薄暗い地下室の檻に

薄暗い地下室の檻に閉じ込められた子犬は、うずくまりじっとこちらを見ている。やせ細り皮膚はまだらにはげ、足なえのように動かない。まばたきをしない空洞のような目の片方が、流涙症にかかっている。それが生まれた時から地下檻に閉じ込められ、妊娠させ続けられた哀れなトイプードルのケリーだった。彼女の立場からすれば、悲しみの感情が瞳にでても良い筈なのにそれもなく、ただ空洞のような目を開け放しにしている。この映像をネットで見た時、マキは目からボロボロと涙を流した。誕生した時から空や木や花を感じる事もなく、餌缶、水缶、それに糞箱だけの檻の中で暮らし、生まれた子供はすぐに奪われ、次から次に妊娠しなければならなかったパピーミルでの地獄のような犬生。

21936740 - lonely dog in cage

自分と似ているなとマキは思った。連続妊娠と言う点だけは違うが。だがケリーは動物愛護団体に救い出された。薄暗い地下からやっと戸外に出た犬が、やるせなく目をしばたく姿。それがまた哀れを誘う。「ケリー、良かったね」とマキはつぶやく。それにしてもブリーダの卑劣なやり方、今すぐその子犬工場へ駆けつけ悪しきブリーダに往復ビンタを喰らわせ、鞭でしばたき尻を突き飛ばし檻に放り込み、鍵をかけたい衝動にかられた。そしてケリーを引き取り一緒に暮らす。だがそれが出来ない事情がマキにはあった。

 彼女の夫には愛人がいる。それも五年以上も続き家にはあまり帰らない。だが別居も離婚もしないのは、彼がマキの事をとても良く理解しているからだ。結婚当初の頃は、とてもミステリアスに見えたマキが単なる重症の発達障害者だと分かった時、彼は単に優しいだけの夫になった。肉体的な愛が消え去りだがプラトニックラブでもない、何か幼稚園の頃に読んだ、妹の童話本の中に出てくる不幸な姫を思いやるような気分。夫に歩み寄るすべも気力もないマキは、ふだん完全なる自分だけの世界にいるから、夫とは何のいさかいもない。だが本心では、自分は不幸な女だと思っている。

久しぶりに我が家に帰って来た夫にマキが言った。「この前、可愛そうな犬の動画を見たわ」「君は犬や猫の動画がとても好きだね、それで猫を飼ったりもしたじゃないか」と穏やかに彼が言う。ずいぶん前に猫を飼った事があるが、仕事で疲れた夫が帰ると、「猫がああ言った、こう言った」と彼女がやかましく言うので、「君は猫語がわかるのか!」とある日とうとう一喝されてしまった。ついに切れた夫に愛人が出来たのは、その後数ヶ月してからだった。その猫もどこかへ雲隠れ、もう帰って来ない。彼女は時々ふっと自分がどこにいるか分からなくなり、好きなネット動画を見てると時々その中に自分の姿を見てしまう。

三か月ほどたって、マキはまたあのケリーを検索した。ケリーの事を思い出したのは、散歩の途中の買い物で同種のトイプードルを見かけたからである。運転するのは、もう夫から止められている。検索するとあのケリーがその後引き取られ、飼い主にキスをし甘えている姿が見える。玩具に囲まれ女王のように気取っている姿、丸々と太って芝生を走る姿。先住犬にグルーミングされボーッとしている姿、新しい映像が次から次へと出て来た。マキはタブレットをばたりとしめ、目を閉じ唇を噛んだ。何だケリーは幸せなんじゃないか、私より幸せなんじゃないか。味方の兵士に裏切られたような気分だ。親切心にしっぺ返しされたような。彼女は私にも新しい飼い主が現れないかなと、ぼんやり思った。

54908600_l.jpg

 

コメントを残す