あの女優がハリウッド

 あの女がハリウッドの女優だなんて嘘だ。あんな女がセレブだなんて信じがたい。年がら年中麦わら帽子にサングラス、薄汚れた白いロングドレスの腰をスカーフで縛り、ふらふらと歩く。ホームレスと一般人の境界線を、綱渡りするようなあの歩き方。気持ちの悪い女。

「あの人は一体何者?」以前、たまたま遊びに来ていた、同じアパートの住人に聞いたことがある。キッチンの窓から、すぐ前のサイドウォークを歩くその女が見えたのだ。車の往来の激しい通りで、時々騒音に吸い込まれそうになりながら、ふらふらと揺れるように歩く。ロングドレスのすそが地面を引きずっていた。「女優さんなのよ、ハリウッドのね。一時とても人気があったんだけど、今はさっぱり売れなくて、でもまだリタイアはしてない見たいよ」「幾つなの?」「さあー、そう言えばあなたも女優だったんでしょ、日本で」「まあね、私も売れなくなってロスに来たの、五年前にね」唇をねじまげ自嘲げに笑った。今の日本で私の事を覚えてる人間などもういない。外に目をやると沿道の女はかき消えていた。その向こうにある大海原が群青色の大マントを広げ、女を包み隠したのだ。後にその住人も東部に越し、他の誰かに聞いても皆、そんな女見たこともないと言った。彼女への不信感が徐々にノスタルジーに変わる。

View of the Hollywood Sign, in Hollywood, Los Angeles, Californi

 それから私は、日々奇妙な虚脱感に襲われうつうつとした。ただ時を無為に過ごし未来を考えるのが恐ろしく、引きこもり同然の生活を送った。部屋がごみ屋敷のようになり、そこを抜け出すために散歩に出かける。そしてまた見たのだ、あの幻の女を。彼女は海の見える高台の公園のベンチに、一人で座っていた。麦わら帽子を被って。

Summer hat

ほかに誰もいない。私はおそるおそる声をかけた。「隣に座ってもいいですか?」女は無表情に私をみたが、何も言わなかった。黙って隣に座った。あまずっぱいあんずのような匂いが、わずかに鼻をつく。手の甲の無数の斑点が、女を現実的にした。サングラスで目は見えないが、顔は紙のように白く、ただ真っ赤な口紅の色が哀れを誘う。声をかければ逃げ出されそうで黙っている。目の前には相変わらずの海原が茫々と広がり、燦々とふりそそぐ太陽にゆるやかなうねりを見せている。神話的なだが物悲しい光景だ。何かにすがりたい、抱きしめたいという奇妙な欲望で、ふと隣を見ると女の姿が消えていた。私はさらなる虚脱感で公園を後にした。

 それから半年ほどして、テレビのローカルニュースを見ていると、難病に悩まされたある女優が、近くの断崖絶壁から身を投げ、自殺をしたとあった。顔写真が出て、しわの刻まれたその白人女性の顔は、麦わら帽子とサングラスを取った、あの女の顔そっくりだった。起こるべきして起きたこの事件を、私は甘受した。

 波打ち際を歩くと、言い知れぬ神の優しさに触れる事を知ったのは、偶然の出来事だったろうか。歩けばくるぶしにひた寄せるさざ波の優しさに、私は涙した。来る日も来る日も裸足で波とたわむれに行く日々。ある日向こうから同じ波打ち際を、一人の女が歩いてきた。私は興奮を押さえきれず小走りに近寄り、力いっぱい抱きしめた。「やっぱりあなたじゃなかったのね!自殺した女優と言うのは!生きていたのね、生きているのね、あなたは!」。彼女はにこりともせず、するりと私の腕をすり抜けた。またもや深い哀しみにくれ家路をたどる。途中立ち止まり、何げなく通りのウインドウを見ると、そこには麦わら帽子、サングラス、白いドレスの女が、まぼろしのように立っていた。それが自分自身だと分かるまで数秒を要した。

19194588 - beautiful coastline in big sur,california

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