小鳥のさえずり、朝露のにおい、ある初夏の朝、二人は新緑の木の葉トンネルの下をドライブしている。トンネルを抜け古い眼鏡橋を渡り、小さなさびれた町を三十分ほど行くと、一気に視界が広がった。広々とした平地に無数のテントが張られ、何やらやっと安住の地にたどり着いた難民の収容所と言う展開になった。やたら活気がある訳ではないが、穏やかな安息が感じられる。「ついに来たわね」運転席の菜々がルミを見て微笑した。窓外に気を取られていたルミはハッと我に返った。そうなのだ、この街で有名な蚤の市に連れて行くと言う菜々の約束が、今日果たされた。どんな蚤の市も決して嫌いではないルミだが、無趣味なただのガラクタの寄せ集めには辟易する。だが今日はなんとなく、あたりに清らかな雰囲気がある。なぜだか判らないけれども。ハーブティの試飲をやっていたので、ハイビスカスティをトライしてみる。適度な薄さで味も良かった。ふと見ると菜々の姿が見えない。二人で行動する時、どんどん先へ行くのは菜々で、ルミはいつも置いてきぼりを食う。

ピンクのサンバイザーをつけた菜々をやっと見つけた。貝殻細工のお店で彼女は、小さなメキシコ人の女の子のアシストを受けていた。しわくちゃでサイズの合わないワンピースを着た少女は、どこか薄汚れた感じで、それでも態度には真摯な気持ちが表れている。彼女はガラスケースから取り出した大きな貝のトゲの部分を、親指とひとさし指で注意深く持ち、他の指はぴんとそらせ菜々に渡した。「これはなんと言う貝なの?」菜々が聞く。「ハッキガイです」「食べられるの?」「食べられます」簡単な質問に簡単に答えいちいちはにかむ。貝の知識には驚くほど熟知していた。菜々はハッキガイの代金を払い、一ドル札を少女に渡し「これはあなたに。とても上手に教えてくれたわ」とほほ笑んだ。少女は入り口あたりの椅子に座った店主らしき初老の男を、そっと振り向いた。彼は不遜な態度で近寄ると「ほんとによくやってくれるんですよ、今日は僕からもチップをあげよう」と自分の一ドル札を少女の手に握らせる。後で取り上げなければいいが。そして「僕の養女なんですよ」とルミに耳打ちした。こざっぱりした白いワイシャツに太った腹をかくした、余裕ありげな初老の白人男性が少女の里親なら、なぜ彼女はあまりに見すぼらしく見えるのだろう。学校には行っているのだろうかとルミはよけいな心配をした。

入り口を出ようとした時、種々の二枚貝の箱がならんだ奥の低い棚に、無造作に立てかけられた絵を見つけた。赤と緑を基調にした30号ほどの水彩画、ルネッサンス期の画風に似せてある。宮廷の温室、あるいは貴婦人の読書室と言った風情の部屋が描かれ、古典的な色合いが上品だ。さんさんと光が差し込む壁一面の大窓ガラス、背高い観葉植物がそれにそって置かれ、中央に古めかしいヤシの木が大ぶりの葉を四方に広げている、そしてその周りは百花繚乱の麗しき花の乱舞。どの美術誌にも載っていない、だが妙に既視感のある絵だ。それは大昔の時代の片隅で、イタリアの薄暗い石畳の上で、無名の画家が描いたその複製が流れ流れてここまで来た、そんな妄想さえふくらませるような絵だった。赤い繻子のテーブル掛け、同じ赤の絨毯、そばにある座面と背もたれが少し膨らんだ布張りの椅子、そんなものをルミが興味深く見ていると、いつのまにか少女がそばに来ていた。かすかに匂う彼女の髪の匂いが今では可愛く思えるほど、ルミはこの子に愛しさを見出していた。絵の左片隅に、ラファエロの幼児キリストに似た男の子が丸裸でいる。金色の長い柄のついた鏡を両手で持ち、上を見上げている。ルミはその子を指さし、「これはだーれ?」と聞いてみる。「それは天使です」そくざに答えがかえって来た。「ここにも天使が一人いるわね」少女の肩に手を置き「それはあなたよ」とルミが微笑した。彼女は驚いたようにルミを見上げ、次の瞬間、天使のような清らかな笑みを見せた。
