この花の名を

「この花の名を知っていますか?」と男に聞かれたので「知りません」と答えた。知らないものを知っていると言うほど、ずうずうしくはない。それに散歩がてらにその家の庭の前にたち、男に聞かれた花を見上げ、この花の名は?と自問していたのは私の方が先なのだ。花はどこか大ぶりの鉄砲ゆりに似て、上向きではなく下向きに咲き、背低い木にその花とこれも大ぶりの葉がうっそうと垂れ下っている。花も葉も枯れかかり、ひなびた色であたりを物悲しくさせている。

だがしかし、と男をちらりと横目で見た。何だこの男は?初対面なのになれなれしくそばに立ち、しかも微笑している。花の名を聞く男などは、裁縫の仕方を聞く男にも似てどこか女々しい。女々しくにも見えるのは、こいつがイケメンだからだ。長身、ハンサム、知性のフレグランス、めったにお目にかかれない三種の神器をそなえ、影のようにそばにいる。いたたまれず歩き出すと「またお会いしましよう」と背中に声をかけられた。馬鹿か利口か分からないこの男に胸をかき乱され、その夜は一時間くらいしか眠れず、あの花の名は?とふたたび考えもした。

次の日の午後、同じ時刻にまたあの場所に行くと、遅れてきた郵便配達を待つという格好で、男が路上に出ていた。「いやーまたお会いしましたね」わざとらしく愛想笑いをする彼に、無言でいると「昨日は花の名なぞきいたりして、変だと思ったでしょう。実は僕はこの家の家主なんです。でも自分の家の庭の花の名も知らないんですよ」「知らなくても別にいいんじゃないですか」と言って見た。「でも庭の花の名前も知らずに引っ越すのは、心残りで」「引っ越す?」それから私たちは長い立ち話をした。

男の話はこうだ。二年ほど前に結婚した妻が、交通事故であっけなく死んだ。愛してやまない妻だったので、一人この家に住み続けるのはとてもつらい。だがせめて彼女の好きだった花の名ぐらいは知って置きたいと言うのだ。彼女は花好きで、花に関しては広い知識を持っていたが、この花だけはどんなに調べても分からなかった、と男がうつむいた。私はもう一度家全体を眺めまわした。瀟洒で素敵な家である。白壁の数か所にある淡いブルーの飾り窓が物語風で、家のまわりをぐるりと縁取る狭い花壇は、さび色のレンガで囲まれ植えられた三色すみれが愛らしい。庭の中央寄りにはそれなりの小さな築山があり、シックなアレンジで植物が植えられている。「妻が作った庭なのです」男がうつむいた。だがガーデナーを無くした庭は全体的にさびれた感じで、100円眼鏡で見るようにくすんで見える。「この花の名が分かれば、天国の妻に知らせたいのです」男が悲しげに昨日の花の木を見上げた。それは昨日よりもさらにしょぼくれ生気がなかった。「天国の妻に?どうやって?」とは聞かず、知るか!と無言の返答をし横を向いた。と、その時、目の隅に今にも散りそうな、開きすぎた真っ赤なバラの花弁が見えた。それが私をせき立て「それじゃー」としっかり後ろ髪を引かれながら、また歩き出す。

まったく、この軽い嫉妬感は何なんだ。見知らぬしかも死んだ女にヤキモチ焼くなんて。男は何であんな話を私に?それにしても花の名前が分かりましたと、また訪ねれば良い訳だ。急がねば。一人暮らしの私に楽しみがまた一つふえた。

 37296431 - white wooden chair in the flowers garden.

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