トムはお船の船長さんだった

トムはお船の船長さんだった。あの大海原にただようさざ波のように、とても繊細で優しい心を持っていた.

Cruise voyage

「マリ、僕は癌なんだよ」ある日クラブのパティオで彼が言った。「癌と言っても色々あってね、僕のは舌癌。そのうち舌を抜かれ口を焼かれ、口が貝のようにふさがってしまうんだ」といい、手にしていたジャックダニエルのオンザロックをテーブルに置いた。気の早い私はその右手が溶け、骨がくずれ風化して行く様を秒速の速さで夢想した。

小さな田舎のカントリークラブで、妻に失望し暇をもてあましたメンバー達は、カードルームでくだをまきバーカウンターで下手糞なカンツオーネを歌い、バーテンダーを苦笑いさせていた。だが妻に先立たれたトムは、ひっそりとやって来てひっそりと飲みひっそりと帰って行った。彼は孤高の人だった。

しばらくするとクラブに、ナナと言うあばずれ女が、金目当てにトムの家に入りびたりだと言う噂が立った。夫は女の品定めをするために、あるダンスパーティで彼らと同じテーブルに座るお膳立てをした。ナナは雰囲気の優しい女だった。ふわふわのアフロヘアに花模様のシフォンドレス、ときどき私たちをちらりと見た。その時ぷんと高価な香水の匂いがした。

トムときたら、まるで頭の弱い金持ちの男の子が乳母に甘えるように、ナナの手をぴしゃぴしゃと叩いていた。海の男らしくがっしりとしていた彼の肩や胸板が、ひとまわり小さくなっていた。潮風にもまれた茶褐色の顔が生白く変貌していた。その時初めて私は、彼が本当に癌なのだと気づいた。トムとダンスを踊ると「ナナにプロポーズしたけど、断られたんだ」彼が耳元で囁き微笑した。

しばらくすると、トムはぱったりとクラブに姿を見せなくなった。「彼が最後の航海に出たらしい」ある日夫が言った。夢想好きな私はすぐに、牛車輪の形をした船舵を握り、海原を見つめているトムを思い描いた。そしてその寂しそうな横顔も。

「トムを慰めに行こう」ある日夫が言った。よけいな事だと私は言った。死に行く者を慰めるのは、その人の不幸をもてあそぶ事だと。だが私は気になった。トムのリビングの壁全面には、とてもリアリスティックに白樺の林が描かれ、私は行くたびに迷子になったような気がしたものだ。小リスがぱっと壁から飛び出し、足首を噛みそうだった。トムもあのリビングで迷子になっているかも知れない。

すっかりと面変わりしたトムを前に、私はバカみたにはしゃいだ。トムを笑わせようといつか見た夫と見た、ニューオリンズの小劇場の覗き穴から見たアダルトビデオの話をした。ナナはとても笑った。トムは静かに微笑した。でも目は笑っていなかった。放射線治療で下顎の骨は壊死し歯は抜かれ、ノートブックとペンを手にしていた彼は、笑いたくても笑えなかった。いちいち思いを紙に書くのが、恥ずかしそうだった。

「トム、どうしたの?悲しくなるわ、死んじゃだめよ、強く生きてよ」そんなおためごかしは口が裂けても言えない。彼の瞳の底に浮かぶとても真摯で生真面目な精神が、私をじっと見据えているから。初めて癌の告知をされた、あのパティオのテーブルでもすでに気づいていたから。

生き残る者が死に行く者と話す魂と魂の話し合いは、照れ臭くて私には出来なかった。照れ臭い?私はまだ若かった。トムは私を買いかぶっているのだと彼に諭そうにも、あまりに私は道化になり果てていた。

トムがホスピスに移った時、夫がまたもや言った。「トムに会いに行こう」私は黙っていた。「ナナのアイデアなんだ」彼はダメ押しをした。「四人で昔やったジンロミーをやろうって、トムも気にいると思うよ」夫は乗り気だった。私はまた道化をやらされるんだとしぶしぶついて行った。

ノートとペンを傍らに置きトムは気分が良くなかった。ホスピスの玄関わきで三人だけのカードゲームを始めると、亡霊のような患者たちが私たちを取り巻いた。車椅子に乗ってじわじわと私たちに近づいて来た。デッドマンウオーキング、、、。ナナがぱっと煙草を取り出した。煙を鼻から出し患者たちを見返した。「僕に一本くれませんか」バンダナを頭に巻いた、痩せこけた黒人の若い男がそう言うと「癌患者にあげる煙草はないわ」ナナがそう言い私に一本くれた。

それは血も涙もない言葉だった。トムは先生に怒られた小学生のように悲しい顔で、私を見た。病室に戻るととうとうトムが、かんしゃくを起こした。あたりにある物を手のひらで床にまき散らした。でもそれは弱い力だったので少し滑稽に見えた。

「トムどうしたんだ?」夫がバカげた事を聞いた。「枕がない!!!」激怒が頂点に達した彼が、封印された口を思わず感情的に開いた。すると彼の丸い口から大量の吐しゃ物が床に吐きだされた。それは腐りかけた獣の内臓物のような恐ろしい匂いだった。誰もが鼻を押さえて廊下に飛び出した。

だから言わない事じゃない。こんなものだ、見せかけの同情心や思いやりなんて。真実を突き付けられると、あたふたと逃げ出してしまう。人の不幸を慰めようなんて実におこがましい。

夫はキャプテンハットを形見に貰い、ナナはどこかへ消えた。私はと言えばトムの魂の叫びを踏みにじったと言う後悔に、今もさいなまれている。

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