優香をピックアップするために波止場へ向かう車のなかで、翔子は混乱していた。大変な事が起きたと言ったきり、電話を切った優香の声が耳に残る。彼女と行くクルージング七泊八日のバハマ行きを提案したのは翔子で、出航の日にドタキャンしたのも彼女である。あの朝急に、胃に錐をさし込まれるような痛みに襲われ、これで船旅は無理と即断し優香に電話した。彼女は驚きと怒りの混じった声で翔子を非難した。
それも道理で、しぶる優香を無理やり誘い、その気にさせたのは翔子だった。出航の直前までブツブツ言ってた彼女を、何とかなだめすかし船に送った。その二日目の午後、優香から電話があった。「一人で旅行に来てるのは、2000人の乗客の中で私だけよ、周りから白い目でみられるし。まったくバカみたい!」と大げさに嘆いた。「そのうちいい事があるわよ、もう少し様子見たら」と言い翔子は、あの激しい痛みが今は嘘のように消えた胃を手のひらで撫でた。その言葉通り優香は、次の日カンパニオンを見つけたのだ。それは優香と同じ年頃の日本女性だった。彼女も一人旅だった。
仮にその女性をA子とする。A子と優香は外国人だらけの船客の中で、日本人同士と言う事で急速に親しくなった。なんとなく南の島の楽園にまぎれこんだ、二人の脱走兵という孤立感を共有し、しばらくはひっそりと行動した。優香はその事を翔子に電話で知らせ、「彼女と楽しくやるわ」と弾んだ声を出した。だが優香は、次第にある事に気づき始めた。A子がとつぜん気が狂ったようにはめを外す事があるのを。照明の美しい吹き抜けのステージで、ロックバンドに合わせ見知らぬ男と激しくジルバを踊ったり、サンデッキで日光浴をする沢山の人の前で、プールを何度も往復し素晴らしい泳ぎを見せたり、バハマの首都、ナッソーのバーでバーテンダーとあられもなくふざけたり。そして明日帰途につくと言う前日、とつぜん優香は翔子に電話をした。「A子が変な事をいうのよ」「なんて?」と翔子。「彼女、実はこの旅は同棲していた恋人と一緒に来るはずだった、それも別れ話の出ている男と。最後の頼みと思いこの旅行を独断で計画し彼を誘ったら、ものすごく怒ったんですって。そう言う君の強引さが大嫌いだって。それで彼、一緒に暮らしていたアパートを荷物まとめて出て行ったそうなの。もう彼のいない部屋には戻りたくないって泣くのよ」「彼女から目を離さない事ね」と翔子は言った。深刻な優香の声を理解したからだ。

だがA子は海に身を投げた。優香は自殺だと思うのだが、その場にいた三人のアメリカ女性達は、あれは事故で転落したのだと言い張った。夜更けの人気の少ないデッキで転落防止柵に身を乗り出し、星空に両手を広げ深呼吸をしていたA子は、とつぜん振り向き少し離れた場所でデッキチェアに座っていた三人の女性に、微笑みながら手を振った。その直後に身をひるがえし海に消えた。女性たちは誤って転落したものと思い、カスタマーサービスに電話をしたが、船が方向転換し救助隊が出動するまでに恐ろしく時間がかかり、結局彼女は次の日の朝方に遺体で見つかった。ターミナルで待つ翔子の前に、船から降りてきた優香はすっかり憔悴し「最後の日に一緒に過ごそうと何度も電話をかけたけど、返事がなかったのよ、きっと死に場所を探していたのね」と涙ぐんだ。それきり口をつぐんだ助手席の優香を横目でみながら、翔子は別の事を考えていた。出発のその日に胃が痛くなったのは、A子からのSOSだったのかもしれないと。死ぬ前に誰かと楽しい時間を過ごしたかったのだ。見知らぬ人間同士の間には、神の采配による測り知れない幽遠の導きがあるのかも知れない。
