男に指定された場所はホテルの屋上だった。そんな場所に行くのは初めてだった。車のナビゲーションに頼りきりの運転だったので、すっかりそれに翻弄されからかわれ、着いた時には軽い疲労を感じた。エレベーターで屋上まで行きバーの入口に立った。彼女がそこで見たものは、砂漠のオアシスを連想させる情景、はかない蜃気楼のような非現実的な光景だった。国籍不明の若い男女がグラス片手に、ゆらゆらと揺れて夢のような微笑を浮かべている。彼女は一瞬、引き返したい気になった。

「入口のそばの観葉植物のそばに立っていてくれ」と男に言われているからそうする。こんな所で、出会い系アプリで知り合った男と落ち合うと言うその事実が、のぞみを少し落ち着かなくさせている。彼女はすでに35を過ぎていた。少しばかりの教養と美貌が奇妙なプライドを作り上げ、それが彼女を今日まで引きずって来た。だが結婚への願望は日増しにつのる。だから、ネットで知っただけのどこの馬の骨とも分からない男と会う気になったのも、その男の肩書の良さと見かけの良さに魅かれたからだった。彼は黒人と白人の混血だと言う事だ。写真では素晴らしく美しい男だった。
だれかに呼ばれたような気がして振り向く。ネットの男が立っていた。近くのテーブルに誘うと、のぞみの前に座りまっすぐに彼女を見て「会えて嬉しい」と真面目くさった顔をした。写真で見るよりはるかに陰影のある顔立ちで、物腰に品の良さと洒脱さがあった。混血と言うのはその絶妙な血の配合で、時にめったにないミステリアスな美を作り出す。男にはその神秘的な美をうやむやにしないだけの、十分な知性があるようだった。「のぞみと言う名には、何か意味があるのか」と彼が聞いた。「たぶん希望と言うような意味だと思う」と彼女ははにかんだ。はにかむ?この男は三十女をはにかませるだけの、尊大な魅力があるのだ。「日本人の名にはそれぞれ意味があるから、とても素晴らしいと思う」と彼は言った。のぞみはこんな話より、早く本題に入りたいと思っている。ビューティサロンのオーナーだと言う事だが、その美容院はどこにあるのか、従業員は何人?月の収益は?彼女はじっと彼を見つめた。すると彼が「何か飲む?」と聞いた。のぞみは酒は好きではない。だがここでお水をと言うのも芸がないと思い、「白ワインを少し」と言った。「種類は?」と聞かれ「なんでもいい」と言ってしまい死ぬほど後悔した。これが、男なら誰でもいいに聞こえはしまいかと思ったのだ。彼は少し離れた所にあるバーカウンターまで行くと、そこに寄りかかるようにして酒を注文し、のぞみを振り向き微笑した。バックライト付きの棚のカラフルな酒の瓶が美しかった。

男は戻って来ると「少し歩こうか」と言い、見晴らしの良い場所を一発できめ、落下防止の手すりに両前腕をかけた。透明なガラスで出来た手すりの真下に、豆粒のような人間が歩いている。のぞみは自分が高所恐怖症である事を思い出した。ビールで口を湿らせ「君の小間物屋と言うのはどの辺にあるのかな」眼下に広がる街並みを見て彼が聞いた。のぞみは職業欄に、日本風の小間物屋のオーナーだと書いていた。だが男の問いに答えるには彼女は酔いすぎていた。たった一杯のワインで?いやそれは酒の酔いではなく、実生活とはまったく違う異空間に初対面の男といる、その息苦しさのようなものだった。屋上に吹き続ける風の強さと、完璧なまでの男の魅力にがんじがらめになっていたのだ。そのときふと斜め右前方に人の視線を感じた。みると一人の男がグラス片手にじっとこちらを見ている。それは今自分のそばに立っている男とそっくりの男だった。「一卵性双生児?」そんな言葉が頭をよぎる。誰かに試されているのかと、彼女は恐ろしく懐疑的になり吐きそうになった。「ごめんなさい、気分が悪いので、、、」それだけ言うと急ぎ足で立ち去った。男は訳の分からない顔で両手を広げ肩をすくめていた。
これがのぞみの初めてのオンラインデイトの顛末である。だが双子の男などそこにはいなかった。すべては取り乱してしまった彼女の妄想である。だが彼は彼女に、もう一度連絡するつもりでいる。女遊びに飽き40を過ぎた男は、今度こそ将来の伴侶を見つけるつもりだ。信頼のできる自分のビジネスパートナーを。のぞみの秘めた優しさ、控えめな教養、飾らない美を彼はとても気に入っていた。
