親愛なる夏子へ

親愛なる夏子へ

その後いかがお過ごしですか?日本に滞在中は色々お世話になりました。十年ぶりに帰った私の生家が、いまもなお、昔と同じ家の息吹を放っている事に驚きました。人の住まない無人の家は、またたく間に荒廃すると言われますが、父と母も亡くなり住む人のいないあの家が、今もなお変わらぬ懐かしさで私を迎えてくれたのです。これもすべて従妹であるあなたのおかげだと、深く感謝しています。

たとえ従妹とは言え、車で一時間以上もかかる場所から月に二回出向き、大きな田舎造りの家の窓を開け放し、風通しを良くし、庭の草木の手入れまでして下さるあなたに、とても感謝しています。

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実は、今度の帰郷には私なりのある計画があったのです。あなたも知っていますね、家の二階にあった父の大きな書棚。その引き出しにアルバムに収まり切らない無数の写真が、ばらばらになって入っていました。

それらの写真を取り出し空気をあて、悲喜こもごもの思い出とともに葬られた写真達に、精気を与えたいと思ったのです。中には家族の誰にも見られず即、引き出しの闇に消された写真もあった筈です。その無念の思いを晴らしてやるなどと、ドラマチックな事を考えたのは、たぶん私の年のせいでしょう。

そして偶然みつけたのですが、それらの写真の中に、なんと死んだ兄の作文が入っていました。それは死ぬ約一年前の小学四年の時のもので、私はその時小学二年でした。半世紀近く引き出しにしまわれた原稿用紙一枚のそれは、セピア色に変色し折った部分に穴があき、今にも引きちぎれそうでした。なぜそんな所に古い兄の作文があるのか、たぶん、兄の死を誰よりも嘆き悲しんだ母が、捨てきれずに入れたのでしょう。それを読む事は彼の知られざる秘密を読む事のようで、私の手は震えました。

「ぼくは、大きくなったらお船の船長さんになりたいです」まず一行目にそう書いてありました。「そして外国の大きな海に行って、いろいろ見たいです。そして買い物をして、外国の町も歩きたいです」などと書かれ、何か胸がつまるような文字の羅列でした。白血病で寝たり起きたりの自宅療養を半年もして、ついには夏の夕暮れ、空中に舞い上がるような、突然の発作を起こし死んでしまった兄。

その兄にとても我がままで意地悪だった私は、わざと兄の嫌がる事ばかりしていました。それをいちいち母に言いつける兄がまた憎らしく、ふらふらと家の中を歩く兄の足を後ろから蹴ったりしました。兄はよろよろと倒れ泣きました。お医者から食事制限を言い渡され、骸骨のようにやせ細り、ほとんど死を待つばかりの兄。栄養を取らなければいけない一番大事な時に、「あれは食うな、これは食うな」と言う藪医者に死ぬまで診てもらったのは、彼が父の友人だったからです。そういう時代でした。

Japanese brother and sister on a hike (7 years old boy and 2 years old girl)

兄のセピア色の作文を私はアメリカに持ち帰りました。少女が紙細工をするように、それをハサミで細かく細かく切り、兄が行きたかった太平洋の海にばらまこうと思ったのです。まるで遺灰のように。ある種の人々がするこの、ロマンチックな埋葬の仕方を兄は喜んでくれるでしょうか。

真っ青な空と真っ青な海、潮風が心地よい、その日は素晴らしい海びよりでした。一艘のクルーザを貸し切り海に乗り出しました。船のキャプテンにはあらかじめ事情を話していたので、彼は私の望み通りの場所で船をとめてくれました。ゆらりゆらりと波に漂う船の上で、あらかじめ小さな袋に入れた兄の遺灰、いや作文を手のひらに取り、船の手すりから海にばらまきました。待ち構えていたかのように無数の小さな紙の破片が、潮風に吹かれ舞い上がりそして舞い散りました。

30850450 - sail boat gliding in open sea at sunset

ふと空をあおぐと、一羽のかもめがゆっくりと飛翔しています。引き出しの中で物悲しく眠っていた兄の魂が、いま自由になって空を飛んでいるのだと思いました。その時でした、『恋はみずいろ』と言うあのポールモーリアの美しい旋律が、どこからともなく流れて来たのは。いえ妄想ではなく、私にははっきりと聞こえたのです。海をモチーフにしたあの美しい恋のメロディ。恋する事も知らずに死んだ兄を慰めるような、海からのそれは素晴らしい贈り物でした。

こんな私をあなたは、センチメンタル過ぎると笑うでしょう。でも今私は、私の中の一つの時代が終わったような気がしています。そしてこれからまた、新しい時代に向けて強く生きて行かなければなりません。またお会いする日を楽しみにしています。さようなら

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