あと十五メートル

あと十五メートル、いや十メートル、いや五メートルも行けば、またあの家族にでくわす。哲学的なオーラをあたりに放ち、不思議な微笑をまき散らす曲がり角の家族。贅肉の一片もない赤銅色の肌と良く光る目をした男、そして彼に寄り添う妻は、上品で奇麗なムードをベールのように被っている。だがそれ以上の存在は、いつも地べたに腹ばい世にも哀れな目で私を見上げる、あのドーベルマンである。哀れな目で私を見上げながら、実はその奥にすべてを見抜いた冷たい光を放ち、私をあわてふためかせるあのドーベルマン。哀れな目が彼自身を哀れむ目ではなく、私を哀れむ目だと理解した時の失意感。あざやかなつやつやとしたその黒い毛並みに、両方の耳をピンと立て、彼は人間の声を静かに聞いている。

三ヶ月前の事だった、いつものようにショッピングモールに徒歩で買い物に出かけた私は、そこに続く曲がり角で、このホームレスの一家に出くわした。中年の夫婦と黒い犬一匹。段ボールの破片に「GOD BLESS YOU  HUNGRY HOMELESS  PLEASE  HELP」と書かれたサインが犬の前にあった。私は私を見る犬に微笑んだ。すると男がざっくばらんに「とてもフレンドリーな犬ですよ、撫でてごらんなさい」と言う。よせばいいのに思わず犬の頭を撫でてしまった私の手を、ぺろぺろと彼がなめた。男はほほえみ、ほらねと言わんばかりにウインクした。せっつかれたように、私は犬の横に置かれたクッキーの空き缶に、あわてて二十ドル札を入れた。

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ホームレスの方々を私は常日頃、決して軽蔑したり、同情などもしていない。だが他にやり方はないのだろうかと不思議に思う。人間死ぬ気になれば何でも出来る。火事場の主婦はタンスをかつぐと言うではないか。プライドを金とひきかえと言う行為は、人生の投げ捨てだと思うけど。もちろん、「俺には俺の理由がある」とまなじりを決する方もいらっしゃるだろう。そういう人は除外する。ホームレスは楽しいと、明るく未来をとらえる方も除外の対象とする。曲がり角の家族は、職種の選択ならいくらでも出来そうな、立派な家族だった。

さてそれからは、モールへの曲がり角で犬の頭をなで、二十ドル札を空き缶にほうり込むという責務を負わされる事になり、今では夫婦と世間話をするまでになった、今日この頃の私である。二十ドル札を入れる時に感じる私のあの後ろめたさを、彼らが気づいているかどうかは知らない。だが聡明なあの犬だけは、知りぬいているのだ。

犬は会うたびにいつもの目で私を見上げる、あごを地べたにつけたまま。その目は多種多様のニュアンスを私に投げかける。“なんでここに来るんだ”“金なんかいらねーよ”“金持の振りして、お前が家じゃカップラーメンばっかり食ってるの、知ってるぞ”“偽善者ぶるお前が嫌なのさ”犬にそれ程の思考力があるかはともかく、物言わぬ犬のあなどれぬ沈黙、静謐さを私はおそれる。しかもこの冷徹で聡明な犬に次第に魅入られて行く私だった。ただ夢遊病者のように、曲がり角の家族を頻繁にたずねる私を、誰も止める事はできない。犬の頭をなで20ドルを缶に入れる度に、その日のノルマを果たしたと安堵する私だった。

だが、ある日こつ然と彼らは姿を消した。さよならも言わずに。それが誇り高きあの犬の「場所がえしよう」と言う鶴の一声で決まったものと、私は信じて疑わない。

 

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