人気のないうら寂しい場所

人気のない裏寂しい場所を歩いていると、白い暖簾の下がった料理店が見えた。長方形に切った大きな布を三枚、細い竹に通して左からア ゲ ハと墨と筆で書いてある。かすれたような洒落た書き方で、わび、さびを感じる。アゲハとは蝶の名前である。優雅な姿形をしてはいるが、どこか不吉な感じがする蝶だ。

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入るとすぐ小さな円卓が二つあり、その先にL字型になったカウンター、中に女将(たぶん)がいる。客は一人もいない。女将は後向きに立っていたがこちらを振り向き「いらっしゃいませ」と言った。「こちらへどうぞ」と自分の前のカウンターを指し示す。

私はあっと声を上げた。女性には目、鼻、口がない。『のっぺらぼう』である。そんな妖怪がいる事は知っていたが実際に見るのは初めてだ。ついでに言うと、私は妖怪は決して嫌いじゃない。思わぬ時に出て来て人を驚かす茶目っ気があり、愛嬌もある。幽霊よりも数段かわいげがある。

女将のすぐ前のカウンターに座りなべ焼きうどんを注文した。今日のおすすめメニューとあったので。ビールを頼み一口飲み気を落ち着かせると、絶妙のタイミングで「こう見えても私には、五か国の血が流れているんです」と彼女が言った。「日本、アメリカ、コリア、ブルガリア、あっそれからフランス」話す時だけは口が出て来て動く。赤い口紅をつけた唇が何かの花びらに似て可愛い。

「この辺はちょっと寂れた場所ですね。どうです、もうかりますか?」相手の出方が分かったので人心地のついた私は、少し強気に出てみた。彼女は小皿に入れたおつまみの枝豆を私の前に差し出し、じっと私を見た。いや見たと思う。目がないのだからどこを見ているのかわからない。

「店は繁盛していますよ。ここには色んな国のお客が来るんです」枝豆を一つつまみじっと見てると「大丈夫、毒はついていません」腹を見透かされたようで私は黙り込んだ。

mug of beer

「こう見えても私の頭の上には百万本以上の触角が突き出ているんです、目には見えないでしょうが。その触覚から色んなセンサーをキャッチし、その人の人柄、過去、人間関係、何でも分かる、それをもとに話をして行くんです。だからみんな喜んで戻ってこないお客はいない。それどころか友達を連れて来る」鍋焼きうどんに入れるシイタケを刻みながらそう言った。口調がどこか男っぽい。

その時、左斜め後ろの暗い場所から、十歳くらいの女の子が出て来て「ただいま」と言った。「お客様にご挨拶は?」と母親に言われ私に向かって「こんにちは」とお辞儀をした。この子ものっぺらぼうだ。それでも生き生きと口だけは動く。目の前の母親を見ると、うつむいた額の両脇にほつれ髪が垂れている。それが子供引き連れ苦節十年と言う、彼女の歴史を物語っているようだった。

鍋焼きうどんはその鉄鍋の大きさに驚いたが、すこぶる美味しかった。その味と面白いモノを見せてもらったと言う趣旨で、法外なチップを置いて来た。のっぺらぼうにもチップのありがたみは分かるらしく、とても喜んでいた。この店は家庭料理専門のおふくろの味が売りの店だ。

慣れとは恐ろしいものでそれからは行けば楽しく、のめり込んでしまった。のっぺらぼうが今では愛おしくさえ見える。女将の言う通り彼女は人の心をつかむ術を知っていた。今どきの高飛車な女とは違い控えめで奥ゆかしく、だが突っ込み所が鋭く聡明である。だがいつ行っても客は私一人だった。商売を続けられるのが謎だ。

「実は、僕はロスアンゼルスで不動産屋をやっているんですがね、日本人向けのね、今サンタモニカに格安の居ぬき物件があるんですよ」ある日とうとう言ってしまった。身元を明かして彼女の力になろうと思ったのだ。女将は不審そうに私を見た。この頃では彼女の表情が読み取れるようになった。

「もとは寿司屋だったんですが、店主が急に日本に帰る事になったんですよ。内装リフォームしてから三年と経ってない。厨房設備や空調設備も申し分ない、什器等も真新しく、ここより数倍賑やかな所です」「私にはそんなお金はありません」

アジの開きを私の目の前に置き女将がそう言う。「いや、そんなものはどうにでもなります。先方も急いでますんでね。なんなら資金の調達は僕がやってもいい」すると女将は非常に不機嫌な態度に出た。荒々しく流しの中の食器を洗い始めた。彼女が気を悪くしたと思い、私はそうそうに店を出た。次第に足も遠のいた。

それから数ヶ月するとサンタモニカに『アゲハ』と言う日本料理店がオープンし、とても流行っていると言う噂が流れた。そこの女将が絶世の美女だと言う尾ひれをつけて。

だが、その店に行くのはちょっと踏ん切りがつかない。女将が絶世の美女にしろのっぺらぼうにしろ、私のロマンが無視された現実を見るのは、やはりつらく悲しい。

Broken heart inside head

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