俺はうっすらと目をあけた

俺はうっすらと目をあけた。青空に広がる樹木の葉枝が見える。何という木だろう。下から眺める木の枝は爽快なものだ。俺はふと、昔親父と見た古いロシアの映画を思い出した。ふわふわの毛皮のコートを着た貴族の男が、従者が手綱を引く黒い馬車に乗って森の中を走る。ふっと男が空を見る。そこに風に揺れる葉群れが見える。男が何かつぶやく。

「パパーあの人何て言ったの?」俺は聞いた。親父が答えた。「森の緑がきれいだって言ったんだよ」男がまた何か言った。「今度は何て言ったの?」「人生はすばらしいって言ったよ」親父は嫌がりもせず答えた。25年も前の話だ。なぜかその貴族が親父に似ていた。次の瞬間、激痛が腹に走った。だがそれは7才の俺の腹ではなく、立った今、道の上にあお向けに寝ている俺の腹の痛みだ。

Sunny Canopy Of Tall Trees. Sunlight In Deciduous Forest, Summer

小さな町の歯医者だった親父は、40半ばまでは羽振りが良かった。脱税で捕まるまでは。そこで患者が激減しお袋は半狂乱になった。歯科医大を三浪もしていた俺が「俺、ロスに行くよ」と言うと「そうか、そうするか」と彼は冷めた顔で言った。行きの飛行機代と少しの小遣いをくれ「あとは自分でなんとかしろ」と言った。親父にしては出来た決断だ。だが彼は一年後に心臓まひで死んだ。あんがい繊細だったんだ。その後お袋からは音沙汰なし。

腹の痛みはドクドクと続くが耐えられないほどではない。痛みは行ったり来たりする。そうだ思い出した。落ちていた百ドル札を拾おうと看板を持ったまま大通りに出た。それが一ドルだと分かった時ちょっとうろうろした。その時暴走して来た赤いスポーツカーに激突されたんだ。次の瞬間、ものすごい勢いで宙に放り投げられ地べたに叩きつけられた。あっという間だった。そうだ看板はどこにあるんだろう。あれを無くしたら仕事はクビだ。

どういう訳か親父はお袋より俺を可愛がった。映画のビデオを借りて俺と見るのが好きだった。映画はどれもおセンチすぎて俺は苦手だった。「ぼく、ちびまる子ちゃんが見たいな」そう言うと、親父はほんとにそのビデオを借りて来た。女、子供が見るアニメを黙って俺と見ていた。その頃からだ、俺のセクシャリティに迷いが生じたのは。

腹の痛みが背中にまわり苦痛で意識を失いそうになる。両手をバタバタと地面に叩きつけるが手はマヒしている。レストランの看板を路上で振り回すサインスピナーと言う仕事は、俺の性にあっていた。看板をクルクルと振り回す練習を死に物狂いでやった。物になるのに3年かかった。仕事は車の多い大通りの歩道でやる。すると俺のパフォーマンスをたたえるドライバーが出て来た。車の窓からサムズアップする、クラクションをならす、そんなドライバーが増えた。気分が良かった。何やっても無視された俺が人の目を引いている。

女にも男にも性的欲求が湧かない俺がバイセクシャルだと分った時、目からうろこの思いだった。何をやっても半人前でどっちつかずの性格も、それが原因だったのだ。俺は闇をさまよう迷い人だった。だがサインスピナーと言う仕事が俺に、アイデンティティを持たせてくれた。だがもうそれも終わりだ。

遠くでサイレンの音がする。救急車のサイレンだ。誰だ、ぎゃーぎゃそばで泣く女は。「ショー!ショー!ショー!」そうだこれは俺の嫁だ、俺を優しく養ってくれる素敵な嫁だ。英語なまりで俺の名を呼ぶ可愛い嫁だ。救急車の音が近くで止まった。赤い服を着た男が二人、俺の体を持ち上げ担架に乗せ運び出した。その時また空に広がる葉枝が見えた。素敵だ。俺もあの貴族のように、ちょっと気取ってつぶやこう。「人生はすばらしい」と。そこで俺は気を失った。

Emergency medical service

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