいない。奈落の底で助けを求める私を笑うだけだ。

しばらく行くとまた出店がとぎれ、右側の路地に不思議な光景が見えた。日本の古い江戸時代の街道が見え、両脇に旅籠屋が並んでいる。そこにうどん屋の赤い提灯が下がっていた。中に入るとうどん汁の匂いがむっとした。しばらく当たりを見回していたが、ふとここがマーケットのフードコートだと気づいた。21世紀のロスアンゼルスのフードコートだ。

左斜め前にマーケットのBGMを担当するギタリストの男がいるが、今日は顔が違う。肌にぴったりとした極彩色の絹のシャツをまとい、鼻に大きなピアスをつけている。やさぐれた感じ。大きな指で奏でる曲がやたらアレンジしたうるさいジャズだ。お馴染みのビートルズナンバーではない。いつもはチップをはずむ私だが、今日はその気になれない。絹のシャツが実は入れ墨だと分かったのは、曲が終わり彼が私を見た時だ。どこか夫に似た風貌で私はぞっとした。

このまま行けば夫と私の間に、殺し殺されかねない修羅場が来るのは解っている。それなのに縁を断ち切れない私の迷いは何なんだろう。私もまた同じような性根なのだろうか。

私はふと作家志望のホテルの管理人であるキチガイ夫からつかのま逃れ、ホテルの裏庭にある生垣迷路で過ごす妻と幼い息子の映画を思い出した。殺人鬼の夫から逃れるためあらゆる手を使うが、彼女もまた夫にナタを振り回しながら、心では断ち切れない煩悩に心地よさを感じているのかも知れない。同じ迷路に迷い込んでいる私もまた、夫の嗜虐趣味にほくそえみ、自分の自虐趣味をあおりたてる。二人の仲を翻弄しているのは実はこの私かも知れない。

あのキチガイ夫がこのファーマーズマーケットに来て、私の後をつけ回しているかも知れない、それを心待ちにしているのが私だ。

ふと入り口の近くにあった野菜売り場を思い出し、アボカドを買おうとそこまで戻った。アボカドとトマトをざく切りにしてチーズを乗せ、電子レンジに入れ数分煮るとおいしいワインのつまみが出来る。買った野菜をトートバッグに入れ駐車場に行くと、私の車に寄りかかっていた夫が体をおこし薄ら笑った。

先回りして待ち伏せしていたのだ。夫と同じ笑いが私の顔をも彩る。共犯者の笑みだ。

昨夜なぐられ痣の出来た頬を手のひらでなでながら、私は彼に向って歩き出した。

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