サンフランシスコ行

サンフランシスコ行の飛行機から窓外の雲海を見ていた。そこへ編集長との会話がよみがえる。「シスコのチャイナタウンへ行ってほしい」と言われたのは二週間前だ。60年前に撮った映画を最後に映画界を引退した、ある女優に会ってほしいと言う。

39916934_s

「これはある意味ではセンセーショナルよ」と彼女はクラブサンドの一切れをつまんだ。日本人街のレストラン、ランチついでのミーティングだった。一時は雨後のタケノコのように増えた日本人向けの無料情報誌、そのほとんどが自然淘汰された中、今もしぶとく生き残る敏腕女編集長。彼女に私はある種の畏敬の念を抱いている。

「この女優は日本人離れした美人でね、もともとお姫様役とか金持ちのお嬢様役で民衆をふとりこにしたんだけど、ある時汚れ役をやりたいと駄々をこねたのよ。ほんとに駄々よ。彼女はずっと何をやってもトップ女優だったんだから」「私、その人ネットで見た事あります。ずいぶん前の写真でしたけど」私は身を乗り出した。

「そこで監督が用意した映画が原爆病患者の話でね、右ほほに大きなケロイドのある女の話なの」「へー」と私は昔見たケロイドの写真を思い出した。「彼女はアメリカで整形手術をして前より美人になった。それを機に自ら整形外科医になり人々を助けたと言う成功話、陳腐きわまりない嘘のような話で、でも映画はヒットしたのよ。もちろん海外ロケなどはなく、すべては日本のセットでの撮影だったんだけどね」

これには後日談があり、女優はその後強度のノイローゼになった。鏡を見る度に、ケロイドのメーキャップが落ちないと大騒ぎをするのだ。周りが幾らなだめても「お化けのようだ」と奇麗な顔を両手でかきむしる。いつしか精神病棟に入ったと言うまことしやかな噂が巷に流れた。だがどうにか持ち直しもう一作撮ったんだけど、さんざんな出来で彼女はそのまま自然消滅した。今は100才に近いと言う。その女優にインタビューしろと言うのだ。「そんな大役を私に?」と言うと「何事も経験よ」と彼女は意味ありげな目をした。

ロスから約一時間半のフライトでシスコに着いた。ホテルにチェックインしカメラマンと別れ、その後チャイナタウンをぶらりとする。街並みは原色の赤と黄を基調にした派手な色合いで、とても異国的だ。元女優はあるレストランの階上のアパートに住んでいると言う。

San Francisco's Chinatown at sunrise, California, USA

ドアを開けると、逆光を受け窓辺に立つ女性の後姿が見えた。海に面した部分がすべて広い一枚ガラスで、その向こうに広がる海景色、揺れる島影、曳航するボート、飛翔する数羽のカモメ、どこかモネの絵に似ている。やがて女性がゆっくりとこちらを振り向いた。

長い外国暮らしで身に着けた気品、優雅さ、ノンシャランな仕種、こちらが卑屈になるほどの洗練されたオーラに包まれた絵姿。まさにモネの絵の貴婦人にもひけを取らない女性が、そこに立っていた。

窓を背にした肘掛椅子にゆっくりと彼女は座った。私とカメラマンは窓と直角になった、ソファに座る。用意したどんな質問も馬鹿にされそうな威圧があった。それに気おされ私は、愚かにも窓の向こうを指さし「あの島は何という島ですか?」と聞いてしまった。彼女は窓の方を向き、「さあー」と首をかしげた。“監獄島?”と私は一人ごち、“いや、あの島には確か建物が見えたはずだ”と思い直した。

「あの島は不思議な島でね、ときどき見えなくなる事があるのよ」と彼女は言った。「見えなくなる?」「そう、まるで空の上から神様が引っ張り上げた見たいに」と女神のようにつんとした。広いリビング、贅沢な調度、一度中国人の商人と結婚したがすぐに別れたと聞いた。今は生活費をどうしてるのだろう?つい下世話な事を思った。奥の方でカタコト物音がする。お手伝いだろうか。

最後にカメラマンが三脚をセットしている間、私も彼女の真正面に立った。すると光の具合で彼女の顔に、今まで見えなかった無数の深いしわが見えた。垂れ下がった首のしわも。別れを告げドアの所でもう一度振り向くと、私は見たのだ、右ほほにある大きなケロイドの痕を。後ろから抱きつかれでもしたかのように驚きあわて、私は外に出て後ろ手にドアをぴしゃりと閉めた。

結局、その記事はボツになった。リアリティがないと言うのだ。「あなたもまだまだ修行が必要ね」と編集長はあきれた顔をした。

コメントを残す