キッチンの裏戸を開け、シダや小草が生えた緩い崖を恐る恐る降りていく。地面が湿って滑りやすい。崖の下には小さな沼がある。表面にドロドロと黄緑色の藻がよどみ、何か獲物を待ち構えている感がある。加奈は崖の途中で立ち止まった。そこから沼全体が見える。年月を経たツタの木が岸辺を囲みあたりが薄暗い。今まで気にもかけなかったが、なんとおどろおどろした光景だろう。

加奈はふと数日前の、隣家の老婆の言葉を思い出した。「あんたの家は呪われてんのよ。昔、あの家の三才の男の子が沼におぼれて死んだの。だからあの家、安かったでしょう」家は事故物件だと言いたいのだろうが、不動産屋は何も言わなかった。「今でも時々その子が、ずぼっと沼から立ち上がるんだよ。いっぱい藻をかぶってね、水の底にいると息苦しくて、やってられないってね」老婆は、あの家を買った者は長くは住まない、死んだ子供の霊が生活の邪魔をするからと言った。「あんたの旦那さんが交通事故で死んだのも、祟りなのよ」わざわざ玄関のベルを鳴らしそう言った老婆とは、これまで話した事もなかった。
アメリカ東部の小さな町のこの家を買って一年、なぜ老婆は今頃になってそんな事を言うのだろう。「ママー、バスが来たから行くよ。ポールはまだ食べてるからね」崖の上から、バックパックを肩にかけた八才のモニカがそう言うと、スクールバスに向かって走って行った。加奈は一瞬パニックになり、つぎに朝食の途中だった事を思い出した。家に戻ると三才のポールが、顔中をミルクだらけにしてセリオを食べていた。二人とも混血でとても可愛い。
加奈の夫はフィリッピン系アメリカ人で、真面目実直を絵にかいたような男だった。そんな人間ほどある日突然あの世へ行くと、人から言われたりもした。あの日、二人のポリスが玄関先に立っていた。一人はアーノルド シュワルツェネッガーに似て、一人はダニー デビートにそっくりだった。「あなたの夫が交通事故で死にました」と背低い方がいい、のっぽの方が悲し気な顔をした。何か映画でも見ている気がして、加奈はくすっと笑った。「大きなトラクターと衝突し即死です」とのっぽが言った。その後二人は何か言っていたが、すでに頭が真っ白になった加奈は茫然としていた。
いつまでも頭を真っ白にしている訳にもいかず、モールでの週三日のギフトショップの仕事は、休まず出かけた。同じモールで彼女の夫も警備員をしていた。いつも一緒にランチを食べたフードコートで、今は一人で食べる。夫が好きだったフイリッピン風焼きそばを食べながら涙が出た。彼女は隣家の老婆の事を思った。今でも時々立ち止まって、意味ありげに加奈を見る。ボサボサの灰色の髪をポニーテールにして、色あせた花模様のワンピースで近所を徘徊する。気色の悪い老婆だった。
だが世の中、気色の悪い人ばかりではない。ある日の午後加奈が、家のそばの重いダムスターの蓋を開けようとした時、誰かがさっと持ち上げてくれた。近隣の男性だった。たたずまいの良い初老の男性で、ときどき訪ねて来る孫と家の前で遊んでいる。「How are you doing?」そう言われ加奈は「I am fine thank you」と明るく自動的に言った。何がfineなものか、夫を亡くした家は火の車である。

すると男性が少し声を低めた。「ナタリーの言う事は気にしない方がいいよ」ナタリーとはあの老婆の事。「沼で死んだ男の子、彼女はあの家に越してくる者には、必ずその話をする。そうやって新しい隣人を怖がらせる。すべて作り話だ」と言い慎重にうなずいた。ではなぜ家は破格の安さなのかと聞いてみたい気もしたが、彼女はすっかり生活に疲れていた。「君の周りには優しい親切な隣人が、沢山いる事を忘れてはいけない」加奈はこの人格者らしき老人の言う言葉に、非常に癒された。地獄に仏とはこの事だろう。彼は加奈が住むコミュニティのチェアマンだった。「何か手伝う事があれば、いつでも相談に乗る」彼はそう言って微笑んだ。
「君の周りには優しい隣人が沢山いる」たとえ嘘でも、そんな言葉をかける人間はあまりいない。それが非常にタイミングを得て、心なごむ言葉だっただけに、加奈の胸を強く打った。日本にいる両親には反対された結婚で、もはや行き来はない。夫との家族とも、彼の死後は音沙汰もない。加奈は先の事を考えひたすら絶望していた。その時のチェアマンの言葉である。胸の底から力が湧くような気がした。夕食の時など子供を前にして、「よし、この国で子供たちと強く生きていこう」と思うのだった。チェアマンはあれから加奈を見ると、民に手を振るローマ法王のように、寛大で慈愛に満ちた笑みを返してくれる。そうなると不思議なもので、沼の景色も聖域に見えて来る。
それから数ヶ月して、両親から電話があり日本に帰って来ないかと言う。「あなたたちが帰ってくれば、今の家をリフォームして二所帯住宅にして、一緒に住めばいい」母親がはずんだ声を出した。またかと加奈は思った。独り立ちしようとすると、必ずじゃまする両親だった。日本に帰る話は、しばらく保留にしようと心に決めた。
